第37話 失った翼
会合が終わっても、レオノーラはすぐには席を立たなかった。ユリウスたちが出ていくのを見送り、書状を手にクラウスへ近づく。
「少し話せる?」
席を立ったテオバルトが、二人のそばへ来た。
「私も一緒でいいか。町の職人の件は、もう少し話しておきたい」
クラウスはうなずき、王都滞在中に使う部屋へ二人を案内した。家臣に外で待つよう告げると、レオノーラは机に書状を広げた。
「村の納付を減らした分は、どうするつもり?」
クラウスは答えた。
「当面は、足りない分を私の蓄えから出す。城のために使う物を、いくらか回せるはずだ」
クラウスは外套を椅子へ掛けた。
「倉へ呼ばれる者の家族に、その分を働かせたのでは意味がない」
レオノーラはうなずいた。
「それなら、他の村へ押しつけずに済むわ。ただ、呼び出しが増えれば、あなたの蓄えだけでは続かない」
「分かっている。町の者で直せる仕事まで、村へ回すことは認めない。今回のように、現場へ行かなければ直せない物だけだ」
テオバルトが椅子の背へ手を置いた。
「町の職人を増やす手も、役所に考えさせたほうがいい。村に頼るやり方だけが残れば、いつまでも蓄えを出すことになる」
「それも調べさせる」
クラウスの答えに、レオノーラもうなずいた。
「こちらで同じことが起きたら、まずそのやり方を試すわ。村の者を呼ぶほうが楽だと、役所に思わせてはいけないわね」
クラウスは書状を畳み、帰ってから出す指示の書類と一緒にした。レオノーラは窓辺へ移った。下の庭では、荷を運ぶ者が、通りかかった貴族を避けて立ち止まっている。
「あなたが仕事の話に戻さなければ、あの場では、何も決まらなかったでしょうね」
クラウスは机の端へ手を置いた。
「私が話したかったのは、あれだけではない」
レオノーラが振り向くと、テオバルトも彼を見ていた。
「殴られて痛いのは、私たちと同じだ。それを言っても、陛下には話が通じない」
「そうね」
短く答えてから、レオノーラは彼の顔を見た。
「あなたのお父上がいたころは、三家で揃って話すだけでも、王家はもっと耳を傾けたわ」
クラウスは息を吐いた。
「父を失ったとき、天馬も失った。領地も兵も継いだが、あの力は継げなかった」
父の死から九年が経っていた。加護を得る者が新しく現れればと願っても、望む人間に天馬が繋がってくれるわけではない。ヴェルディア家の旗に描かれた翼は、いま、城のどこにもなかった。
レオノーラは机へ戻った。
「ヴェスペラがいるからといって、私一人で王家を抑えられるわけでもない」
テオバルトが低い声で言った。
「こちらにはシルヴァがいる。だが、二頭を合わせても、ノクスとアルディスに勝てると言い切れん。アウレリスのソレインが王家につけば、なおさらだ」
レオノーラは彼へ顔を向けた。
「勝てるかもしれない、という見込みだけで動ける話ではないわね」
「守るべき者を失ってからでは遅い」
テオバルトは、机の書類へ目を落とした。
クラウスは頷いた。
「それでも、今日は来てくれて助かった」
「あなたの領地だけの話ではないもの」
レオノーラは書状から手を離した。
「帰ったら、実際にどうなったか知らせて。私も、こちらで変えられることは変える」
テオバルトも、帰ったあとに領内の仕事を確かめると約束した。クラウスは扉を開け、家臣に書類を預けた。三人は一緒に部屋を出た。
*
中庭へ下りる途中、レオノーラは、向かいの庭に灰色の翼を見つけた。
インディル家のシルヴァだった。首を低くし、そばに立つ加護者へ鼻先を寄せている。ヴェスペラより明るい灰色の毛並みに陽が当たり、折り畳んだ翼の縁が淡く光った。
テオバルトが足を緩めた。
「待たせてしまったな」
シルヴァと繋がっているのは、同行したインディル家の一族の者だった。テオバルト自身は加護を持たず、旅には馬車を使う。一族の天馬がいることは心強くても、彼自身がその背へ乗って意のままに飛べるわけではなかった。
シルヴァは、こちらを歩く人々へ目を向けた。穏やかな視線が、テオバルトからレオノーラへ移る。そばの加護者が首へ手を添えると、また静かに顔を寄せた。
クラウスはその姿を一度見て、歩き出した。レオノーラとテオバルトも続く。回廊の角を曲がったところで、王家の護衛が三人の前へ進み出た。
「少々お待ちください。陛下がお出ましになります」
三人は脇へ退いた。レオノーラは、護衛の向こうにある庭を見下ろした。
奥に、黒い天馬がいた。
ノクスだった。
ヴェスペラも大きい。だが、目の前の天馬は、首の厚みと胸の幅がさらに際立っていた。黒い翼は、畳まれていても庭の石像より高いところまで届く。身体を動かすたびに肩の筋肉が盛り上がり、近くにいる世話係がひどく小さく見えた。
レオノーラが足を止めたままでいると、ノクスが首を向けた。こちらの動きを静かに追う目には、深い知性と、悲しみが湛えられていた。レオノーラは、その視線を受けて息を詰めた。ノクスはしばらく彼女を見つめ、それからゆっくりまぶたを下ろした。
あの翼から放たれる風は、盾を持つ兵の列さえ崩す。ヴェスペラで空へ逃れたとしても、追われれば振り切れるとは限らない。
庭の向こうからヴァルテルが来た。
「ノクス」
黒い天馬は国王へ顔を戻した。レオノーラは二人と柱のそばで待ち、護衛が先へ進むのを見送った。ヴァルテルが騎乗の台へ上がりかけたところで、一人の役人が足早に追いつく。
「陛下。王領の村について、追加の報告が届いております」
国王は足を止めた。
「また納付の件か」
「はい。減免は認めないと伝えた村です。届いた量を確かめましたが、指定の量に足りません」
役人は書類を差し出した。国王のそばまで進むことはできず、護衛が受け取って渡す。
ヴァルテルは一枚目を見た。
「何と言っている」
「不作のため、食べる分と、次にまく種を残したと」
レオノーラは外套の内側で手を握った。先ほどの会合では、村の仕事を減らしても、王都への納付は変えないと言われた。王家自身の村が納付の量を守らなければ………
ヴァルテルは書類を返した。
「認めないと言ったあとで、自分たちの分を先に取ったのか」
「そのように報告されています」
国王はノクスの首へ手を置いた。黒い天馬は動かず、その手を受けていた。ヴァルテルは、その目に残る悲しみへ視線を向けることもなく、役人へ命じた。
「セヴェランを呼べ。村には、納め終えるまで待つとは伝えるな」
役人が頭を下げた。国王の弟の名を聞いて、レオノーラは庭から目を離せなくなった。
セヴェラン・ルベリオンには、白い天馬アルディスがいる。ノクスよりも、ヴェスペラよりも弱い天馬だった。
だが、武器を持たない村人たちには、その違いに何の意味があるだろう。
護衛が戻り、回廊の先を示した。三人は礼を返し、庭から離れた。
人のいない曲がり角で、テオバルトが足を止めた。
「いまの話は、聞き捨てにできん」
クラウスがうなずいた。
「村へ弟を向かわせるつもりなのかもしれない。だが、まだ何をさせるかは聞いていない」
レオノーラは二人を見た。
「私、今日の出発は取りやめる。どの村で何が起きているのか、まず王領の役所に確かめるわ」
「私も残る」
テオバルトが答え、クラウスも家臣へ出発を延ばすよう告げた。
王家が自分の領地をどう扱うかは、三人の決められることではない。それでも、弟の名を聞いたまま、それぞれの城へ戻る気にはなれなかった。
レオノーラは二人と別れ、ヴェスペラの待つ庭へ入った。飛び立つ支度をしていた世話係に、今日の出発は取りやめると告げる。
近づいて首へ手を添えると、ヴェスペラが静かに顔を寄せた。
〈あれらは悲しんでいる〉
声は、庭には響かなかった。言葉が、レオノーラの心へ直接届いた。
ノクスの目が思い浮かぶ。大きな力を持つあの天馬は、国王がそばにいても、悲しみを湛えていた。
レオノーラはヴェスペラを見上げた。
〈ノクスたちのことね。陛下は、あの悲しみを知らないの?〉
ヴェスペラは、国王のいた庭の方へ目を向けた。
〈ノクスは、あの男に心を閉ざした。いまは、言葉も届かない〉
レオノーラは、ノクスの首へ手を置いた国王を思い出した。あの悲しい目を、一度も見ようとはしていなかった。
そばの世話係が馬具を片づけている。レオノーラはその音を聞きながら、ヴェスペラの毛並みをゆっくりなでた。
〈話してくれて、ありがとう〉
ヴェスペラが鼻先を寄せた。レオノーラはそのそばに立ち、しばらく手を離さなかった。




