↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
PR
262/292

第252話 またここへ帰る

宮殿を発つ日が決まると、客殿へ顔を見せる人が増えた。

庭師も、厨房の者も、仕事の合間に挨拶に来てくれた。

火災の日、ポルフィラと中庭へ入った護衛も訪ねてきた。

あのときの礼を伝えると、彼は胸へ手を当てた。

「ご無事で、何よりでございました」


侍女は、まだ歩くときに杖を使っていた。

シェンリュカと一緒に客殿へ来て、庭で休むオブシディオンへ深く頭を下げた。


〈皆、何度も礼を言う〉

オブシディオンが不思議そうに告げた。


ポルフィラは窓辺で笑った。

〈何度言っても、足りないんだよ〉


*


リャンに呼ばれ、ポルフィラはユエンとともに執務室を訪ねた。

机には、この国と周りの海を描いた地図が広げられていた。


リャンは二人に椅子を勧めた。

「そなたの国と、国交を結びたいと思っている」


ポルフィラは驚いて顔を上げた。

「私の国と、ですか?」


「ああ。そなたから、何度も故郷の話を聞いた。竜と天馬が暮らす国を、もっと知りたい。いずれは船で使節を送り、人や品が行き来できるようになればと思っている」


ポルフィラは、ハイナ村で聞いた話を思い出した。

「ガンさんが、昔、この国から船で海を渡った人たちがいたと話してくれました。私はその人たちが、私の国にいる民の祖先じゃないかと思ってます」


「うむ。その航海の記録が残っていないか、探させている。かつて渡った者がいるならば、私たちにも渡れるかもしれぬ」


リャンは地図の端を指した。

描かれているのは、この国の近くの島々までだった。

その先の海には、ポルフィラの故郷も、旅の途中で休んだ小島も描かれていない。


「だが、どの島をたどって海を渡ったのか、まだ分からぬ。遠くまで漁に出る船乗りにも、尋ねているところだ」


ポルフィラは地図を見つめた。

「それなら、帰りに見つけた島を、順番に描き残してみます。島の形や、そこから次の島がどちらに見えたかも。オブシディオンなら、来るときに通った所も覚えていると思います」


リャンが顔を上げた。

「それを、次に来るときに持ってきてもらえるのか」


「はい。島で休むたびに描けば、忘れずに残せます」


「ありがたい。島の位置が分かれば、船乗りたちも調べやすくなる。潮や風のことは、こちらで調べよう」


ユエンも身を乗り出した。

「紙を綴じた帳面を用意するよ。濡れても大丈夫なように油紙も」


「ありがとう。故郷に着くまで、大事に持っていくね」


リャンは、机の上の文箱へ手を置いた。

「もう一つ、頼みがある。私の親書を、故郷で国を治める方へ届けてもらえないだろうか。友好を結びたいという願いを、まずは書状でお伝えしたい」


ポルフィラはうなずいた。

「はい。必ず届けます。陛下のお気持ちも、一緒に伝えます」


「ありがとう。返書を預かれたら、そなたが再び来るときに運んでもらいたい」


そばで話を聞いていたユエンが、父へ顔を向けた。

「航路の調べには、私も加わらせてください」


リャンはうなずいた。

「では、船乗りたちの話を聞いてくれ。古い記録が見つかったら、お前にも見せよう」


ユエンは父に一礼してから、ポルフィラへ微笑んだ。

「いつか、君の故郷を訪ねてみたい…」


「その時は、私が国を案内するね」

ポルフィラが答えると、彼は嬉しそうに目を細めた。


*


出発の前夜も、ポルフィラはいつものように一家と食卓を囲んだ。

隣にはユエンが座り、向かいではシェンリュカが今日あったことを話している。

開け放した戸の向こうでは、オブシディオンが庭でくつろいでいた。

シーランが、ポルフィラの好きな料理を勧めてくれた。

礼を言って箸を伸ばすと、明日の夕食には、もうここにいないのだと思った。

毎日、当たり前のように座っていた席を離れることが、急に寂しくなった。


リャンが、ポルフィラの手元を見た。

「腕は、もう不自由ないか」


「はい。荷物を持っても平気です。長旅も大丈夫だと、医師にも言ってもらえました」


「そうか。それは、よかった」

皇帝はうなずいた。

「しかし……いざ発つとなると、寂しくなるものだな…」


シーランが夫を見て微笑んだ。

「あなたも、毎日のように庭を見ていましたものね」


「竜がいてくれるのだ。見に行かずにいられるか」


シェンリュカが笑った。

「お父様、オブシディオン様に会いたいだけで、私たちのところへ来た日もあるでしょう」


「お前たちにも会いに行った」


「ついでに?」


リャンが困った顔をして、皆が笑った。

ポルフィラも笑いながら、庭の黒い竜へ目を向けた。

彼がいることを、こんなにも喜んでくれる。

それは、この国へ来るまで知らなかった温かさだった。


*


食事が終わると、ポルフィラは膝の上で手を重ねた。

リャンがその様子に気づいた。

「何か、話したいことがあるのか」


ポルフィラは顔を上げた。

「はい。お祖母様の竜のことです」


部屋が静かになった。

ユエンも、手にしていた杯を置いた。


「弩弓で竜を射殺した国を、必ず見つけます」


リャンの表情が変わった。


ポルフィラは一家の顔を見ながら続けた。

「竜を射殺せる武器を持つ国があるなら、知らずにその上を飛ぶのは危険です。私たちだけではありません。旅をしているほかの竜が、そこへ行ってしまうかもしれません」


庭で、オブシディオンが頭を上げた。


ポルフィラは、銀色の竜と皇帝の祖母の話を思い出していた。

家族と別れ、竜とともに生きようと旅立った人。

その大切な竜を失い、何も語れなくなった人…

「お祖母様の竜が、なぜ殺されなければならなかったのか、知りたいです。それに、この先、ほかの竜にも同じことが起きてほしくありません。危険な場所がどこにあるのか、確かめたいんです」

旅の空で出会うかもしれない竜たちに、ここへ行ってはいけないと伝えられるように。

何も知らないまま、銀の竜と同じ目に遭わせたくなかった。

「旅をしながら、その弩弓を知っている人を探します」


リャンはしばらく黙っていた。

やがて、ゆっくりと口を開いた。

「見つけてほしい。私も、何があったか知りたい」

ポルフィラがうなずこうとすると、皇帝は言葉を続けた。

「だが、それ以上に、二人に戻ってきてほしい。祖母のために、同じことを繰り返してほしくはない」


シーランも、まっすぐに彼女を見ていた。

シェンリュカが、膝の上のポルフィラの手へ触れた。


ユエンが静かに言った。

「相手を見つけても、あまり近づかないで。竜を傷つける武器を持っているんだから…」


ポルフィラはうなずいた。

「分かってる。まず、どんな所なのか、よく調べる。オブシディオンを失うようなことは、絶対にしたくない」


〈私も、お前を失うつもりはない〉

庭から声が届いた。


ポルフィラは黒い竜へ顔を向けた。


彼女の表情を見て、リャンが尋ねた。

「今、何と?」


ポルフィラが伝えると、皇帝は深くうなずいた。

「では、二人で互いを守ってくれ」


*


ポルフィラは、もう一つ伝えた。

「まずは、一度、故郷へ帰ります。長く離れているので、家族や友達に会いたいんです」


リャンが微笑んだ。

「それがいい。皆、待っているだろう」


「はい。それから、またここへ戻ってきます」


シェンリュカが身を乗り出した。

「本当に?」


「約束する。故郷で、ここの話もしたい。竜をこんなに大切にしている人たちに会えたって」

言いながら、ポルフィラは少し声を詰まらせた。


故郷では、オブシディオンが現れると、恐れて身を縮める人が多かった。

竜の力が、彼らには恐ろしいのだと分かっている。

それでも、その様子を見ると胸が痛んだ。

この国では、皇帝も、国民も、竜を見て目を輝かせた。


「ここへ来られて、よかったです。私にも、オブシディオンにも、とても大事な国になりました」


シェンリュカが抱きついてきた。

ポルフィラは両腕で、その背を抱き返した。


リャンは目元を拭い、少し笑った。

「戻ったときに客殿まで案内しなくても、自分で帰って来られるな?」


ポルフィラも笑った。

「はい。道は、もう覚えました」


「ならば、いつでも待っている。帰ってくる場所は、ここにもある」


*


翌朝、一家は庭へ見送りに出た。

ポルフィラは封をした親書を預かり、水が入らないように包んで、旅の袋へ大切に収めた。

ユエンが用意してくれた帳面も、その隣に入っている。

これから越える海に、どんな島があるのか。

一つずつ描き留め、次に来るときに彼に見せようと思った。


旅装に着替えた彼女の前で、シーランが上衣の襟を整えた。

「無理はしないこと。疲れたら、きちんと休むのですよ」


「はい」


シェンリュカは、もう一度彼女を抱きしめた。

「次は、私ももっと遠くまで乗せてもらうわ」


ポルフィラは笑った。

「約束だよ?」


最後に、ユエンが前へ出た。

深い青の長衣に、銀糸の刺繍が朝の光を受けていた。

風がきれいな茶色の髪を揺らし、整った顔にかかる。

ユエンはそれを払うこともせず、美しい緑の瞳でポルフィラを見つめていた。

「…もう、行くんだね」


「うん」


いつもならすぐに続く会話が、そこで途切れた。

ユエンは何か言いかけて口を閉じ、少ししてから微笑んだ。けれど、彼女を見つめる目は寂しそうだった。

そっと手を差し出す。


ポルフィラは、その手を握った。

「たくさん、世話になったね」


ユエンは指を握り返した。

「世話だと思ったことは、一度もないよ」


風が彼女の髪を揺らした。

ユエンは空いた手で、彼女の頬にかかった一房を耳へよけた。

ポルフィラは、いつものように彼を見上げていた。


「…君が戻ったら、最初に会いに行ってもいいかな」


「もちろん。今度は私から、ユエンを探すかもしれないよ」


彼は笑った。

けれど、その手は、すぐには離れなかった。


ポルフィラは少し寂しくなって、もう一度握り返した。

「またね、ユエン」


「うん。また、ここで」

ユエンはようやく手を離した。


ポルフィラがオブシディオンへ向き直ったあとも、その場に立って彼女を見つめていた。


*


ポルフィラはオブシディオンの背へ上がった。

以前と同じように、足場を確かめるより早く体が動いた。

翼の付け根から肩へ登り、いつもの場所に立つ。


オブシディオンが立ち上がった。

一家が顔を上げる。

リャンの目には、初めて出会った日と同じ憧れがあった。


〈また来ようね〉

ポルフィラが告げた。


〈お前はもう、約束したのだろう〉


彼女が笑うと、黒い翼が大きく開いた。

人々が下がり、庭の木々が揺れた。

宮殿が足元へ遠ざかる。

池も、客殿も、青と銀の竜の屏風がある殿舎も、小さくなっていく。


ポルフィラは、一家の姿が見えなくなるまで、角を握り立ったまま手を振っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。