第31話 緑の旗の下
ヴェルディア家の屋敷の門を、二頭立ての馬車がくぐった。石畳の両側には木々が並び、その奥に、天馬の絵をしつらえた緑の旗を掲げた大きな城があった。
領地の役所から来た役人は、出迎えた家臣に書類を渡した。各地の巡察の報告に、町外れの倉の修繕についての一枚が添えられている。
執務室で報告を読んでいた領主、クラウス・ヴェルディアは、家臣へ顔を上げた。
「村から呼んだ二人で、予定どおり済んだのだな」
「はい。扉は問題なく使えるとのことです」
家臣は、次の紙を机へ置いた。
「役所は今後も、町の職人が足りないときには、村の者を使えるようにしたいと申しております」
クラウスは紙を取った。村ごとに、鍛冶や木の修繕ができる者を記し、必要なときに呼び出す案だった。
「村で働かせている者を連れてくれば、その間の仕事は止まる。そちらはどうするつもりだ」
「呼び出す日数に合わせ、納付の期限を調整すると」
「期限を延ばすだけでは、帰った者に両方の仕事をさせることになる。倉で働かせる分、村から納めさせる量も減らす必要がある」
クラウスは紙を机へ戻した。
「その者が抜ければ、村でどの仕事が止まるか調べさせろ。残った家族や村人に、その分まで押しつけるな。納付の調整を決めてから呼び出せ」
家臣がうなずいた。
「承知しました。作業中は町の者と離し、係を付けるようにいたします」
「係を付けるなら、働く者を守る役目も負わせろ。倉の者が手を出したり、罵ったりすることは許すな」
クラウスは家臣を見た。
「修繕をさせておきながら、傷つけて帰すようなことがあってはならん」
家臣は頭を下げた。町では、竜の民が近づくだけで追い払う者もいる。命令を書き加えるだけで、その扱いが変わるとは限らなかった。クラウスは、呼び出す人数と仕事だけでなく、作業中に何があったかも報告させるよう告げた。
家臣が書類をまとめ、部屋を出た。クラウスは倉の報告をもう一度開いた。扉の状態、直した箇所、使った材料。その下に、呼び出した二人の名前があった。
ドランの名も、そこに記されていた。
*
夕方、クラウスは城の奥にある小さな部屋を訪れた。扉を開けたのは、白に近い淡い金髪の女だった。廊下に人がいないことを確かめ、クラウスを中へ通す。
窓辺の椅子には、幼い男の子が座っていた。膝に本を広げていたが、クラウスを見ると立ち上がった。
女は子供の背に手を添えた。
「隣の部屋で続きを読んでおいで」
子供が出ていくと、女は戸を閉めた。
「王都から、何か知らせがあったのですか」
「いや。今日は領内の報告を見ていた」
クラウスは椅子へ腰を下ろした。
「この部屋のことを気にしている者はいない。おまえたちの暮らしを変える話も出ていない」
女は座らずに、椅子の背へ手を置いた。
「それでも、あの子が大きくなれば、ここで暮らしている理由を尋ねます」
二人は隣の部屋へ目を向けた。男の子が知っているのは、母とともにヴェルディア家の世話になっているということだけだった。母は、自分たちがアルジェント家の血を引いていることも、その名を隠して暮らす理由も、まだ話していなかった。
「話すときには、私にも知らせてくれ」
クラウスは言った。
「聞いたことを外で口にすれば、おまえたちだけでは済まない」
女は唇を結び、それからうなずいた。
「分かっています。ここに置いていただいていることも」
「昔、ヴェルディアに嫁いだアルジェントの娘を、おまえは他人だと思うか」
女は首を振った。
クラウスは続けた。
「私も同じだ。今の王家に名を消されたからといって、血のつながりまでなくなるわけではない」
その言葉に、女はようやく椅子へ座った。だが、安堵した顔にはならなかった。
「名を隠して生きることに、あの子は納得できるでしょうか」
クラウスには答えられなかった。ヴェルディア家にも兵はいる。だが、王家とそれを支える諸侯の軍勢、さらに天馬を相手に、保護する一族を守り抜ける見込みはなかった。兵を挙げて敗れれば、この母子だけでなく、領内に隠れて暮らす者たちまで捕らえられる。正当な名を取り戻させたいという思いだけで、彼らの命を危険にさらすことはできなかった。
「少なくとも、ここにいる間は守る」
女は小さくうなずいた。隣の部屋から、子供が本を読む声が聞こえてきた。たどたどしく読んでいた声が止まり、今度は母を呼んだ。
「母さん。この字、なんて読むの?」
女が扉へ顔を向けると、クラウスは立ち上がった。
「行ってやれ」
女は礼を言い、隣の部屋へ向かった。クラウスが廊下へ出ると、母が教える言葉を、子供が繰り返す声が聞こえた。
*
その夜、ポルフィラは父の書いた木片を、食卓の上で見ていた。ドランは隣に座り、自分で書いた名前をゆっくり読んだ。
「ド……ラン」
ポルフィラが笑った。
「うん。読めた」
ドランは木片を手に取った。倉の書類にも、この名前が書かれていたのだろうか。自分の名さえ見分けられなかったことが、今になって悔しかった。
娘は本を開き、父の名前に使った字を探した。
「ここにも、同じ字があるよ」
父と娘は声を落として、次の字を読んだ。
遠くの屋敷では隠す必要のない本を、この家では、今も人目に出すことができなかった。




