第263話 火を吹く山々
山を越えたあとも、旅は続いた。
朝に飛び立ち、夕方には下りられる場所を探す。
広い谷で休む日もあれば、海に浮かぶ小島で夜を過ごす日もあった。
遠くに人の町が見えても、オブシディオンは高い所を飛び、高度を下げなかった。
*
ある夕方、オブシディオンは海沿いの岩場へ下りた。
少し奥には木立があり、その間を小さな流れが通っている。
ポルフィラは地へおり荷をほどき、リャンたちが持たせてくれた食べ物を取り出す。
干し肉を少しずつ噛み、穀物の菓子を食べた。
水を飲んで一息つくと、夕日を受けた海へ目を向ける。
〈たくさん持たせてもらって、助かったね〉
オブシディオンは岩の上へ体を伏せた。
〈まだ残っているのか〉
〈うん。こんなにあるよ〉
ポルフィラが包みを持ち上げると、黒い目がそちらへ動いた。
竜には、一口にもならない量だろう。
夜になって風が冷えると、厚手の上衣を重ねた。
岩陰に敷物を広げ、オブシディオンの体に近い所で横になる。
大きな胴が海風を遮り、ゆっくりした呼吸が聞こえた。
〈もう近い?〉
眠る前に尋ねると、彼は頭を上げた。
しばらく、暗くなった海の先を見ている。
〈あの陸を越えれば、見覚えのある山があるはずだ〉
ポルフィラも起き上がった。
夕方には見えていた陸の影が、今は闇へ溶けている。
〈楽しみだね〉
オブシディオンは、すぐには答えなかった。
それから、低い声が届いた。
〈ああ〉
ポルフィラは上衣の襟を寄せ、また横になった。
彼はまだ、海の方を見ていた。
*
その陸へ渡り、さらに山並みをたどった。
雲が切れたとき、遠くの空に、白いものが立ち上っているのが見えた。
初めは、峰にかかる雲だと思った。
だが、近づくにつれ、山の頂から上がっているのだと分かった。
一本だけではなかった。
右にも、奥にも、煙を上げる山がある。
裾野の向こうへ、さらに高い峰が重なっていた。
〈あそこだ〉
オブシディオンが告げた。
ポルフィラは顔を上げた。
〈あなたの故郷?〉
〈ああ〉
大きな翼が、深く空気を打った。
速度が上がる。
ポルフィラは膝を曲げて中腰になり、角を握ったまま上体を低くした。
山々が、少しずつ大きくなる。
青く霞んでいた斜面に、黒い岩肌が現れた。
裂け目から細い煙が上がり、風に押されて横へ流れている。
オブシディオンは煙を避け、山の手前で緩やかに進路を変えた。
足元には、木々の茂る谷が広がっていた。
川が流れ、その向こうからは、草のない斜面が高くせり上がっている。
ポルフィラは角のそばから辺りを見渡した。
遠い山の頂が、内側から赤く光っていた。
〈あそこも、火を吹くの?〉
〈吹く。昔より、頂が低くなったな〉
オブシディオンが首を向けた。
ポルフィラも同じ山を見る。
彼はその先の峰へも目を向け、翼を傾けた。
〈あの二つに分かれた岩は、まだ残っている〉
それは、谷を挟んだ向こうの尾根だった。
大きな岩が二本、並んで空へ突き出している。
〈覚えているの?〉
〈幼い頃、あの間を飛び抜けようとして、翼をぶつけた〉
ポルフィラは目を丸くした。
〈あなたも、そんなことをしたんだ〉
〈今より、ずっと小さかった〉
思わず、足元の黒い体を見下ろす。
この大きな竜にも、小さな翼で飛んでいた頃がある。
岩にぶつかり、飛び直し、山の向こうへ出ていった日があったのだ。
オブシディオンは、次の谷へ顔を向けた。
普段より、辺りを見ることが多かった。
何百年も前の景色を、今の山々に重ねているのだろう。
ポルフィラは話しかけず、彼と一緒に尾根を越えた。
*
山の陰から、何かが飛び出した。
ポルフィラは角を握り直した。
大きな翼だった。
二度羽ばたき、こちらと同じ高さまで上がってくる。
日に照らされた鱗が、赤銅色に光った。
「竜……!」
声が、風の中へ飛んだ。
長い首と尾。
背に沿って並ぶ硬い突起。
広げた翼の縁には鉤爪があり、後脚は腹の近くへ引きつけられている。
オブシディオンよりは小さかった。
それでも、近づいてくる姿には、思わず息を止めるほどの大きさがあった。
羽ばたくたびに胸が動き、翼の膜を光が透かしている。
生きている、別の竜だった。
赤銅色の竜は二人の前を横切り、大きく回った。
首を伸ばし、オブシディオンの顔へ近づく。
ポルフィラは、その目と合った。
金色の目が見開かれたように見えた。
竜は急に翼の角度を変え、二人から離れた。
〈見つかった〉
ポルフィラは小さく告げた。
〈お前を見ている〉
赤銅色の竜が、もう一度回ってきた。
今度は少し離れた所から、顔を傾けてこちらを見ている。
ポルフィラが手を上げかけると、その目が、動いた腕を追った。
彼女は角へ手を戻した。
〈私、どうしたらいい?〉
〈そのままでよい〉
オブシディオンが、低く喉を鳴らした。
胸から響く音が、足元へ伝わった。
赤銅色の竜も、声を返した。
ポルフィラには、その意味は分からなかった。
ただ、相手の目は何度も、オブシディオンと自分の間を行き来していた。
やがて、オブシディオンの声が届いた。
〈ここで生まれ、長く旅に出ていたと伝えた〉
〈私のことも?〉
〈私と繋がった人間だと話した〉
赤銅色の竜は、まだ彼女を見ていた。
それから体を返し、山の奥へ向かって飛び始める。
少し進んだ所で振り返り、また低い声を上げた。
〈ついてこいと言っている〉
ポルフィラは、彼方の峰へ目を向けた。
赤銅色の翼が、その前を横切っていく。
〈あなたを知っている竜も、いるかな〉
〈会えば、分かる〉
オブシディオンは翼を打ち、後を追った。
*
谷が開けると、山に囲まれた広い場所が見えた。
黒い岩棚が幾段も続き、低い所には木々も茂っている。
その上を、もう一頭の竜が滑るように飛んでいた。
今度は、青みを帯びた鱗だった。
ポルフィラは、言葉もなく見つめた。
尾根の向こうにも、小さな影が動いた。
岩だと思っていた大きな塊が首を上げ、こちらを向く。
竜たちがいた。
翼を広げて飛ぶ者も、岩の上で休む者もいる。
ポルフィラは、手の下の角へ目を落とした。
この場所から、彼は旅立ったのだ。
〈オブシディオン〉
名前を呼ぶと、彼は少し首を上げた。
〈帰ってきたんだね〉
〈ああ〉
黒い翼が、故郷の谷へ大きな影を落とした。
ポルフィラはその上に立ち、顔を上げてくる竜たちを見ていた。




