第253話 海の向こうへ持ち帰るもの
ウェンの住む町が見えてきた。
山を背にした宮殿の町とは違い、いくつもの水路の間に、整った通りが伸びている。
その中に、緑に囲まれた広い屋敷があった。
オブシディオンの影が屋根を越えると、道を歩いていた人々が空を見上げた。
門の前で、家臣たちが忙しく動き始める。
オブシディオンの背には、宮殿を発つ前に載せてもらった荷が積まれていた。
リャンたち一家から、故郷へ持ち帰るようにと贈られた品々だ。
上等な織物や見事な工芸品が、旅の途中で傷まないよう、いくつもの箱に収められている。
あまりの量にポルフィラが驚くと、リャンは笑っていた。
「そなたの国の人々にも、私たちの国の品を見てもらいたい。家族や友人にも、分けてやってくれ」
シーランもユエンもシェンリュカも、それぞれ品を選んでくれたという。
自分で買った土産だけでも多かったのに、持ち帰る品はさらに増えていた。
到着を知らせる便りは、先に送っていた。
それでも、黒い竜が庭へ降りると、初めて見る若い働き手は、持っていた籠を抱えたまま立ち尽くした。
ウェンは回廊から歩いてきた。
細身の体に落ち着いた色の長衣をまとい、穏やかな目でポルフィラを迎えた。
「よく来てくれた。腕は、もうよいのかな」
ポルフィラは肩から畳まれた翼の付け根へ下りると、まだ高い所から軽く跳び下りた。
両足で柔らかく着地し、ウェンに両手を上げてみせた。
「はい。このとおりです」
ウェンはほっとしたように微笑んだ。
「便りでは治ったと聞いていても、顔を見るまでは気がかりだったよ」
家令のカイも、深く頭を下げた。
「お帰りなさいませ。オブシディオン様も、どうぞ、いつもの庭でお休みください」
いつもの庭。
そう言って迎えられることが、ポルフィラには嬉しかった。
*
その夜は、ウェンとゆっくり話した。
火災の後始末や、宮殿の職人たちのことを聞かれ、ポルフィラは知っている範囲で答えた。
焼けた工房は、少しずつ建て直されている。
道具を失った職人には新しい道具が渡され、別の建物で仕事を再開した者もいた。
ウェンはうなずいた。
「陛下もユエン殿下も、よく足を運んでおられるそうだね」
「はい。シェンリュカも。皆、作っている人の話を聞くのが好きなんです」
ポルフィラは部屋の掛け軸へ目を向けた。
赤い竜の背に、ウェンの曽祖父が描かれている。
初めて見たときは、人を乗せた竜の絵があるだけで驚いた。
今では、その人が竜と旅立った気持ちを、少し分かる気がした。
「次に戻る途中でも、その次の旅の途中でも、必ず寄っておくれ」
ウェンが言った。
ポルフィラは顔を戻した。
「はい。また、お話ししたいです」
ウェンは優しく笑った。
「楽しみに待っているよ」
*
シェンラの町でタオに会うと、最初に腕を見せるように言われた。
ポルフィラが袖をまくると、彼は傷痕を見て眉を寄せた。
「治ってよかった…」
「心配をかけて、ごめんなさい」
タオは首を振った。
「謝るために帰ってきたんじゃないだろう。顔を見せてくれて、安心した」
ポルフィラは、持ってきた包みをタオへ差し出した。
「王都のお土産です。お世話になったお礼に、私が選びました」
タオは驚いた顔で受け取った。
「わざわざ、俺にまで買ってきてくれたのか」
「はい。店の皆さんと食べるお菓子もあります」
店の奥から出てきた働き手たちが、その言葉に声を弾ませた。
皆で菓子を分けながら、ポルフィラは宮殿での暮らしを話した。
「皇太子殿下や皇女殿下とも、よくご一緒したのか」
タオが尋ねた。
「はい。ユエンとシェンリュカが、宮殿の中の町を案内してくれたんです。三人でお菓子を食べたり、舟に乗ったりしました」
タオは菓子を持つ手を止めた。
「殿下方を、名前で呼んでいるのか?」
ポルフィラはうなずいた。
「友達だから、普通に話してほしいと言ってくれて。今では、いつもそう呼んでいます」
働き手の一人が、感心したように息をついた。
「皇太子殿下と友達かあ。たいしたものだな」
「一緒にいると、そんなに気負わなくていいんです。ユエンなんて、舟に移ろうとして池に落ちたこともあるんですよ」
「殿下が?」
タオが目を丸くした。
「ええ。すぐに護衛の人が引き上げてくれて、怪我もありませんでした。濡れたユエンが自分でも笑うから、私たちも、つい笑ってしまって」
ポルフィラは、そのときの三人の様子を話した。
初めは驚いて聞いていた皆も、話が進むうちに笑い始めた。
タオが目尻を下げた。
「そうか。そんなふうに、一緒に笑える方なんだな」
「はい。とても優しい人達です」
ポルフィラも、笑顔でうなずいた。
*
預けていた荷物は、奥の部屋で大切に保管されていた。
包みを一つずつ確かめると、働いていた頃のことを思い出した。
重い荷を運び、知らない品の名を覚え、少しずつお金を貯めた。
仕事の帰りに店をのぞき、迷った末に買った包みもある。
タオと店の者たちが、包みをオブシディオンのところへ運んでくれた。
その背にすでに積まれた箱を見て、タオが足を止めた。
「王都でも、ずいぶん買ったんだな」
「その箱は、陛下たちからいただいた物なんです。故郷の皆にも、この国の品を見てほしいとおっしゃって」
箱の一つにかかった布を少しめくると、隙間から、艶やかな織物が見えた。
タオは商人らしい目でそれを見て、低く唸った。
「こいつは、めったに店にも並ばない品だぞ」
ポルフィラは改めて、箱の数を見上げた。
自分の稼ぎでは、とても手が届かない物ばかりだった。
一家はそれを、惜しげもなく持たせてくれたのだ。
預けていた荷も、翼の動きを妨げない位置へ分けて載せた。
箱がずれないよう、タオたちが丈夫な紐でしっかりと結んでくれる。
すべて積み終わると、土産の山はますます大きくなっていた。
〈重くない?〉
ポルフィラが尋ねた。
〈……問題ない〉
その返事を伝えると、タオは竜を見上げて苦笑した。
ポルフィラはタオへ頭を下げた。
「働かせてくれて、ありがとうございました。お金のない旅人を、信用してくれて」
タオは少し目を細めた。
「働きぶりを見て決めたんだ。よくやってくれたよ」
彼は店の看板へ目を向け、それから彼女に顔を戻した。
「次も、ここへ顔を出せ。荷を運ばせたりはしないから」
ポルフィラは笑った。
「少しくらいなら、手伝いますよ」
*
ハイナの村へ着く頃には、海に夕日が差していた。
最初に見つけたのは、浜で網を片づけていたレンだった。
彼は空を見上げると、大きく両腕を振った。
オブシディオンが、村から少し離れた、いつもの浜へ降りる。
ポルフィラは竜の肩から畳まれた翼の付け根へ移った。
まだ地面までは大人の背丈よりも高い。
そこからためらわずに跳び下り、砂の上へ軽やかに着地すると、レンが駆けてきた。
「本当に治ったんだな!」
くりくりした目が、ポルフィラの顔から左腕へ動いた。
すぐ後ろからメイも来た。
「傷、見せて」
袖を上げると、二人とも黙った。
ポルフィラは腕を曲げ伸ばししてみせた。
「ちゃんと動くよ。痛くもない」
メイが、傷痕に触れないよう、袖を戻した。
「それならいい。でも、もう少し早く知らせなさいよ。便りを読んだとき、どれだけ驚いたと思うの」
ポルフィラは小さくなった。
「ごめん」
レンは大きな口を開けて笑いかけたが、途中で顔をしかめた。
「まあ……戻ってきたから、今はそれでいいか」
彼がポルフィラの右肩を軽く叩いた。
その手の温かさに、ようやく本当に帰ってきた気がした。
その晩、ポルフィラは王都で買った土産を、レンとメイへ渡した。
「二人に何がいいか迷ったんだけど、これにしたの」
レンは包みを受け取り、八重歯を見せて笑った。
「王都にいても、俺たちのことを思い出してくれたんだな」
「当たり前でしょう。二人には、こんなにお世話になったんだもの」
メイも嬉しそうに包みを開いた。
「ありがとう。大事にするね」
王都の店を歩きながら、二人の喜ぶ顔を思い浮かべて選んだ物だった。
その顔を実際に見られて、ポルフィラも嬉しくなった。
*
村では、数日過ごした。
ガンや年寄りたちへ宮殿の話をし、レンたちと舟にも乗った。
狭い舟を渡るときも、ポルフィラは慣れたものだった。
揺れに合わせて膝を曲げ、次の舟へ軽く飛び移る。
レンが口笛を吹いた。
「鈍ってないな」
「宮殿でも走ったり、縄を登ったりして、鍛えていたからね」
「せっかく覚えたんだもの。忘れてなくてよかったわ」
メイが隣の舟から笑った。
夕食のあと、ガンが尋ねた。
「次は、どちらへ行くんだ」
「一度、故郷へ帰ります。そのあと、またオブシディオンと旅に出ます」
ガンはうなずいた。
「なら、家で待つ者にも、元気な顔を見せてやらんとな」
ポルフィラは、リャンから預かった親書のことも話した。
「陛下は、私の国と国交を結びたいとおっしゃっていました。ガンさんから聞いた、昔、船で海を渡った人たちの話をしたら、航海の記録を探していると」
ガンは目を見開いた。
「ほう。昔の船の道を、また探そうというのか」
「はい。私も帰りに、途中で見つけた島を順番に描き残します。次にここへ来たら、それを陛下にお渡しするつもりです」
ガンはしばらく海の方を眺めていた。
「船が行き来するようになれば、お前の故郷の話も、もっと聞けるんだな」
「そうなったら、嬉しいです」
ポルフィラが答えると、ガンも嬉しそうにうなずいた。
レンが、隣から口を挟んだ。
「こっちへも、また来いよ」
「うん。皇帝一家にも、約束してきた」
その言葉に、レンは一度目を丸くした。
それから、八重歯を見せて笑った。
「すっかり、すごい知り合いができたなあ」
ポルフィラは首を振った。
「レンたちだって、私には大事な人たちだよ」
レンが口を閉じた。
メイは少し下を向き、それから笑った。
「……なら、なおさら忘れずに来なさいね」
*
出発の朝、村の人々が浜へ集まった。
オブシディオンは荷を載せたまま、海を背に立っていた。
ガンが竜を見上げ、頭を下げた。
「よい旅を。二人とも、無事でな」
ポルフィラはレンと握手をした。
メイとは、強く抱き合った。
「行ってくるね」
「ええ。行ってらっしゃい」
メイは笑いながら、目を拭った。
オブシディオンへ向き直ると、ポルフィラは翼の付け根を足場に、一気に肩へ上がった。
もう、誰かに引き上げてもらう必要はない。
荷の紐を確かめ、背のいつもの場所へ立つ。
レンが下から叫んだ。
「次に来たら、もっと揺れる舟にも乗せてやる!」
ポルフィラは声を上げて笑った。
「楽しみにしてる!」
*
黒い翼が広がった。
浜の砂が流れ、人々が腕で顔をかばう。
次の瞬間、オブシディオンの体が空へ浮いた。
ポルフィラは振り返った。
レンとメイが並んで手を振り、その後ろにガンと村人たちがいた。
何も持たずに来た浜だった。
今、オブシディオンの背には、働いて買った土産と、皇帝一家から託された高価な品々が山のように積まれている。
腕には傷が残り、体には、この海で覚えた力がついていた。
そして、この国には、戻ってくると約束した人たちがいる。
〈寂しいか〉
オブシディオンが尋ねた。
ポルフィラは、遠ざかる浜を見つめた。
〈うん。でも、また会える〉
〈そうだな〉
黒い竜は沖へ向かい、ゆっくりと高度を上げた。
遠くに連なる山々が、島の奥へ霞んでいく。
あの向こうには宮殿があり、今頃は、みなが空を見上げているかもしれなかった。
必ず、また来る。
けれど今は、故郷へ帰ろう。
旅立ってから、二年と八か月ほどが過ぎようとしていた。
ポルフィラは前を向き、オブシディオンの背へ手を置いた。
〈帰ろう。みんなに会いたい〉
〈海の向こうだ。しっかりつかまっていろ〉
大きな翼が風を捉えた。
土産を山ほど積んだ黒い竜が、朝日に光る海の上へ飛び出した。
*
昼を過ぎた頃、海の向こうに小さな島が見えてきた。
低い緑の丘の端に、尖った岩が立っている。
〈来るときにも、あそこで休んだ〉
オブシディオンが告げた。
ポルフィラにも見覚えがあった。
〈あの岩、覚えてる。今日も降りられる?〉
〈ああ〉
オブシディオンは島を一周してから、岩場に囲まれた広い浜へ下りた。
ポルフィラは翼の付け根から砂の上へ跳び下りると、旅の袋から帳面を取り出した。
ユエンが用意してくれた帳面だった。
表紙を開くと、まだ何も書かれていない紙が重なっている。
ポルフィラは岩陰へ座り、初めの頁に、今朝発ったハイナの海岸を描いた。
浜の両側の岬と、村のある場所を書き入れる。
その隣に、さっき空から見た小島の輪郭を描き、尖った岩と、オブシディオンが降りた浜に印をつけた。
二つを線で結び、小島の横へ「一つ目の休憩」と書く。
〈ここから次の島へは、どちらに飛んだんだっけ〉
オブシディオンが首を上げ、沖の一方へ顔を向けた。
〈あちらだ。小さな島が二つ、並んでいた〉
ポルフィラは顔を上げたが、今いる浜からは見えなかった。
〈じゃあ、次に空へ上がったら、私にも教えてね。島の形をよく見ておきたい〉
〈よかろう〉
ポルフィラは帳面を見下ろした。
空から見ただけの絵では、船が通れる所までは分からない。
それでも、どんな島が、どの順番で現れたのかは伝えられる。
船乗りたちが海を調べるとき、目印になってくれるかもしれなかった。
ユエンがこの頁を開くところを想像すると、少し笑みがこぼれた。
次に会ったら、島で何を見たのかも、一緒に話そう。
ポルフィラは帳面を濡れない袋へ戻した。
オブシディオンは波の届かない砂の上で、翼を畳んで休んでいた。
彼のそばへ腰を下ろし、水を飲む。
目の前には、これから渡っていく青い海が広がっていた。
今度、この海を越えて戻るときには、故郷の皆の話も持ってこよう。
ポルフィラはそう思いながら、オブシディオンと並んで、しばらく波を眺めていた。




