第252話 またここへ帰る
宮殿を発つ日が決まると、客殿へ顔を見せる人が増えた。
庭師も、厨房の者も、仕事の合間に挨拶に来てくれた。
火災の日、ポルフィラと中庭へ入った護衛も訪ねてきた。
あのときの礼を伝えると、彼は胸へ手を当てた。
「ご無事で、何よりでございました」
侍女は、まだ歩くときに杖を使っていた。
シェンリュカと一緒に客殿へ来て、庭で休むオブシディオンへ深く頭を下げた。
〈皆、何度も礼を言う〉
オブシディオンが不思議そうに告げた。
ポルフィラは窓辺で笑った。
〈何度言っても、足りないんだよ〉
*
リャンに呼ばれ、ポルフィラはユエンとともに執務室を訪ねた。
机には、この国と周りの海を描いた地図が広げられていた。
リャンは二人に椅子を勧めた。
「そなたの国と、国交を結びたいと思っている」
ポルフィラは驚いて顔を上げた。
「私の国と、ですか?」
「ああ。そなたから、何度も故郷の話を聞いた。竜と天馬が暮らす国を、もっと知りたい。いずれは船で使節を送り、人や品が行き来できるようになればと思っている」
ポルフィラは、ハイナ村で聞いた話を思い出した。
「ガンさんが、昔、この国から船で海を渡った人たちがいたと話してくれました。私はその人たちが、私の国にいる民の祖先じゃないかと思ってます」
「うむ。その航海の記録が残っていないか、探させている。かつて渡った者がいるならば、私たちにも渡れるかもしれぬ」
リャンは地図の端を指した。
描かれているのは、この国の近くの島々までだった。
その先の海には、ポルフィラの故郷も、旅の途中で休んだ小島も描かれていない。
「だが、どの島をたどって海を渡ったのか、まだ分からぬ。遠くまで漁に出る船乗りにも、尋ねているところだ」
ポルフィラは地図を見つめた。
「それなら、帰りに見つけた島を、順番に描き残してみます。島の形や、そこから次の島がどちらに見えたかも。オブシディオンなら、来るときに通った所も覚えていると思います」
リャンが顔を上げた。
「それを、次に来るときに持ってきてもらえるのか」
「はい。島で休むたびに描けば、忘れずに残せます」
「ありがたい。島の位置が分かれば、船乗りたちも調べやすくなる。潮や風のことは、こちらで調べよう」
ユエンも身を乗り出した。
「紙を綴じた帳面を用意するよ。濡れても大丈夫なように油紙も」
「ありがとう。故郷に着くまで、大事に持っていくね」
リャンは、机の上の文箱へ手を置いた。
「もう一つ、頼みがある。私の親書を、故郷で国を治める方へ届けてもらえないだろうか。友好を結びたいという願いを、まずは書状でお伝えしたい」
ポルフィラはうなずいた。
「はい。必ず届けます。陛下のお気持ちも、一緒に伝えます」
「ありがとう。返書を預かれたら、そなたが再び来るときに運んでもらいたい」
そばで話を聞いていたユエンが、父へ顔を向けた。
「航路の調べには、私も加わらせてください」
リャンはうなずいた。
「では、船乗りたちの話を聞いてくれ。古い記録が見つかったら、お前にも見せよう」
ユエンは父に一礼してから、ポルフィラへ微笑んだ。
「いつか、君の故郷を訪ねてみたい…」
「その時は、私が国を案内するね」
ポルフィラが答えると、彼は嬉しそうに目を細めた。
*
出発の前夜も、ポルフィラはいつものように一家と食卓を囲んだ。
隣にはユエンが座り、向かいではシェンリュカが今日あったことを話している。
開け放した戸の向こうでは、オブシディオンが庭でくつろいでいた。
シーランが、ポルフィラの好きな料理を勧めてくれた。
礼を言って箸を伸ばすと、明日の夕食には、もうここにいないのだと思った。
毎日、当たり前のように座っていた席を離れることが、急に寂しくなった。
リャンが、ポルフィラの手元を見た。
「腕は、もう不自由ないか」
「はい。荷物を持っても平気です。長旅も大丈夫だと、医師にも言ってもらえました」
「そうか。それは、よかった」
皇帝はうなずいた。
「しかし……いざ発つとなると、寂しくなるものだな…」
シーランが夫を見て微笑んだ。
「あなたも、毎日のように庭を見ていましたものね」
「竜がいてくれるのだ。見に行かずにいられるか」
シェンリュカが笑った。
「お父様、オブシディオン様に会いたいだけで、私たちのところへ来た日もあるでしょう」
「お前たちにも会いに行った」
「ついでに?」
リャンが困った顔をして、皆が笑った。
ポルフィラも笑いながら、庭の黒い竜へ目を向けた。
彼がいることを、こんなにも喜んでくれる。
それは、この国へ来るまで知らなかった温かさだった。
*
食事が終わると、ポルフィラは膝の上で手を重ねた。
リャンがその様子に気づいた。
「何か、話したいことがあるのか」
ポルフィラは顔を上げた。
「はい。お祖母様の竜のことです」
部屋が静かになった。
ユエンも、手にしていた杯を置いた。
「弩弓で竜を射殺した国を、必ず見つけます」
リャンの表情が変わった。
ポルフィラは一家の顔を見ながら続けた。
「竜を射殺せる武器を持つ国があるなら、知らずにその上を飛ぶのは危険です。私たちだけではありません。旅をしているほかの竜が、そこへ行ってしまうかもしれません」
庭で、オブシディオンが頭を上げた。
ポルフィラは、銀色の竜と皇帝の祖母の話を思い出していた。
家族と別れ、竜とともに生きようと旅立った人。
その大切な竜を失い、何も語れなくなった人…
「お祖母様の竜が、なぜ殺されなければならなかったのか、知りたいです。それに、この先、ほかの竜にも同じことが起きてほしくありません。危険な場所がどこにあるのか、確かめたいんです」
旅の空で出会うかもしれない竜たちに、ここへ行ってはいけないと伝えられるように。
何も知らないまま、銀の竜と同じ目に遭わせたくなかった。
「旅をしながら、その弩弓を知っている人を探します」
リャンはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「見つけてほしい。私も、何があったか知りたい」
ポルフィラがうなずこうとすると、皇帝は言葉を続けた。
「だが、それ以上に、二人に戻ってきてほしい。祖母のために、同じことを繰り返してほしくはない」
シーランも、まっすぐに彼女を見ていた。
シェンリュカが、膝の上のポルフィラの手へ触れた。
ユエンが静かに言った。
「相手を見つけても、あまり近づかないで。竜を傷つける武器を持っているんだから…」
ポルフィラはうなずいた。
「分かってる。まず、どんな所なのか、よく調べる。オブシディオンを失うようなことは、絶対にしたくない」
〈私も、お前を失うつもりはない〉
庭から声が届いた。
ポルフィラは黒い竜へ顔を向けた。
彼女の表情を見て、リャンが尋ねた。
「今、何と?」
ポルフィラが伝えると、皇帝は深くうなずいた。
「では、二人で互いを守ってくれ」
*
ポルフィラは、もう一つ伝えた。
「まずは、一度、故郷へ帰ります。長く離れているので、家族や友達に会いたいんです」
リャンが微笑んだ。
「それがいい。皆、待っているだろう」
「はい。それから、またここへ戻ってきます」
シェンリュカが身を乗り出した。
「本当に?」
「約束する。故郷で、ここの話もしたい。竜をこんなに大切にしている人たちに会えたって」
言いながら、ポルフィラは少し声を詰まらせた。
故郷では、オブシディオンが現れると、恐れて身を縮める人が多かった。
竜の力が、彼らには恐ろしいのだと分かっている。
それでも、その様子を見ると胸が痛んだ。
この国では、皇帝も、国民も、竜を見て目を輝かせた。
「ここへ来られて、よかったです。私にも、オブシディオンにも、とても大事な国になりました」
シェンリュカが抱きついてきた。
ポルフィラは両腕で、その背を抱き返した。
リャンは目元を拭い、少し笑った。
「戻ったときに客殿まで案内しなくても、自分で帰って来られるな?」
ポルフィラも笑った。
「はい。道は、もう覚えました」
「ならば、いつでも待っている。帰ってくる場所は、ここにもある」
*
翌朝、一家は庭へ見送りに出た。
ポルフィラは封をした親書を預かり、水が入らないように包んで、旅の袋へ大切に収めた。
ユエンが用意してくれた帳面も、その隣に入っている。
これから越える海に、どんな島があるのか。
一つずつ描き留め、次に来るときに彼に見せようと思った。
旅装に着替えた彼女の前で、シーランが上衣の襟を整えた。
「無理はしないこと。疲れたら、きちんと休むのですよ」
「はい」
シェンリュカは、もう一度彼女を抱きしめた。
「次は、私ももっと遠くまで乗せてもらうわ」
ポルフィラは笑った。
「約束だよ?」
最後に、ユエンが前へ出た。
深い青の長衣に、銀糸の刺繍が朝の光を受けていた。
風がきれいな茶色の髪を揺らし、整った顔にかかる。
ユエンはそれを払うこともせず、美しい緑の瞳でポルフィラを見つめていた。
「…もう、行くんだね」
「うん」
いつもならすぐに続く会話が、そこで途切れた。
ユエンは何か言いかけて口を閉じ、少ししてから微笑んだ。けれど、彼女を見つめる目は寂しそうだった。
そっと手を差し出す。
ポルフィラは、その手を握った。
「たくさん、世話になったね」
ユエンは指を握り返した。
「世話だと思ったことは、一度もないよ」
風が彼女の髪を揺らした。
ユエンは空いた手で、彼女の頬にかかった一房を耳へよけた。
ポルフィラは、いつものように彼を見上げていた。
「…君が戻ったら、最初に会いに行ってもいいかな」
「もちろん。今度は私から、ユエンを探すかもしれないよ」
彼は笑った。
けれど、その手は、すぐには離れなかった。
ポルフィラは少し寂しくなって、もう一度握り返した。
「またね、ユエン」
「うん。また、ここで」
ユエンはようやく手を離した。
ポルフィラがオブシディオンへ向き直ったあとも、その場に立って彼女を見つめていた。
*
ポルフィラはオブシディオンの背へ上がった。
以前と同じように、足場を確かめるより早く体が動いた。
翼の付け根から肩へ登り、いつもの場所に立つ。
オブシディオンが立ち上がった。
一家が顔を上げる。
リャンの目には、初めて出会った日と同じ憧れがあった。
〈また来ようね〉
ポルフィラが告げた。
〈お前はもう、約束したのだろう〉
彼女が笑うと、黒い翼が大きく開いた。
人々が下がり、庭の木々が揺れた。
宮殿が足元へ遠ざかる。
池も、客殿も、青と銀の竜の屏風がある殿舎も、小さくなっていく。
ポルフィラは、一家の姿が見えなくなるまで、角を握り立ったまま手を振っていた。




