第255話 帰ってきた竜と海の向こうの国
翌朝、レオンハルトは村を発つ前に、ポルフィラへ声を掛けた。
「落ち着いたら、王都へ来てくれないかな。親書のことを、ほかの領主たちとも話したい」
「うん。いつ行けばいい?」
「村でゆっくり休んでからでいいよ。ご両親にも、まだ聞きたい話がたくさんあるだろう」
ドランが、すぐにうなずいた。
「ありますとも」
ミレアも笑っている。
ポルフィラは二人を見てから、レオンハルトへ顔を戻した。
「じゃあ、少ししてから行くね」
「日が決まったら知らせてくれ。オブシディオンが下りる場所も、空けておく」
そこまで聞いて、ポルフィラは一人の顔を思い出した。
広い肩。
険しい眉。
黙っていても叱られているような気持ちになる、あの強面。
「……ヴァルデル様も、いらっしゃる?」
「父上? ああ。君の話を伝えるつもりだから、会議にも来ると思う」
レオンハルトは、ごく普通に答えた。
ポルフィラは、うなずくのが少し遅れた。
「……そうなんだ」
その顔を、ドランが横から覗いた。
「どうした?」
「何でもないよ」
王都へ行くのは楽しみだった。
ただ、あの大きな体で正面に立たれたら、何を話せばいいのか…
ポルフィラは、心の中で挨拶の練習をした。
*
それから半月ほどは村で過ごした。
朝はミレアの食事を食べ、昼にはドランの鍛冶場へ顔を出す。
友人たちの仕事場を訪ね、旅立つ前にはなかった店ものぞいた。
夕方にはオブシディオンのいる草地へ行き、隣に座って日が沈むまで話した。
急いで次の島を探す必要も、今夜眠る場所を決める必要もない。
目が覚めれば、家の中から母の声がした。
そんな日々が、嬉しかった。
王都へ発つ数日前には、先に便りを送り、マティアスとエステリアにも会いに行った。
インディルの城外でオブシディオンを待たせ、二人の待つ部屋へ入る。
「ただいま。遅くなって、ごめんなさい」
マティアスは娘の顔を見ると、挨拶より先に抱き寄せた。
「よく帰ってきた」
エステリアも隣から腕を回した。
「顔を見せてくれれば、それでいいのよ」
ポルフィラは二人を抱き返し、少ししてから持ってきた包みを渡した。
「お土産。二人にも使ってほしくて、持ってきたの」
エステリアが嬉しそうに包みを開く。
マティアスも受け取った品を眺め、それから、もう一度娘の顔を見た。
「ありがとう。大事に使わせてもらう」
その晩は二人と食卓を囲み、旅先で世話になった人々のことを話した。
翌日、また来ると約束して村へ戻った。
王都へ向かう朝、ミレアは旅の袋を確かめてから、娘に渡した。
「忘れ物はない?」
「うん。大丈夫」
ドランが庭まで見送りに来た。
「今度は、二年も待たせるなよ」
「王都だよ。会議が終わったら、また帰ってくるってば」
ポルフィラが笑うと、父も笑った。
「分かってる。行ってこい」
*
村が小さくなると、畑と道が見えてきた。
ポルフィラはオブシディオンの背から身を乗り出した。
道沿いに、新しい屋根が増えている。
以前は家が数軒しかなかった分かれ道に、今は何台もの荷馬車が止まっていた。
隣には宿らしい大きな建物があり、その裏で人々が荷を下ろしている。
〈あんなに家があったかな〉
〈前より増えている〉
オブシディオンが答えた。
もう少し先の町では、道の両側に露店が並んでいた。
上を通り過ぎる前に、ポルフィラは少し高度を下げてもらった。
荷馬車の脇で、緑がかった髪の男が品物を広げている。
金色の髪の女が、その品を手に取って店主と話していた。
少し離れた所では、二つの民の働き手が、大きな荷を一緒に運んでいる。
見慣れない町だった。
けれど、そこにいる人々の髪も、暮らしぶりも、ポルフィラの知っているものだった。
「本当に、一緒に暮らしているんだ」
声にすると、胸が熱くなった。
村だけの変化ではなかった。
自分が海の向こうにいる間にも、この国のあちこちで、新しい暮らしが始まっていた。
そのとき、荷を持っていた男が空を見上げた。
竜の影に気づき、隣の者へ何か叫んでいる。
道の人々が次々と顔を上げた。
両腕を振る者がいる。
子供を抱き寄せ、軒下へ入る者もいた。
荷馬車の陰へ身を寄せた男は、そこから黒い翼を見つめていた。
ポルフィラは手を振った。
笑顔で振り返してくれた人の後ろで、戸が一つ閉まった。
手を下ろすと、オブシディオンの鱗へ掌を置いた。
〈急に下りたら、びっくりさせちゃったね。上へ戻ろうか〉
黒い翼が風を受け、町からゆっくり離れた。
*
王都の城壁が見えてきた。
その外側にも家々が増え、街道を行く荷馬車が、門の前に長く連なっている。
ポルフィラが知っている王都より、人の動きが多かった。
城へ続く大通りにも、広場にも、大勢の人がいる。
竜に気づいた声が、町を渡った。
「オブシディオンだ!」
「帰ってきたぞ!」
竜の民が店先へ出て、空へ手を上げた。
広場へ走り出した子供を、大人が引き戻してから、一緒に見上げている。
一方で、天馬の民の多くは、足を止めたまま動けずにいた。
建物の中へ入る者もいる。
荷馬車を止め、竜が通り過ぎるのを待つ御者は、手綱を強く握っていた。
ポルフィラの胸が、少し痛んだ。
リャンの国では、オブシディオンが戻ると、人々は喜んで顔を上げた。
ここでは、同じ黒い翼を見て、身をすくめる人がまだ多い。
〈皆が、手を振ってくれるわけじゃないね〉
〈見ている者もいる〉
オブシディオンの声は落ち着いていた。
ポルフィラも、もう一度、町へ目を向けた。
道の端で、天馬の民の子供が、母親の手を握って立っている。
逃げずに、口を開けて空を見上げていた。
ポルフィラはその子へ、小さく手を振った。
*
城の一角に、広い敷地が空けられていた。
周囲には目印の旗が立ち、迎えの人々は、建物に近い端へ下がっている。
オブシディオンはその上を一度回り、翼を広げて下りた。
後脚が地面を捉えると、旗が激しくはためいた。
巨体が低くなり、翼の鉤爪が地面につく。
ポルフィラは肩から畳まれた翼の付け根へ移った。
高い所から跳び下り、軽く着地する。
顔を上げた途端、足が止まった。
レオンハルトの隣に、ヴァルデルがいた。
記憶のとおり大きな体で、腕を組んでいる。
眉間には深い皺があり、その下の目が、こちらを睨んでいた。
ポルフィラは、背筋を伸ばした。
「……お、お久しぶりです…」
ヴァルデルの目が、彼女の肩越しへ動いた。
またポルフィラへ戻る。
眉間の皺が、さらに深くなった。
……何か、失礼があっただろうか。
着地の仕方か。
それとも、服装か。
ポルフィラが自分の上衣へ目を落とすと、レオンハルトが近づいてきた。
「心配しなくていい。父上は、オブシディオンが天馬を狩ると聞いてから、竜の話になると、ずっとあんな顔をしているんだ。君に敵意があるわけじゃない」
「私は、生まれつきこの顔だ」
ヴァルデルが低い声で言った。
ポルフィラは慌てて顔を上げた。
「いえ、そんな、顔が怖いなんて――」
そこで口を押さえた。
レオンハルトが横を向き、肩を震わせる。
ヴァルデルの片眉が上がった。
「まだ、何も言っておらぬが…」
「すみません!」
「父上。今、叱ると、私の説明が全部無駄になります」
「叱っておらぬ」
その声も大きかった。
ポルフィラがもう一度背筋を伸ばすと、レオンハルトはとうとう笑ってしまった。
*
謁見の間へ向かう途中、控えの部屋で、懐かしい人々に会った。
クラウスが立ち上がり、ポルフィラを迎えた。
「お帰り。ずいぶん逞しくなったな」
「ただいま戻りました」
レオノーラも、笑って彼女の肩へ手を置いた。
「よい旅だったようね。話を聞くのを楽しみにしていたわ」
テオバルトは、穏やかに目を細めた。
「マティアスも、嬉しそうに見送っていたよ」
ポルフィラが微笑むと、ロデリクがうなずき、リュシエンヌも席から声を掛けた。
「お帰りなさい。今日は、海の向こうのお話を聞かせてね」
「はい。皆様にも、お会いできて嬉しいです」
ほどなく一同は正式な謁見の場へ移った。
ポルフィラは役人の案内で進み、玉座に着いたレオンハルトへ一礼した。
ヴァルデルは王のそばに席を取り、アドリアンとリゼリアも並んでいる。
広間には机が運び込まれ、親書と、その内容をポルフィラが伝えた際の書き取り、島々の絵の写しが並べられていた。
レオンハルトが一同を見渡した。
「海の向こうの国から、友好を結びたいという親書が届いた。私は、この申し出に応じたいと思っている」
視線が、ポルフィラへ集まった。
彼女は促され、リャンの国について話し始めた。
昔、あちらの島から船で旅立ち、この国へ渡ってきた人々のこと。
竜を大切にする人々と、皇帝一家のこと。
話が航路へ移ると、ロデリクが前へ出た。
「島の絵を、詳しく調べさせてくれないか。近海の島と似たものがあれば、どこから先が私たちの知らない海なのか、確かめられるかもしれない」
海に詳しい彼は、写しを一枚ずつ見てから、ポルフィラへ尋ねた。
「この島から次の島までは、どのくらい飛んだのかな」
ポルフィラは、二つ並んだ島の絵を見た。
「ここは朝に発って、次に下りたときには、まだ日が高かったと思います。でも、正確には……」
「おおよそでいい。竜が同じ時間に飛ぶ距離も、天馬とは違うだろうからね」
ロデリクは紙の余白へ書き留め、レオンハルトを見た。
「天馬でたどれるかどうかも、調べたいと思います。途中で確実に休める島があるのか。島と島の間が、どれほど離れているのか。それが分からないまま、渡らせることはできません」
アドリアンがうなずいた。
「帰りも飛べるだけの余力が要る。まず、私たちの海岸から近い島を確かめるところからですね」
リュシエンヌが、親書のそばにある書き取りへ目を落とした。
「文字にも違いがあるのね。返書の意味が正しく伝わるよう、こちらの文もポルフィラに確かめてもらいましょう」
テオバルトもうなずいた。
「使節を迎える日までに、言葉を学ぶ者も必要になるな」
「船のことは、造船に携わる者にも話を聞こう」
クラウスが言った。
レオノーラは島の絵へ目を向けた。
「天馬で調べに行くなら、飛べる距離を確かめてからね。休める島が見つからず、帰れなくなっては困るわ」
レオンハルトは、ロデリクへ顔を向けた。
「では、海沿いの町で話を集め、手持ちの地図と照らし合わせてくれ。まずは、どこまで分かっているのかを確かめよう」
「承知しました。調べる者と、実際に海へ出る者を決めて、ご報告します」
ポルフィラは、机の上の絵を見つめた。
小島で座り込み、一枚ずつ描いたものだった。
今、その絵を囲んで、海を渡れるか話している。
リャンにも、ユエンにも、早く伝えたかった。
こちらでも、海を渡る方法を探し始めたのだと。
*
会議が終わると、ポルフィラは大きく息をついた。
リゼリアが近づき、笑いかける。
「お疲れさま。皆、真剣に聞いていたわね」
「うん。緊張した」
「よく分かったよ。島の絵も、助かる」
アドリアンも隣へ来た。
ポルフィラが礼を言いかけたとき、低い声がした。
「ポルフィラ」
ヴァルデルだった。
正面から歩いてくる。やはり、眉間に皺がある。
ポルフィラは、ほぐれかけた背筋を伸ばし直した。
「一つ、確かめておきたい」
レオンハルトが父を見た。
その口元が、また少し緩んでいた。




