第266話 岩山に吊るされた竜
教えられた川を越えると、切り立った岩山が見えてきた。
細く尖った峰が幾重にも重なり、その間を大きな鳥が飛んでいる。
オブシディオンは速度を落とし、岩山の間へ入った。
ポルフィラは角を握ったまま、岩壁を見上げた。
あちこちに巣があり、翼を広げた鳥が、こちらを避けて舞い上がっていく。
岩山に囲まれた窪地へ近づくと、奥の岩穴で何かが動いた。
最初に、長い首が現れた。
続いて、黄色い鱗に覆われた頭が、穴の外へ出てくる。
竜だった。
こちらの気配を感じたのだろう。
穴から出た竜は首を高く上げ、近づいてくるオブシディオンを見据えていた。
オブシディオンが低く鳴いた。
相手からも声が返り、窪地に響く。
〈灰色の竜に聞いて訪ねてきたと伝えた〉
彼が告げた。
〈ここへ下りてよいそうだ〉
黒い翼が大きく広がり、岩の間へ風を送った。
足が地面につくと、ポルフィラはようやく相手の全身を見ることができた。
オブシディオンと、ほとんど同じ大きさだった。
すらりと伸びた首から背へ、黄色い鱗が滑らかに続いている。
体を動かすたびに、その表面をオレンジ色の光が走った。
日に照らされるオブシディオンの黒い鱗には、紫の光が浮かんでいる。
並んだ二頭の色はまるで違っていたが、どちらも目を離せないほど美しかった。
〈雌だ〉
オブシディオンが伝えた。
ポルフィラは彼女の翼を見た。
片方だけが、体から少し離されている。
畳み切らずに支えた翼の膜には、大きな傷があった。
破れたところを見た途端、ポルフィラは眉を寄せた。
あの膜を、矢が突き抜けたのだ。
*
ポルフィラが地面へ跳び下りると、雌竜の顔が近づいてきた。
黄色い目が、彼女をじっと見る。
オブシディオンが短く鳴き、彼女について話した。
雌竜はしばらく眺めていたが、やがて頭を戻した。
「その翼は、人間の武器に射られたのか」
オブシディオンが尋ねた。
「ええ。岩山に隠された、大きな弩弓に」
ポルフィラには、二頭の声は低い鳴き声にしか聞こえない。
オブシディオンが返事を伝えると、彼女は顔を上げた。
〈弩弓だったの?〉
〈そう言っている〉
オブシディオンは、銀の竜が大きな矢に射られて命を落としたことを話した。
その武器を持つ人間たちを探していることも。
雌竜の喉から、低い唸りが漏れた。
彼女は岩穴の前に体を伏せると、自分が見たものを話し始めた。
オブシディオンもその前に伏せ、一つずつポルフィラへ伝えた。
*
弩弓のある場所は、この岩山からさほど遠くないという。
その日、雌竜は雲よりも高いところを飛んでいた。
下に広がる白い雲には、自分の影が映っていた。
竜の目は、はるか下にいる獲物も見つけられる。
その高さからでも、雲の切れ間に現れた岩山の峰や、そこで動く人間の姿が見えていた。
連なる岩山の一部に、開けた場所があった。
比較的平らな岩の上を、人間たちが行き来している。
その奥に、竜がいた。
飛んでいるのでも、伏せているのでもなかった。
両翼を高く持ち上げられ、岩壁の前に吊るされていた。
ポルフィラは息を呑んだ。
〈吊るされていた……?〉
オブシディオンは彼女を見た。
〈見間違いだと思い、引き返したそうだ〉
雌竜は雲の下まで高度を下げ、岩山の上を旋回した。
近づいて確かめても、それは竜だった。
両翼に掛けられた鎖が、上へ伸びていた。
その鎖に吊られて、首も尾も力なく垂れ下がっている。
自分の半分ほどの年しか生きていない、まだ幼い竜に見えたという。
腹の辺りには、大きな矢が刺さっていた。
肉は干からび、鱗に覆われた体は痩せ縮んでいた。
もう、とっくに死んでいたのだ。
ポルフィラは、膝の上で両手を握った。
〈死んだ竜を、ずっとそこに置いていたの?〉
〈それだけではなかった〉
オブシディオンの声が低くなった。
吊るされた竜の後ろに、頭蓋骨が並べられていた。
角のあるもの、角の折れたもの。
大きなものも、小さなものもあった。
数十もの竜の頭蓋骨が、岩壁の前に飾られていた。
ポルフィラは言葉を失った。
銀の竜だけではない。
目の前の雌竜だけでもなかった。
それほど多くの竜が、殺されていたのだ。
*
雌竜は、怒りに任せて急降下した。
竜を吊るし、その亡骸を飾っている人間たちへ、火を浴びせるつもりだった。
そのとき、岩山の一角から、大きな矢が飛んできた。
彼女は体をひねってかわした。
矢の飛んできた方へ頭を向けた途端、別の場所から、次の矢が迫った。
それも避け、岩壁へ向けて炎を吐いた。
だが、弩弓のある穴は遠かった。
炎は穴の手前で途切れ、その奥にいる人間には届かなかった。
さらに背後から、矢が飛んできた。
一か所ではない。
前へ向かえば横から射られ、そちらへ向けば背後から狙われる。
雌竜はようやく、自分がいくつもの弩弓に囲まれていることに気づいた。
これ以上、低いところにいては危ない。
翼を打ち、高度を上げようとした。
そこへ、また別の場所から飛んできた矢が、翼を貫いた。
雌竜は顔を動かし、傷ついた翼へ目を向けた。
その喉から、かすれた音が漏れる。
ポルフィラも、その傷を見た。
裂けた膜の向こうに、岩の地面が見えていた。
雌竜は、それでも飛んだ。
傷ついた翼で体を支え、射かけられる矢から逃れながら、岩山を離れた。
逃げるとき、岩肌にいくつもの穴が開いているのが見えたという。
その穴のあちこちに、弩弓が据えられていた。
外を飛ぶ竜は、身を隠すものがない。
だが、人間たちは岩の奥から矢を放ち、こちらの炎を避けていたのだ。
「なんとか、ここまで来た」
雌竜は告げた。
「遠くへ飛べる翼ではなかった。身を隠せる岩穴が見つかって、助かった」
オブシディオンは、しばらく返事をしなかった。
畳んだ翼の鉤爪が、地面の砂利を押している。
ポルフィラは、彼のそばへ寄った。
怒っているのが分かった。
自分も同じだった。
*
「吊るされていた竜は、私たちを呼び寄せるためのものかもしれない」
雌竜が言った。
「あれを見つければ、確かめずにはいられない。死んでいると知っても、放っておけない。そのために、あんなところへ吊るしてあるのではないか」
オブシディオンから聞いたポルフィラは、雌竜を見上げた。
彼女は、仲間を見つけて引き返した。
ひどい仕打ちに怒り、近づいた。
そこへ、いくつもの弩弓から矢が飛んできたのだ。
〈怒っておりてくる竜を、待っているの……?〉
〈その疑いがある〉
ポルフィラの胸に、怒りと一緒に恐ろしさが広がった。
偶然、飛んできた竜を射たのではないのかもしれない。
竜が近づいてくるように亡骸を置き、岩山のあちこちで武器を構えている。
長老たちの話がよみがえった。
いくつも産まれた卵から、ようやく一頭が孵るかどうか。
その一頭も、無事に育つとは限らない。
そうして空へ旅立った竜の頭蓋骨が、数十も並んでいた。
ポルフィラは唇を噛んだ。
〈ほかの竜が見つけたら、また同じことになる〉
〈ああ〉
彼女は黒い鱗に手を添えた。
〈でも、私たちも怒って飛び込んだら、射られる〉
オブシディオンが、彼女へ顔を向けた。
深い目を見返し、ポルフィラは続けた。
〈その岩山がどこにあるのか、教えてもらおう〉
彼はゆっくりとうなずいた。
雌竜へ向き直り、低い声で道を尋ねる。
ポルフィラは帳面を開いた。
オブシディオンが伝える方角と、目印になる山の形を書き留めていく。
描くのは、その場所へたどり着くための道筋だけだった。
彼女は最後に岩山の位置へ印をつけ、顔を上げた。
この先へ行けば、竜を殺す人間たちがいる。
隣にある黒い翼へ目を向けると、胸が苦しくなった。




