第262話 竜の故郷へ
宮殿での数日は、あっという間に過ぎた。
シェンリュカに誘われて工房へ行き、職人たちへ、ドランが持ち帰った金属を鍛えている話をした。
ユエンには、故郷の文字をいくつか書いて見せた。
彼は自分の名をポルフィラの国の書き方で習い、何度も紙へ書いた。
「これで、読める?」
差し出された紙を見て、ポルフィラはうなずいた。
「うん。上手だよ」
「君の名前も、教えてくれるかな」
ポルフィラが隣へ書くと、ユエンはその文字を丁寧に写した。
茶色の髪が頬へかかり、伏せた長い睫毛の下で、緑の目が筆先を追っている。
「私の名前も」
シェンリュカが横から顔を出した。
「うん。次は、シェンリュカね」
三人の名が並ぶと、シェンリュカは嬉しそうに紙を持ち上げた。
ユエンも、自分で書いた一枚を手元へ残した。
*
夕食は、毎日一家と一緒だった。
リャンは故郷の村についてよく尋ね、シーランはミレアの料理の話を聞きたがった。
ポルフィラが覚えてきた異国の料理を家で作った話をすると、シェンリュカが身を乗り出した。
「お母様は、何とおっしゃったの?」
「おいしいって。でも、私が少し香辛料を入れすぎて、父さんが水を飲んでいたの」
リャンが声を上げて笑った。
「それは、私にも覚えがある」
食事のあとも話は続いた。
庭のオブシディオンへ顔を向け、その日の狩りで何を食べたのか、尋ねることもあった。
ポルフィラは笑いながら返事を伝えた。
この食卓には、すぐに馴染んでしまう。
けれど、朝、庭で彼の顔を見るたび、その先に待つ山々へも思いが向いた。
*
出発を翌日に決めると、ユエンは少し黙ってから、うなずいた。
「分かった。明日は、見送りに行くよ」
二人は回廊を歩き、オブシディオンの休む庭へ向かっていた。
池の面に、傾き始めた日が光っている。
「もう少し、いてほしかった?」
ポルフィラが尋ねると、ユエンは微笑んだ。
「ああ。帰ってきたと思ったら、また旅の話をしているからね」
「今度は、竜の山が、どんな所だったかお土産話を持って帰るね」
彼女の楽しそうな顔を見て、ユエンの目元が和らいだ。
「君の話を聞くのは、好きだよ」
少し間を置いて、言葉を足す。
「でも、無理はしないでほしい」
ポルフィラは彼を見上げた。
「うん。気をつける」
庭では、黒い竜が顎を草へ伏せていた。
近くへ来た二人を、大きな目が追っている。
ユエンはその顔を見上げて、足を止めた。
「長い旅になるのだろうね」
「うん。海も山も越えるんだって」
彼はうなずき、ポルフィラへ向き直った。
「また、ここへ戻って来て」
「もちろん。皆に話を聞いてもらいたいもの」
あまりに迷いのない返事に、ユエンは苦笑した。
*
翌朝、庭には一家が揃っていた。
庭には、ポルフィラが用意した旅の袋のほかに、いくつもの大きな包みが運ばれていた。
リャンたちが、道中で困らないようにと持たせてくれるものだった。
日持ちする干し肉や焼き固めた穀物の菓子、干した果物。
一度に大きな袋を開けずに済むよう、小分けにして包まれた携帯食が、幾袋もある。
衣服の包みには、動きやすい着替えが何組も入り、厚手の上衣や、雨風をしのぐ外套まで揃っていた。
水を入れた革袋も、予備が用意されている。
ポルフィラは、思わず一家を振り返った。
「こんなに、いただいていいんですか?」
リャンがうなずいた。
「人里のない所を、どれほど飛ぶか分からぬのだろう。なるべく快適に旅をしてほしい」
シーランも、衣服の包みへ手を添えた。
「暑い所も寒い所も通るでしょうから。着替えも、少し多く入れてあります」
「すぐに食べる分は、こっちだよ」
ユエンが小さめの袋を渡した。
「大きな荷をほどかなくても、これだけ取り出せるようにしてある」
シェンリュカも、包みの一つを示した。
「あなたの好きな物も入れてもらったわ。途中で食べてね」
ポルフィラは受け取った袋を抱え、一人ずつ顔を見た。
「ありがとうございます。大事にいただきます」
荷は厚い当て布の上へ分けて載せ、翼の動きを妨げない位置へ、丈夫な紐で固定された。
携帯食も衣服も濡れないよう、雨を通しにくい布で包んである。
ポルフィラも上へ登って結び目を確かめ、地上におりた。
シーランが近づき、彼女の上衣の襟を整えた。
「寒ければ、我慢せずに厚い物を着るのですよ」
「はい」
シェンリュカは両腕を広げ、ポルフィラを抱きしめた。
「帰ってきたら、私を一番に呼んでね」
「では、二人を一緒に呼んでもらおう」
ユエンが隣から言った。
シェンリュカが兄を見て笑う。
リャンはそのやり取りを聞いてから、彼女の前へ進んだ。
「こちらの調べは、続けておく。そなたたちは、竜たちの話を聞いてきてくれ」
「はい。何か分かったら、お伝えします」
リャンはうなずき、黒い竜へ顔を上げた。
「オブシディオン殿。故郷への旅が、よいものになるよう願っている」
ポルフィラへ、オブシディオンの声が届いた。
〈戻るまで、元気でいろと言っておけ〉
彼女は、少し笑ってリャンへ向き直った。
「戻るまで、元気でいてほしいそうです」
リャンの目元がほころんだ。
「ああ。二人を待っている」
最後に、ユエンが手を差し出した。
ポルフィラはその手を握り、顔を上げた。
「行ってくるね」
「うん。よい旅を」
ユエンはしっかり握り返してから、手を離した。
もう少し話したかったが、彼女が竜へ向き直るのを見送った。
*
ポルフィラは角の内側にあるいつもの位置へ立つ。
角に手を掛けて下を見ると、一家が揃って顔を上げていた。
ポルフィラは片手を離し、大きく振った。
翼が広がり、近くの人々が建物の方へ下がる。
強い羽ばたきに、庭の木々が大きく揺れた。
宮殿が、ゆっくり下へ遠ざかっていった。
池も、工房も、毎晩食事をした部屋も見える。
見送りの四人が小さくなるまで、彼女は庭を振り返っていた。
*
王都を離れると、オブシディオンは高い山々へ進路を向けた。
朝日を受けた峰の間に、雲が細くたなびいている。
〈あの間を抜ける〉
彼が告げた。
ポルフィラは前を向いた。
〈うん〉
翼が深く打ち下ろされた。
ぐっと速度が上がる。
ポルフィラは角を握ったまま中腰になり、上体を低くした。
風が髪と上衣の裾を後ろへ引く。
足元の鱗を踏みしめ、次の羽ばたきにも体を合わせた。
山の斜面が近づくと、オブシディオンの体が大きく傾いた。
ポルフィラも腰を落としたまま、その傾きに合わせて体を移す。
岩壁に沿って急旋回すると、雲の切れ間が目の前へ開けた。
峰を越えた先には、見知らぬ山並みが続いていた。
飛び方が緩やかになると、ポルフィラは膝を伸ばして立った。
角を握ったまま、大きく息を吐く。
〈ずいぶん楽に乗れるようになったな〉
〈レンたちに、たくさん教わったもの〉
オブシディオンの首へ置いた手に、彼女は少し力を込めた。
〈次は、あなたが育った所だね〉
〈ああ。まだ先だ〉
ポルフィラは広がる空へ目を向け、黒い竜とともに山の向こうへ飛んでいった。




