第39話 戸を閉めても
第39話 戸を閉めても
王領の村では、エナが幼い娘を呼びに外へ出たところだった。隣の家の前で遊んでいた娘が、空を指している。
「お母さん、鳥」
エナは見上げた。
白いものが、夕暮れの空を降りてきた。鳥にしては大きすぎる。翼の間に馬の頭が見え、その背に人が乗っていた。
娘を抱き寄せたとき、風が来た。干していた布が竿から飛び、道の砂が顔へ打ちつけられる。エナは娘の顔を胸へ押しつけ、家の壁に背を寄せた。
白い天馬は、村の入口に降りた。
畑から戻っていた者たちが立ち止まる。見たことのある者もない者も、その大きさの前では動けなかった。騎手の赤い外套には、王家の天馬の紋章が縫い取られていた。
セヴェランは鞍の上から呼んだ。
「この村をまとめる者は、出てこい」
村長が、杖を置いて歩み出た。腰を曲げ、土で汚れた両手を前へ揃える。
「何の御用でしょうか」
「納付を減らしてよいとは、言われていないはずだ」
村長の顔から血の気が引いた。
「申し訳ありません。残りは、次の収穫で必ずお納めします。今ある分まで出せば、食べる物がなくなってしまいます」
セヴェランは村の家々を見渡した。
「残した物を、ここへ運べ」
村長は口を開きかけ、閉じた。後ろに集まった村人たちの間で、誰かが子供を家へ入れるよう囁いた。エナも娘を抱えたまま戸口へ戻った。夫が畑道から駆けてくる。
「中へ入れ」
エナは娘を下ろし、寝床のそばに座らせた。
「ここで待っていて。すぐ戻るから」
戸を閉める前に振り返ると、夫は村長のそばへ向かっていた。
やがて、家々から袋や籠が運び出された。袋を下ろした男が、口を結ぶ縄から手を離せずにいる。女がその腕を引き、二人で下がった。
村長が頭を下げた。
「これだけです。どうか、子供たちに食べさせる分だけでも、お残しください」
セヴェランは天馬から下りた。鞍の横の足掛けを使い、最後は土へ飛び下りる。アルディスは首を下げ、セヴェランの動きを目で追った。
セヴェランは袋を一つ開けた。手を入れ、掴んだ麦を足元へ落とす。
「あるではないか」
村長が膝をついた。
「それは、種にする分です」
「種にすれば増える。そうして来年も、自分たちで残す分を決めるのか」
セヴェランは袋を蹴り倒した。乾いた麦が土へこぼれ、村長は思わず手を伸ばした。その手を、革の長靴が踏んだ。
戸の隙間から見ていたエナは、息を止めた。村長のそばにいた夫が、一歩前へ出る。
「おやめください。その方は、あなたに何も――」
セヴェランが剣を抜いた。
夫は身を引いたが、間に合わなかった。肩を押さえて膝をつき、指の間から血が落ちる。
エナは戸を開けた。
「あなた!」
セヴェランは彼女へ顔を向けた。そこへ、村人の一人が飛びついた。夫を斬った剣を持つ腕へ、両手を伸ばしていた。
白い翼が動いた。
短く、鋭い音が重なった。セヴェランへ伸ばされた男の両腕が、身体から切り離されて落ちた。もう一筋が胴を横切り、男の身体は上下に分かれて倒れた。
剣は動くこともなかった。
アルディスが放った風の刃は、男を切断してなお、背後の板壁と柱を断った。屋根が片側へ傾き、家の中にいた女の叫びを押し潰した。
アルディスはセヴェランの前へ出ていた。セヴェランを守るように翼を半ば広げ、地面を踏みしめている。首を巡らせた目が、壊れた家へ向いた。
セヴェランは、剣を下ろした。
「王家へ手を出したな」
誰も答えなかった。壁の下から呻き声がした。村長は踏まれた手を胸へ抱え、震えている。
エナは夫の腕を肩へ回した。
「立てる? 家へ戻ろう」
夫が頷くより先に、セヴェランがこちらへ歩いてきた。
エナは夫を背にかばった。剣の先が近づく。戸口では娘が泣き始めていた。
「来ないでください」
セヴェランは足を止めなかった。
夫が、足元の石を掴んだ。
投げた石が届く前に、アルディスが大きく翼を打った。
突風に押し倒され、エナは夫とともに地面へ転がった。砂を吸い込み、咳き込みながら家の方へ顔を向けた。
戸板が外れて飛んだ。壁も吹き飛ばされ、残った柱が折れる。娘のいる部屋へ、屋根が崩れ落ちた。
泣き声が途切れた。
土煙の向こうに、もう戸口はなかった。さっきまで娘が座っていた場所は、折れた木と屋根の藁に埋まっていた。
エナは這って近づいた。
「まだ中にいる! 娘が!」
屋根を支えていた太い梁が、目の前を塞いでいた。エナはその下をのぞき込もうとしたが、重なった木と土に遮られ、何も見えなかった。
エナは梁へ手を掛けた。持ち上がらない。隙間へ指を差し入れ、何度も娘の名を呼んだ。
隣の男が駆け寄り、梁の反対側を掴んだ。
「一緒に上げるぞ」
二人で力を込めたとき、男が顔を上げた。エナも振り返る。
セヴェランが剣を持ったまま、家と家の間を歩いていた。逃げようとする村人の前へ立ち、引き返した者を追う。白い天馬が、そのすぐ後ろをついていく。
納屋の前で、男が妻をかばって鍬を持ち上げた。
アルディスが翼を打った。
細く絞られた風が、鍬の柄と男の胴を一緒に断ち切った。男は妻の前へ倒れ、女は悲鳴を上げて手を伸ばした。別の風が納屋の扉と柱を切り、夫に縋った女の上へ屋根が落ちた。
アルディスの翼がさらに広がった。吹きつけた風が、落ちた屋根も二人の身体も道の奥へ押し流す。納屋の隣にあった石組みの井戸が崩れ、重い石が地面を跳ねた。
家々の間に、人の叫びと木の裂ける音が重なった。
セヴェランは、振り返って白い天馬を見た。
この天馬は、言葉を返さない。だが、自分へ刃や石が向けば、必ず動いた。
彼は、畑へ逃げようとする者たちの方へ歩き出した。
道の先で、老人が転んだ。抱いていた孫を若い女へ渡し、行けと手を振る。セヴェランがその横を通りかけると、老人は外套の裾を掴んだ。
「子供だけは……」
セヴェランは剣を持ち直した。若い女が孫を抱き締め、老人の前へ戻ってくる。
セヴェランが剣を振り上げると、老人はその腕へしがみついた。
鋭い風が老人の身体を斜めに断った。セヴェランの腕から手が滑り落ちる。次の突風が倒れた老人をさらい、若い女も子供も、道の脇の柵へ叩きつけた。杭が折れ、その向こうへ三人の身体が転がる。
エナは瓦礫の前で目を閉じた。閉じても、音は消えなかった。
誰かが逃げろと叫んでいた。母を呼ぶ声に、助けに戻った者の声が重なる。次の風が家の間を抜けると、どちらの声も聞こえなくなった。
まだ立っていた家に、人々が集まった。扉を押さえ、窓の前へ箱を積む。その外で、逃げ遅れた男がセヴェランへ棒を振り上げた。
棒を持つ男へ、鋭い風が立て続けに走った。腕も脚も切断され、男は棒を握った手と離れて地面へ落ちた。風の刃は背後の窓枠と柱まで切り抜けた。
続く暴風が、家の正面を吹き飛ばした。扉を押さえていた人々は、戸板も箱もろとも部屋の奥へ叩きつけられた。剥がれた屋根が隣の家へぶつかり、二軒が続けて崩れる。
土煙の下で、誰かが子供を抱え直そうとしていた。手を伸ばした先へ梁が落ち、それきり身体を起こさなかった。
戸を閉めても、壁に身を寄せても、逃げ込む先ごと壊された。
*
アルディスは、もうセヴェランについていきたくなかった。
倒れた人々の向こうに、小さな手が見えた。壊れた戸の下から伸びて、動かなくなっている。セヴェランが剣を抜かなければ、あの家はまだ立っていた。
だが、セヴェランへ向けて鍬が振り上げられた瞬間、アルディスの身体はセヴェランを守ろうと動いていた。
その鍬がセヴェランに届けばよいと願っていたのに。
相手を捉えた鋭い風は、ひと振りで幾筋にも分かれた。人の身体を断ち、その後ろの壁や柱まで切り抜けた。大きく翼を打てば、逃げ込んだ家そのものが吹き飛んだ。アルディスは顔を上げた。セヴェランは、まだ立っている家の間へ入っていく。
逃げてほしかった。
セヴェランの手の届かないところへ。自分の翼からも、遠いところへ。
*
日が落ちても、エナは娘を呼んでいた。
梁をずらし、ようやく引き出した身体は、いつものように腕の中へ収まった。頬についている土を拭い、額へ口を寄せる。目を開けない。胸へ耳を押し当てても、何も聞こえなかった。
夫が、傷ついた肩を押さえてそばへ座った。
エナは顔を上げた。
「私が、家に入れたの」
夫は娘の背へ手を添えた。
「おまえのせいじゃない」
夫の声が震えていた。エナは娘の頬を撫で、もう一度名前を呼んだ。
ここで待っていて。すぐ戻るから。
そう言って戸を閉めたばかりだった。怖がりながらも、娘は頷いていた。エナはその顔を思い出し、抱いている娘を見た。もう目を開けないことを、どうしても受け入れられなかった。
土を踏む音が近づいた。
セヴェランが、二人の前へ来た。剣の刃から血が落ちる。エナの夫は娘の背から手を離し、立ち上がろうとした。
「この二人は、何もしていません」
セヴェランは答えなかった。
夫がエナの前へ身を寄せたとき、剣が動いた。エナは娘を抱いたまま、倒れてきた夫を受け止めた。血が膝へ広がる。夫の手が娘の服を掴み、やがて力を失った。
エナは動けなかった。
少し離れたところで、まだ息のある者が瓦礫を押していた。セヴェランはそちらへ向かった。助けを求める声のあとに、短い悲鳴が上がった。
壊れ残った家にも入り、戸の陰や寝床の下を確かめて回った。
エナは耳を塞ごうとして、できなかった。片腕に娘がいる。もう一方の手は、夫の服を離せなかった。
やがて、村のどこからも呼ぶ声がしなくなった。
道には、運び出した食糧が散っていた。麦も豆も、割れた器も、倒れた人々も、土と血にまみれていた。家族を掘り出そうとしていた者は、伸ばした手を瓦礫へ掛けたまま動かない。
セヴェランは、若い男と、年配の女を道の端へ立たせていた。最後にエナを指した。
「立て」
エナは返事をしなかった。
セヴェランが剣の先を娘へ向けた。
「置いていけ」
エナは娘を抱き締めた。若い男が近づき、彼女の肩へ手を置いた。何か言おうとしていたが、唇が震えて声にならない。
セヴェランが、もう一度命じた。
「隣の村へ行け。王家の命令に従わなければ、どうなるか伝えろ」
エナはようやく顔を上げた。男の腕に血がついている。年配の女は片足に体重をかけられず、折れた棒を杖にしていた。
立っている村人は、その二人だけだった。
エナは娘を夫のそばへ寝かせた。小さな手を夫の手へ重ね、ほどけていた服の紐を結んだ。結び終えても、指を離せなかった。
若い男が、彼女の腕を支えた。
エナは立ち上がった。
三人が村の入口へ向かうと、セヴェランはアルディスの背へ戻った。
「戻るぞ」
白い天馬は、しばらく動かなかった。エナが振り返ると、その目がこちらへ向いていた。顔を背け、若い男に支えられながら歩き続けた。
背後で翼が開く音がした。
エナは足を止めた。若い男も、杖をついた女も、その場へ身を縮めた。
風は頭の上を過ぎていった。白い巨体が空へ上がり、村から遠ざかる。
誰も、助かったとは言わなかった。
朝には、あの家々に人がいた。鍋から湯気が上がり、畑へ出る者が声を掛け合っていた。日が暮れた村から歩いて出るのは、三人だけだった。




