第33話 夢に残る瞳
暗がりの中に、何かがいた。
ポルフィラは立ち止まった。輪郭は見えない。ただ、こちらを向いた瞳が二つある。黒く見えたその奥に、光を受けたような深い紫が浮かんだ。
人の目ではなかった。ずっと大きな何かが、自分を見ている。
逃げようとは思わなかった。目をそらさずにいると、相手も動かなかった。
そこで、目が覚めた。
窓の外が明るくなり始めていた。ポルフィラは寝床の中で、今見ていたものを思い出そうとした。どこにいたのか、何をしていたのか。考えるほど、夢は遠のいていく。
誰かに見られていた。それだけは、まだ覚えていた。
身を起こすと、服の内側の袋が胸に触れた。留め具を確かめ、寝床から下りる。母はもう起きて、食事の支度をしていた。
「おはよう」
ポルフィラは母の隣で椀を取った。
「変な夢を見たの」
ミレアが顔を向けた。
「怖い夢?」
「怖くはなかったと思う。誰かが見ていたんだけど……もう、よく思い出せない」
ミレアは娘の顔を見た。
「夜中に目が覚めたの? ちゃんと眠れた?」
「うん。起きたのは、さっき。眠れたよ」
「それならよかった。まだ眠かったら、無理しないでね」
ミレアは温めた食べ物を椀へよそった。
「さあ、食べましょう。今日は運ぶ物が多いから」
ポルフィラは席についた。父が入ってきて、今日の仕事を話し始める。聞いているうちに、夢の中で何を見たのかは、もう分からなくなっていた。
*
昼前、ポルフィラは修理を終えた農具を、トーマの家へ届けた。戸口で声を掛けると、庭の奥からトーマが来た。以前は同じくらいだった背が、今は彼女より少し高い。肩も広くなっていたが、穏やかな目元と、相手の話を聞くときに口を結ぶ癖は変わらなかった。短い茶色の髪には、作業中についた細い枯れ草が絡んでいた。
「重かっただろ。ここへ置いて」
トーマは受け取り、納屋の壁へ立て掛けた。
「母さん。ドランおじさんが直してくれたよ」
母親が籠を置いて来た。
「ありがとう。お父さんにも、助かったと伝えてね」
「はい」
ポルフィラが答えると、庭にいた妹が近づいた。
「ポルフィラも、大人になったんだってね」
「一人分に数えられるようになったの」
妹は兄へ顔を向けた。
「じゃあ、もう仕事、いっぱいできるの?」
トーマは少し笑った。
「大人になったからって、すぐに父さんや母さんと同じ仕事を全部できるわけじゃないよ」
ポルフィラも笑った。十五歳になった日に、母からも同じことを言われていた。
トーマの母親が、二人へ籠を渡した。
「帰る前に、これを軒下へ運んでもらえる? 雨が来る前にしまっておきたいの」
乾かした豆の入った籠を、ポルフィラとトーマで持った。妹が先に走り、邪魔になっていた空の籠をどける。二人は軒下まで運び、ゆっくり下ろした。
トーマが息を整えながら言った。
「本を読める日、また家で聞いてみるね」
「うん。私も母さんに聞いておく」
ポルフィラは別れを告げ、家へ向かった。
歩くたび、服の内側にある小さな袋が揺れた。実の親が別にいることも、赤ん坊の自分と一緒に石が託されたことも、ポルフィラはまだ友達に自分から話せずにいた。
*
同じころ、国の南部にあるオランデル家の城では、王都へ向かう支度が整っていた。
高い城壁の上で、橙色の地に天馬をあしらった旗が風を受けている。城門の外には、収穫した果実や穀物を積んだ荷車が並んでいた。南の丘陵で育った物は、ここで荷をまとめてから王都へ送られる。
オランデル家の当主、レオノーラ・オランデルは、城の中庭へ出た。淡い金髪を高くまとめた、美しい女性だった。形のよい額からまっすぐに通った鼻筋、薄く結ばれた唇が、整った顔立ちに凛とした印象を添えている。淡い青の瞳を家臣へ向けると、相手は背筋を伸ばした。
レオノーラは騎乗のために裾の短い上着を着ていた。襟元で留めた外套の下から、歩くたびに革の長靴が見える。
家臣が、王都での会合に持参する書類を差し出した。
「クラウス様からの書状も入れております。倉の修繕に村の職人を呼んだ際、納付の期限を延ばすだけでは足りなかったと」
ヴェルディア領で、町の職人の手が回らず、村から二人を呼んだという。その修繕が済んだあと、役所は今後も同じように職人を呼ぶ案を出した。クラウスは、村の仕事との調整が必要だと、ほかの諸侯にも知らせていた。
レオノーラは書類を受け取った。
「村を離れて働かせるのなら、その間の納付も減らさなければ、戻ってから休む間もなく働くことになるわ。残った家族に代わりをさせても同じことよ」
彼女は家臣を見た。
「今はヴェルディアの話でも、ほかの領地で同じことが起きるかもしれない。王都で、どう調整するか話しておきたい」
家臣が頭を下げると、彼女は中庭の奥へ進んだ。
そこに、天馬が待っていた。
城門の前で見た馬車の馬より、はるかに大きい。濃い灰色の身体は、そばに立つ世話係の頭上まで続いていた。分厚い胴の下には、人が立って通れるほどの隙間がある。足を踏み替えると、大きな蹄が石畳を打ち、その音が中庭に響いた。
畳まれた翼の先が動く。近くの者が道を空けると、天馬は首を下げ、レオノーラを見た。その目は、彼女が近づく足取りを静かに追っていた。周囲の人や荷を見渡す様子には、落ち着いた知性が感じられた。
レオノーラは伸ばした手を、その首へ添えた。天馬は身を寄せ、彼女が台を上がる間、動かずに待った。鞍へ乗ると、彼女が身体を落ち着かせるまで翼を畳んだままでいた。
世話係が足元を確かめてから台を離れ、ほかの者たちも壁際へ下がった。
レオノーラは書類を鞍の脇の袋へ収めた。顔を上げると、天馬も王都へ向かう方角へ首を向ける。彼女が手綱を引くより先だった。
「行きましょう」
翼が開いた。石畳に落ちていた影が広がり、羽ばたきの風で外套がはためいた。レオノーラはその動きに合わせ、慣れた様子で身を寄せた。
天馬が地を離れる。レオノーラは城壁が足元へ下がっていくのを見た。橙色の旗の向こうに、収穫を終えた畑と、荷車の続く道が広がっていた。
あの荷車に積まれた物を育てたのは、領内の村で働く竜の民だった。だが、王都の会合に出るのは国王と諸侯で、働いた本人たちが事情を話すことはできない。村の仕事を止めて町の仕事を手伝わせたら、どうして何が困るのかを、レオノーラたちが伝えなければならなかった。
レオノーラは前へ目を戻した。




