第264話 山に見えた竜
谷を進む間、ポルフィラは辺りを見回していた。
飛んでいる竜はいるが、どの尾根にも群れているわけではない。
〈もっと、たくさんいるのかと思っていた〉
〈この谷に、そんなに大量に竜はいない〉
オブシディオンが答えた。
赤銅色の竜は前を飛び、時折こちらを振り返っている。
オブシディオンが低い声を上げると、相手も短く鳴いた。
〈長老たちのいる所へ行く〉
〈あなたに色々教えてくれた竜も、そこに?〉
〈まだ、いるとよいが〉
ポルフィラは角を握り、行く手を見た。
谷の奥には、低く裾を広げた山があった。
黒っぽい山肌を、何本もの赤い筋が走っている。
溶岩が流れているのだろうか。
ポルフィラがその先へ目を向けると、オブシディオンは翼を傾け、高度を下げ始めた。
〈あの山を越えるんじゃないの?〉
〈下りるぞ〉
赤銅色の竜が、少し離れた岩棚へ下りた。
オブシディオンも山のふもとの開けた場所へ着地し、翼を畳んだ。
ポルフィラは立ったまま、正面を見上げた。
山が動いた。
黒い斜面の端が持ち上がり、その下から、折り重なった鱗が現れる。
赤い筋が大きくずれた。
それは溶岩ではなく、一枚一枚の巨大な鱗に沿う、深紅の模様だった。
岩のような角が、空へ上がった。
首が伸び、途方もなく大きな頭がこちらを向く。
ポルフィラは息を止めた。
竜だった。
山だと思っていたものが、丸くなって休んでいた竜だった。
オブシディオンの全身が、その胸元の前へ収まってしまう。
あれほど大きかった黒い竜が、今は幼い子供のように見えた。
〈……オブシディオン〉
名前を呼ぶだけで、それ以上の言葉が出なかった。
彼は少し首を上げ、低く長く鳴いた。
*
巨大な竜が、声を返した。
人の耳には、岩の奥から響くような低い音だった。
ポルフィラには意味が分からなかったが、二頭の間では、竜の言葉が交わされていた。
「小僧。戻ったのか」
オブシディオンは、見上げて尋ねた。
「最長老は?」
「土に返った」
しばらく、返事がなかった。
オブシディオンの翼が、体の脇へ静かに収まる。
「……それは、残念だ」
彼に外の世界のことを教えた竜だった。
幼い竜たちの問いを聞き、旅立つ者を見送っていた。
ここで一番年を取っていた、その竜は、もういなかった。
「お前は、人を連れ帰ったのか」
長老の目が、角のそばに立つポルフィラへ向いた。
彼女は、思わず角を握り直した。
「最長老に、会わせたかった」
巨大な竜が、鼻を鳴らした。
その息だけで、地面の砂が噴き上がり渦を巻く。
「お前は、あまり成長しておらぬな」
「カケラになっていた」
長老の目が、オブシディオンへ戻った。
「……馬鹿なことを。お前が旅立った年月を考えれば、もう少し逞しくなっているものを」
黒い竜は黙っていた。
長老はしばらく彼を見てから、低く続けた。
「命を預けるほど、大切な者に会ったのか」
「……ああ」
「では、そこの人間がお前を還らせたのか」
「ああ」
「お前は運がよい。そのまま戻れぬ竜もいる」
オブシディオンは、ゆっくりとうなずいた。
「知っている。戻れなくてもよいと思うほど、大切だったのだ……」
長老が、また鼻を鳴らした。
今度は何も言わず、ポルフィラへ目を移した。
彼女は、二頭を交互に見ていた。
自分のことを話しているらしいとは分かったが、その内容までは分からない。
〈何と話しているの?〉
オブシディオンの声が届いた。
〈私が長く戻らなかったわけを、話していた〉
少し間を置いて、彼は続けた。
〈私に教えてくれた最長老は、もう土に返ったそうだ〉
ポルフィラは角へ添えた手を動かし、黒い鱗へ触れた。
〈……会いたかったね〉
〈ああ〉
彼女は、それ以上は尋ねなかった。
オブシディオンは、しばらく長老を見上げていた。
*
やがて、黒い竜が再び鳴いた。
人間の国で出会った一家のこと。
旅へ出た銀の竜が、大きな弩の矢で射られ、繋がった人を連れて帰ってから死んだことを話した。
長老の頭が、ゆっくり下がった。
「竜を、射殺したのか」
低い声が、足元の岩へ響いた。
オブシディオンはうなずいた。
「どこの国か、探している。あの武器を知る者がいないか、尋ねに来た」
長老の尾が動いた。
地面を擦る音に、ポルフィラの肩が強張る。
「ただでさえ、我らの数は多くない。ようやく育ったものを、人間が殺したというのか」
長老は唸り、山の向こうへ顔を向けた。
「繁殖する雌が、一度に産む卵は五つから七つ。何日もかけて産む」
雄は、地中の熱で卵を温められそうな場所を探し、穴を掘る。
雌はそこへ卵を埋め、すべてを産み終えれば、再び旅立つのだという。
だが、土の中の温度は一定ではない。
熱すぎても、冷たすぎても、卵は孵らなかった。
「運がよくて、一つ。何も孵らぬことの方が多い」
長老の目が、オブシディオンへ戻る。
「生まれたものが、皆、育つわけでもない。鱗の柔らかい幼いうちに、火口へ落ちて死ぬものもいる」
黒い竜は、黙って聞いていた。
自分も生まれ、この山々で育った。
旅立つ日まで無事に生きたことが、当たり前ではないと知っていた。
「外へ飛び立てるまで育った一頭が、どれほど大切か。それを殺す者を、そのままにはできぬ」
低い唸り声が、別の所からも上がった。
ポルフィラは振り向いた。
背後にあった灰色の岩山が動いていた。
隣の褐色の岩も、長い首を持ち上げている。
どちらも、竜だった。
彼女が岩壁だと思っていたものは、畳まれた翼だった。
尾根に見えたものは、背に沿って並んだ突起だった。
オブシディオンは、巨大な竜たちに囲まれた場所へ下りていたのだ。
ポルフィラは角のそばから、もう一度辺りを見た。
黒い竜の翼も尾も、周りの長老たちと比べると小さかった。
自分は、その小さく見える彼の上に立っている。
〈……皆、竜だったの?〉
〈ああ。ほかの長老たちだ。最長老よりは若い〉
灰色の長老が、怒りを含んだ声で鳴いた。
褐色の長老も、喉の奥で唸っている。
〈弩弓の話をしているの?〉
〈そうだ。竜は、卵から孵るものが少ない。生まれても、旅立つまで育つものは多くない。長老たちは、それを知っている〉
ポルフィラは、こちらへ向けられた巨大な顔を見た。
怒っている相手は、自分ではない。
銀の竜を殺した、まだ見ぬ人間たちだった。
*
長老たちの声が少し静まると、ポルフィラは、オブシディオンへ尋ねた。
〈竜は、どこまで大きくなるの?〉
初めて彼を見たとき、これより大きな生き物など想像もできなかった。
けれど今は、その彼が、長老の足元へ帰ってきた若い竜に見えている。
〈死ぬまで、少しずつ大きくなる〉
〈ずっと?〉
〈ああ。ただ、年を取りすぎると、その体で長く飛び続けるのは難しくなる。だから、戻ってくる〉
長老たちは狩りに出るが、遠い土地を旅して回ることは、もうあまりしない。
食べればまたここへ帰り、地面の温かい所で過ごすのだという。
ポルフィラは、深紅の模様のある長老を見上げた。
丸まって休めば、山にしか見えない体だった。
それでも狩りに出るときには、あの翼を広げ、空へ上がるのだ。
〈………飛ぶところを、見てみたい〉
思わずそう告げると、オブシディオンは少し首を向けた。
〈風で飛ばされぬようにしろ〉
ポルフィラは角を握り直した。
冗談なのか、本気なのか、分からない。
*
オブシディオンは、長老たちへ改めて尋ねた。
「竜を射るほどの弩弓を、見たことはないか」
深紅の長老は、鼻先を谷の方へ向けた。
「旅から帰った、チビどもに聞いてみろ。我らより、今の人間の土地をよく知っていよう」
灰色の長老もうなずいた。
「このところ戻ったものもいる。何か見聞きしているかもしれぬ」
オブシディオンは、長老たちへ頭を下げた。
ポルフィラも、その動きに合わせて軽く膝を曲げる。
〈若い竜たちに、尋ねてみるとよいそうだ〉
彼の声に、ポルフィラはうなずいた。
そして、岩棚で待っている赤銅色の竜へ目を向けた。
近づいてきたときには、あんなにも大きく見えた竜だった。
今は長老たちのそばで、確かに小さく見える。
けれど、彼も、長老たちも、オブシディオンも、育つ途中で命を落とさず、ここまで生きてきたのだ。
ポルフィラは手の下の黒い鱗を、そっと撫でた。
〈話を聞きに行こう。ほかの竜にも、同じことが起きないように〉
オブシディオンはうなずき、谷へ向き直った。




