第46話 呼びかけた夜
シオンと並んで歩く祖父の姿が見えたのは、ポルフィラが鍛冶場へ水を運んでいるときだった。
ポルフィラに気づくと、シオンは足を緩めた。
「あとで、家へ寄ってもいい?」
「うん。父さんに伝えることある?」
「うちの刃物のこと。母さんから、急がなくていいって言っておいてと頼まれた」
祖父が立ち止まったので、シオンは籠を脇へ抱え直した。
「先にこれを置いてくる」
二人を見送ると、鍛冶場からドランが顔を出した。ポルフィラが用事を伝えるあいだ、父も道の方へ目を向けていた。誰かと一緒に家へ帰る姿を見て、少し安心したようだった。
*
その夜、ポルフィラは寝床で、今日シオンと話したことを思い返していた。家の仕事の話をして、次に会うときのことも話せた。王領の村の知らせを聞いてから、友達と別れるときには、また会えるよねと言いたくなっていた。
目を閉じると、以前の夢で見た瞳を思い出した。鱗の色はもう曖昧だったが、自分を見つめる目が怖くなかったことは覚えている。
今夜も会えるだろうか。
そう思ったまま、いつ眠ったのか分からなくなった。
*
低い息の音に、ポルフィラは顔を上げた。
大きな黒いものが、すぐそばにあった。鱗の一枚に薄い光がかかり、奥で瞳が開く。前に見たときと同じように、その目はポルフィラへ向けられていた。
近づけば手が届きそうだったが、今日はその場で足を止めた。呼吸の音を聞きながら、自分も息を吸う。
「私、ポルフィラ」
言ってから、少し恥ずかしくなった。相手が言葉を分かるかどうかも知らない。それでも、見つめられたまま黙っているより、自分の名を聞いてほしかった。
瞳の上で、硬い鱗がゆっくり動いた。大きな顔が低くなり、その目がポルフィラの目の高さへ近づいてくる。
逃げようとは思わなかったが、思わず一歩下がった。すると、顔はそれ以上近づいてこなかった。ポルフィラは足を止めたまま見返し尋ねた。
「あなたは?」
答えは聞こえなかった。
ポルフィラは待った。自分の名前を言ったように、相手も何か教えてくれる気がした。けれど、目の前の生き物は深く息を吐いただけだった。
「お話、できないの?」
また、声は返ってこなかった。
「ここにいても、いい?」
大きな瞳が一度閉じ、ゆっくり開いた。それを返事だと思ったのは、自分がそう思いたかったからかもしれない。
それでも、ポルフィラはそばへ座った。見上げていた目が近くにある。
ポルフィラはそっと手を伸ばした。黒い鱗へ掌を置くと、深い息が吐かれる。硬い表面の下にある温かさに触れて、肩から力が抜けた。
今日は、名前を聞いてもらえた。
本当に言葉が分かったかどうかは、知らない。ただ、ポルフィラはさっきよりも、その目を近くに感じていた。
*
目が覚めたとき、窓の外はまだ薄暗かった。
ポルフィラは寝床から起き上がり、手を膝へ置いた。昨日までなら、何を見たかをほとんど思い出せずにいた。今朝は、夢の中で自分が言った言葉を覚えていた。
私、ポルフィラ。
小さく口を動かすと、扉の向こうで母の足音が止まった。
「起きてるの?」
返事をすると、ミレアが入ってきた。
「また、夢を見た?」
「うん。今日は、私から話しかけたの」
名前を言ったことと、生き物が顔を低くしたことを話した。言葉が返ってこなかったことも伝える。
「聞いてくれてたみたいだった。でも、私が夢の中でそう思っただけかもしれない」
ミレアは娘の手へ触れた。冷えてはいなかったが、ポルフィラは母の温かい指を握った。
「怖くて起きたんじゃないのね」
「うん。目が覚めたら、いなくなってたから……もう少し、そばにいたかったなって」
ミレアはすぐには答えず、握られた手をそのままにしていた。ポルフィラの方から手を緩めると、そっと指を離す。
「父さんにも、今の話を聞いてもらおう。朝ごはんのあとでね」
母が部屋を出たあと、ポルフィラは胸元の袋へ手を添えた。布の下に、いつもの石の形がある。夢の生き物が顔を寄せてきたことと、この石に何か関係があるのかは、まだ分からなかった。
ポルフィラは袋から手を離し、寝床を整えた。夢の中にいたあいだ、家を離れているつもりはなかった。それなのに今朝は、誰かのそばから帰ってきたような気がしていた。




