第256話 同じ町で暮らす人々
ヴァルデルは、ポルフィラの前で足を止めた。
近くで向き合うと、いっそう大きく見える。
「オブシディオンは、城の天馬を狩るつもりはないのだな?」
ポルフィラは瞬きをした。
会議の話ではなかった。
「……城の天馬、…ですか?」
「ここには、人と繋がった天馬も、育てている天馬もいる。あの竜が腹を空かせたとき、どうするのかを聞いておきたい」
声は厳しかった。
けれど今度は、何を心配しているのか分かった。
ポルフィラは心の中で呼び掛けた。
〈オブシディオン。城の天馬を食べないかって、心配されているんだけど〉
少し間があった。
〈わざわざ、お前の知り合いの天馬を食うつもりはない〉
〈そう言ってもいい?〉
〈よい。狩りは、よそへ行く〉
ポルフィラは、ヴァルデルへ向き直った。
「食べるつもりはないそうです。狩りは、よそへ行くと」
ヴァルデルの肩が、わずかに下がった。
「そうか」
ポルフィラは、次の言葉を待った。
大きな男は、まだ目の前に立っている。
眉間の皺も残っていた。
「……ほかにも、何かございますか?」
レオンハルトが吹き出した。
「もう安心なさったんだよ」
ポルフィラはヴァルデルを見た。
ヴァルデルも、彼女を見た。
「私は、そう言った」
「…はい。すみません…」
「謝らなくていい。父上は今、機嫌がよいんだ」
レオンハルトが笑いながら言った。
「人の機嫌を、いちいち説明するな」
リゼリアまで口元を押さえた。
ポルフィラも、ようやく少し笑った。
*
そのあと、ポルフィラはヴァルデルたちと、オブシディオンの休む場所へ行った。
城の外庭の一角に、竜が横になれる広い草地が用意されていた。
天馬を下ろす庭とは離れており、そこへ向かう者が竜のそばを通る必要もない。
オブシディオンは草の上へ胴を伏せ、畳んだ翼の鉤爪を体の脇に置いていた。
ヴァルデルは足を止め、その姿を見上げた。
目が、角から喉、翼、長い尾へ移っていく。
「……近くで見ると、やはり大きいな」
ポルフィラは顔を上げた。
さっきまでの険しい声とは、少し違っていた。
「はい。私も初めは、上に乗るのが大変でした」
「平気で飛び下りていたではないか」
「向こうで教わったんです。舟に乗っている人たちは、皆、身軽で」
ヴァルデルの目が、娘の腕と脚へ向いた。
「鍛えたのだな」
「はい」
ポルフィラがうなずくと、彼はもう一度竜を見た。
黒い頭が少し下がり、大きな目が一同へ向く。
〈先ほどの心配している男か〉
オブシディオンが尋ねた。
〈うん。レオンハルトのお父様〉
〈息子より大きい〉
ポルフィラは、笑いそうになった。
ヴァルデルが、すぐに気づく。
「何だ」
「いえ。息子より大きい、と言っていたので」
レオンハルトが父を見上げた。
「それは、昔からだよ。私も、もう少し伸びるかと思っていたんだけれど」
ヴァルデルが鼻を鳴らした。
今度は、ポルフィラにも、怒っていないのだと分かった。
*
翌日、ポルフィラはアドリアンとリゼリアに案内され、王都の町へ出た。
護衛たちは少し距離を取り、通りの人々へ目を配っている。
オブシディオンは城の庭で休んでいた。
出掛ける前に伝えると、帰りを急がず見てくるようにと言ってくれた。
大通りには、人と荷車が絶えなかった。
ポルフィラは店先を見るたび、足を緩めた。
パンの店では、天馬の民の女が窯の前に立ち、竜の民の若者が焼き上がった品を棚へ並べていた。
向かいの布屋では、客と店主が布を広げて話している。
二人の髪の色は違ったが、どちらも柄のことに夢中だった。
「前は、こうじゃなかったね」
ポルフィラが言った。
アドリアンがうなずいた。
「働き手を雇う店が増えた。ほかの土地から仕事を探しに来る者もいるんだ」
通りの先で、荷車の車輪が石の間にはまった。
御者が下りる前に、近くの店から二人が出てくる。
竜の民の男が後ろを押し、天馬の民の店主が車輪を持ち上げた。
荷車が動くと、御者が何度も礼を言った。
店主は手を振り、そのまま自分の店へ戻っていく。
ポルフィラは、それを見送った。
大きな出来事ではなかった。
けれど、以前なら、あんなふうに気軽に駆け寄れなかったはずだ。
リゼリアが隣から顔を覗いた。
「どうしたの?」
「ううん。見られて、嬉しいなと思って」
ポルフィラが答えると、リゼリアも通りへ目を向けた。
「そうね。私も、嬉しいわ」
*
学校では、教師が入口へ迎えに出てきた。
授業の邪魔にならないよう、三人は窓の外から中を見せてもらった。
机には、二つの民の子供たちが並んでいた。
一人が字を読み、隣の子が本の行を指で追っている。
教師に尋ねられると、あちこちから手が上がった。
ポルフィラは、窓の下で足を止めた。
村で、使い古しの教科書を友達と囲んだ頃を思い出す。
当時は、本を開くところを見られないようにしていた。
今、目の前の子供たちは、明るい窓のそばで、声を出して読んでいた。
「本は、皆にあるんですね」
ポルフィラが小声で尋ねた。
教師がうなずいた。
「はい。まだ足りない巻もありますが、順に届いています」
中で、一人の子供が窓へ顔を向けた。
ポルフィラと目が合い、隣の子を肘でつつく。
教師が、そっと手を上げた。
子供たちは慌てて本へ向き直ったが、何人かは、またちらりと外を見た。
ポルフィラは笑い、邪魔をしないよう窓から離れた。
*
帰り道で、竜の民の店主がポルフィラに気づいた。
「お帰りなさい。昨日、空を飛んでいらしたでしょう」
「はい。ただいま」
近くの人々も振り返った。
無事を喜ぶ声が掛かり、どこまで旅をしたのかと尋ねられる。
「オブシディオンも、城にいるんですか」
若い女が聞いた。
「うん。庭で休んでいるよ」
少し離れた所で、天馬の民の女が、小さな子供を自分の方へ引き寄せた。
昨日、空を見ていた母子とは違う人だったが、その仕草に、ポルフィラはまた足を止めた。
目が合うと、女は困ったように会釈した。
ポルフィラも頭を下げた。
子供が母親の服を引いた。
「竜に乗ってきた人?」
「ええ。そうよ」
女は答えたが、こちらへ近づこうとはしなかった。
ポルフィラは話を切り上げ、店主に礼を言って歩き出した。
アドリアンが隣へ来た。
「疲れたかい」
「ううん。平気」
彼女は振り返りかけ、やめた。
「竜の民は、喜んでくれるね」
「ああ。君が戻ったと、今朝も町で話していたよ」
ポルフィラはうなずいた。
嬉しいと思う気持ちは、変わらなかった。
ただ、オブシディオンが城にいると聞いただけで、身を寄せ合った母子の姿も、胸に残っていた。
*
その晩は、レオンハルトたちと城で食事をした。
会議のときより小さな部屋で、ヴァルデルも同じ卓についている。
ポルフィラが町や学校で見たことを話すと、レオンハルトは嬉しそうに聞いた。
「君にも見てもらいたかったんだ」
「うん。空からも見えたよ。王都に来る途中の町でも、二つの民が一緒に働いていた」
彼女は、車輪のはまった荷車を助けた人々のことも話した。
リゼリアがうなずき、アドリアンも笑った。
レオンハルトが尋ねた。
「ほかには?」
ポルフィラは、少し迷ってから口を開いた。
「まだ、オブシディオンを怖がる人は多いね」
卓が少し静かになった。
彼女は、杯へ手を添えた。
「リャンの国では、皆、会いたがってくれたから。戻ってきて、隠れる人を見ると、少し寂しくなるの」
レオンハルトは、うなずいた。
「そうだろうね。ここでは、竜を目にしたときの記憶も、人によって違う」
ポルフィラは顔を上げた。
あの黒い炎を見て、救われたと思った人がいる。
反対に、王都で逃げ惑った人々もいた。
「怖がるなと命じても、安心させることはできない。町で一緒に働くことだって、初めから今のようにできたわけではないんだ」
レオンハルトは、彼女を見た。
「でも、隣で働いて、話しているうちに変わった人もいる。今日、君が見たようにね」
ポルフィラは、ゆっくりうなずいた。
「うん。私、町を歩けてよかった」
ヴァルデルが、杯を置いた。
「竜が城で休み、そなたが普通に町へ出る。それを何度も見れば、昨日とは違うと思う者も出よう」
ポルフィラは、意外な気持ちで彼を見た。
ヴァルデルは肉を切りながら、言葉を続けた。
「もっとも、天馬を狩られるのではと心配していては、落ち着いて見てもおれぬがな」
レオンハルトが笑った。
「父上は、そこが一番気になっていたんですね」
「大事なことだ」
「はい。今日も狩りには出ていません。オブシディオンは、まだお腹が空いていないそうです」
ポルフィラが答えると、リゼリアが小さく吹き出した。
アドリアンも口元を緩め、ヴァルデルは、少し困った顔で卓を見回した。
「私は、空腹度合いを報告せよと言っているのではない」
今度は、ポルフィラも笑った。
あんなに怖いと思っていた相手と、同じ卓で笑っている。
肩に入っていた力が、ようやく抜けた。
*
食後、ポルフィラはオブシディオンの休む庭へ行った。
城の明かりが草地の端まで届き、その先では、黒い鱗が夜に溶け込んでいた。
近づくと、大きな目が開いた。
〈町はどうだった〉
ポルフィラは、彼の顔のそばへ腰を下ろした。
〈変わっていたよ。皆で同じ本を読んでいた。お店でも、一緒に働いていたの〉
〈嬉しそうだな〉
〈うん。嬉しかった〉
彼女は、重なった鱗へ手を置いた。
〈まだ、あなたを怖がる人も多いけれど〉
オブシディオンは、少し目を細めた。
〈お前は怖くないのだろう〉
〈当たり前でしょう〉
すぐに答えると、黒い竜は顎を草へ戻した。
その動きに合わせ、温かい息が足元を通った。
ポルフィラは笑って、彼のそばへ座り直した。
明日も町へ行ってみようと思った。
今日は通らなかった道にも、きっと、まだ見ていない暮らしがある。
城の廊下を行く働き手が、庭へ顔を向けた。
ポルフィラが会釈すると、その人も立ち止まり、少ししてから頭を下げた。
彼女は、もう一度微笑んだ。
オブシディオンは動かず、隣で静かに休んでいた。




