第38話 白い翼の行く先
王領の役所から戻った家臣は、レオノーラたちの前で書類を開いた。不作を訴えた村の願いは、役所に残っていた。納付を減らしてほしいという願いも、残りを春まで待ってほしいという願いも、認められていない。
クラウスが尋ねた。
「納めたあとに、食べる物は残るのか」
家臣は書類へ目を落とした。
「村の申し出どおりであれば、冬を越す分が足りません」
テオバルトは椅子から立った。
「納めても飢える。残せば罰を受ける。これでは、どうしろというのだ」
レオノーラは外套を取った。
「セヴェランが出る前に、話をするわ」
三人が庭へ戻ると、白い天馬のそばに護衛が集まっていた。アルディスの背には鞍が載せられ、長い翼は身体に沿って畳まれている。白い毛並みは夕方の光を受けて柔らかく見えたが、その足元に立つ兵は、腹の下にも届かないほど小さかった。
騎乗台へ向かっていた男が、こちらを振り返った。
セヴェラン・ルベリオンは、兄とよく似た淡い青の瞳をしていた。白に近い金髪を後ろへ流し、赤い外套の下に身体へ合わせた革の上着を着ている。兄より細い顎と、笑っていない薄い唇が、面長の顔を冷たく見せていた。
レオノーラが近づいた。
「その村のことで、お話があります」
セヴェランは足を止めた。
「役所へ人を出したそうだな」
「食べる分を残した村でしょう。納めれば冬を越せないと、何度も訴えています」
「減免は認められなかった。それでも、自分たちの分を取った」
クラウスが口を開いた。
「働く者が飢えれば、来年の納付もできなくなります。まず、残した量を確かめてはどうですか」
セヴェランは彼を見た。
「確かめたから、呼ばれたのだ。命令を知っていて従わなかった」
レオノーラは白い天馬へ目を向けた。アルディスは首を上げ、離れたところから彼女を見ている。その目は、ノクスの目によく似ていた。
レオノーラはセヴェランへ視線を戻した。
「不足分を補えれば、村へ向かう必要はなくなりますか」
テオバルトが隣へ進んだ。
「こちらから出せる物を調べる。食糧なら、王領の倉から回して、あとで我々が補う方法もあるだろう」
セヴェランは二人を見比べた。
「おまえたちが代わりに納めるのか」
「村を罰しても、不作だった畑から収穫は増えません」
レオノーラは答えた。
「足りない物を集めるだけなら、役所の仕事で済む」
セヴェランは騎乗台へ手を掛けた。
「陛下がお怒りなのは、村が勝手に納める量を決めたことだ。ほかの村も同じことを始めれば、どうなる」
テオバルトの声が低くなった。
「だから、天馬を向かわせるのか」
「一つの村で済むうちに、従わぬ者がどうなるか教える」
護衛の一人が、三人へ脇に退くよう促した。レオノーラは動かなかった。
「そこには、子供もいます」
セヴェランは、彼女の顔を見た。
「ならば、親が命令に従えばよかった」
レオノーラのそばで、クラウスが息を吸った。だが、言葉を返すより先に、セヴェランは台を上がり、アルディスへ乗った。
白い天馬の耳が後ろへ向いた。大きな瞳はレオノーラから離れ、庭の石畳へ伏せられた。セヴェランはその顔を見ず、足元の護衛へ告げた。
「陛下には、日が落ちる前に出たと伝えろ」
世話係が離れた。レオノーラはクラウスに腕を引かれ、回廊の柱まで下がった。
アルディスが翼を開いた。
白い羽が庭を覆うほど広がり、最初の羽ばたきで砂が石畳を走った。レオノーラは外套を押さえた。次の風が柱を回り込み、護衛の一人が壁へ手をつく。白い巨体は騎乗台の上を越え、城壁より高く上がっていった。
アルディスは、現存する天馬の中で最も弱い。それでも、飛び立つ風だけで兵がよろめいた。あの力を村へ向けられたら、木の家に逃げ込んでも身を守れない。レオノーラは、風の吹き抜けた庭から目を上げた。
クラウスが腕を離した。レオノーラは飛び去る白い姿を見上げたまま、唇を結んでいた。自分たちが話をしている間にも、向こうでは夕食の支度をしている者がいるはずだった。
テオバルトが家臣を呼んだ。
「王領の役所へ戻れ。あの村から逃げてきた者がいれば、追い返さず知らせるよう頼め」
家臣が走り出すと、レオノーラも自分の家臣へ向き直った。
「私たちは、まだここに残るわ」
*
ポルフィラが帰ったとき、ミレアは鍋を火から下ろすところだった。娘の頬についていた土に気づき、布を渡す。
「リナのところへ寄ってきたの?」
「うん。芋を運ぶのを手伝ったら、これをくれた」
籠には、小ぶりの芋が幾つか入っていた。母はそれを受け取り、明日の食事に使おうと言った。ポルフィラが手を洗って戻ると、ドランも鍛冶場から入ってきた。
食事の途中、ポルフィラはリナが泥に足を取られ、靴が脱げてしまった話をした。靴を拾おうとかがんだリナに手を貸したら、二人とも足を滑らせて尻もちをついた。
ドランが笑うと、ポルフィラもつられて笑った。ミレアは娘の服の裾を見た。
「それで、こんなに泥がついたのね」
ポルフィラはうなずいた。
「リナのお母さんが靴を拾ってくれたの。私たちが転んだところを見てたんだって」
話していると、リナの母親が笑いながら二人の泥を払ってくれたときのことが浮かんだ。ポルフィラの緩んだ靴紐にも気づき、ほどけないよう結び直してくれた。幼いころから、何度も世話を焼いてくれた人だった。
自分を産んだ人のことを知らなくても、この村で育ってきた日々まで、違うものになったわけではない。リナに話したあとも、その母親の手は、いつもの手だった。
ポルフィラは、椀の向こうにいる両親を見た。ドランはまだ泥に埋まった靴の話をしていた。ミレアは笑いながら、父の椀へ煮物を足している。ポルフィラも、椀に残っていた煮物を口へ運んだ。
その夜、眠りに落ちる前に、胸元の袋が肌へ触れた。寝返りを打ち、袋が身体の下へ入らないよう、少し脇へ寄せる。
眠りに落ちたポルフィラは、夢の中で暗闇に立っていた。
近くで、ゆっくりと息を吐く音がした。姿は見えない。それでも、その深い息遣いを聞いていると、自分よりはるかに大きな何かが、すぐそばにいる気がした。
暗闇の中で、瞳が開いた。
黒く見えたその奥に、紫があった。
ポルフィラは逃げなかった。近づきたいと思ったのか、それとも、向こうが自分を見ていることがうれしかったのか、分からなかった。ただ、その目から顔をそらせずにいた。
手を伸ばしかけると、瞳は静かに閉じた。
翌朝、窓の外で誰かが桶を置く音がした。ポルフィラは目を開け、しばらく天井を見ていた。何か夢を見た気がする。目覚める直前まで、誰かがそばにいたような気もした。
どんな姿だったのか、思い出せなかった。
台所へ出ると、ミレアが振り返った。
「よく眠れた?」
「うん」
ポルフィラは答えてから、母のそばへ行った。
「何か夢を見たんだけど、忘れちゃった」
ミレアは娘の顔を見た。
「怖い夢だった?」
ポルフィラは首を振った。思い出せないのに、それだけは答えられた。
「怖くはなかったよ」




