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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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第251話 隣にいる時間

怪我をして初めの数日は、思ったより不便だった。

服を着替えるにも、髪を洗うにも、人の手を借りなければならない。

ポルフィラが右手で上衣の紐と格闘していると、シェンリュカが笑った。

「昨日も、一人でできるって言っていたでしょう」


「昨日よりは、できるかと思って」


「じゃあ、できなかったところだけ、私がやるわ」


皇女は隣へ座り、紐を結んだ。

細かな作業をするときの顔は、工房で金具を見ていたときと同じくらい真剣だった。


ポルフィラはその手元を見た。

「いつも来てくれて、ありがとう」


シェンリュカは結び目を整えてから、顔を上げた。

「ここへ来たいの。何かしてあげなきゃと思って来ているんじゃないわ」


ポルフィラが笑うと、皇女も笑った。


*


一週間ほどで痛みは薄れ、ポルフィラは庭へ出るようになった。

脚に怪我はないので、歩くことは苦にならない。

左腕を庇いながら、池の周りを歩いた。


オブシディオンは草地に腹を下ろし、庭を歩くポルフィラを目で追っていた。

彼女が池のそばを通ると、伏せていた頭を少し上げた。


〈そんなに見ていなくても、転ばないよ〉


〈前にも、落ちぬと言いながら滑っただろう〉


〈あれは、ずっと前の話でしょう〉


ポルフィラが口を尖らせると、竜の喉が小さく鳴った。

久しぶりに聞く、笑うときの音だった。


ある朝、医師が傷を診たあと、オブシディオンは山へ狩りに出た。

ポルフィラが自分から勧めたのだった。

〈ずっとそばにいてくれたもの。お腹も空いたでしょう。行っておいでよ〉


〈昼には戻る〉

彼はそう告げ、空へ上がった。


庭で働いていた者たちが顔を上げ、飛び去る姿を見送った。

火災のあと、その姿を前に頭を下げる人が増えていた。

ポルフィラには、それが嬉しかった。

彼が空へ現れるのを待ち、戻ってきたと喜ぶ人々がいる。

ここではオブシディオンがいることを、皆が歓迎していた。


*


ユエンは、用事の合間に客殿へ来た。

長くいられる日もあれば、顔を見てすぐ戻る日もあった。

ポルフィラは足音だけで、彼が来たと分かるようになった。


「今日は、早いね」


窓辺から声をかけると、ユエンが持っていた包みを上げた。

淡い青の長衣に包まれた、すらりとした姿が戸口に立っていた。

日差しを受けた茶色の髪が艶めき、整った顔に、少しいたずらっぽい笑みが浮かぶ。

「市場で、君が好きだと言っていた菓子を見つけた」


「買ってきてくれたの?」


「妹にも。同じものを買わないと、あとで叱られるからね」


二人は池のそばの長椅子に座った。

ユエンは包みを開き、菓子を一つ取ってポルフィラへ渡した。

「これが一番好きだと言っていたね」


「覚えていてくれたの?」


「何度も、おいしいと言っていたからね」


ポルフィラは笑い、受け取った菓子をかじった。

ユエンは自分の分を取り、昨日、宮殿であった出来事を話し始めた。

菓子を食べ終わっても話は尽きず、彼は次の用事の時刻が近づくまで、彼女の隣に座っていた。


回廊から来たシェンリュカが、二人を見つけた。

兄の手にある包みを見て、立ち止まる。

「私の分、残っているでしょうね?」


ユエンがもう一つの包みを差し出した。

「もちろん」


皇女は受け取ったあと、兄とポルフィラを交互に見た。

二人の様子を見て何か言いかけるが、思いなおして口を閉じる。


ポルフィラが隣を空けた。

「こっちに座る? まだ温かいよ」


シェンリュカは少し笑い、彼女の反対側へ腰を下ろした。


*


ひと月もたたないうちに、傷は塞がった。

左腕も動かせるようになり、着替えや髪を結ぶことに、もう人の手は要らなくなった。

上腕には長い傷痕が残っていた。

ポルフィラは袖をまくり、そっと指でなぞったあと、腕を上げてみた。

痛みはない。

けれど、庭の階段を駆け上がっただけで、息が弾んだ。

怪我の前なら、そのまま先まで走っていけたのに、今は途中で立ち止まりたくなる。


ポルフィラは腰へ手を当てた。

「傷は治ったのに、体が鈍っちゃった」


隣を歩いていたユエンが、彼女を見た。

「しばらく、座っていることが多かったからね」


「また鍛えなきゃ。こんなままで長い旅に出たら、オブシディオンに笑われる」


庭で休んでいた竜から、声が届いた。

〈今のままでも、運んでやれるぞ〉


ポルフィラは振り向いた。

〈前みたいに、走ったり跳んだりしたいの。すぐ息が切れるのは嫌だもの〉


オブシディオンは、低く喉を鳴らした。


*


翌朝から、ポルフィラは毎日、庭を走った。

初めは途中で息が切れたが、走れる距離は日ごとに延びていった。


ユエンも時間のある朝には、稽古着に着替えて一緒に走った。

ポルフィラが少し速度を上げても、彼は涼しい顔でついてきた。


「ユエンは、息が切れないの?」


「毎朝、剣の稽古の前に走っているんだ」


ポルフィラは隣を見た。

ユエンの足取りは軽く、まだ息も乱れていなかった。

袖をまくった腕には筋肉がつき、長衣を着ているときより、たくましく見えた。


「追いつけるようになるからね」


彼が笑った。

「楽しみにしているよ」


*


オブシディオンへの乗り降りも、毎日繰り返した。

畳まれた翼の関節へ飛び乗り、肩へ手をかけて背へ上がる。

要領は覚えていたが、途中で足が重くなり、以前のようには動けなかった。


〈少し休めばよい〉

オブシディオンが告げた。


ポルフィラは肩の上で一息つき、額の汗を拭った。

〈うん。でも、昨日より楽に上がれたよ〉


背へ座ると、ユエンとシェンリュカが下から手を振った。

短く宮殿の周りを飛んでもらい、戻ると肩から翼の付け根まで下りた。

そこから地面までは、まだ大人の背丈より高い。

ポルフィラは下に人がいないことを確かめ、思いきって飛び降りた。


翌日も、その次の日も、乗り降りを繰り返した。

慣れてくると、手でしがみつく時間が短くなった。

翼の関節から肩へ、一度も止まらずに上がれるようになった。


庭を走り終えると、護衛たちの稽古場で縄登りもした。

初めは腕が疲れて途中で下りたが、やがて上まで登りきれるようになった。


汗をかいて戻ると、シェンリュカが水を用意して待っていた。

「今日は、昨日より遠くまで行ったでしょう」


「分かった?」


「戻ってくるのが遅かったもの」


三人で木陰に座る時間も、毎日の楽しみになった。

ユエンが仕事へ戻ったあとも、ポルフィラとシェンリュカは、旅先の話をしながら庭を歩いた。


*


春の花が散り、池の岸に夏の草が伸びた。

傷が治ってから、二か月ほどが過ぎていた。

ポルフィラは、運動しても息を切らさなくなっていた。


その朝も、オブシディオンと飛んだ。

地面へ戻ると、ポルフィラは背から肩へ移り、翼の付け根へ軽く下りた。

まだ、地上に立つユエンを見下ろす高さだ。

そこから、ためらわずに飛びおり、軽やかに着地した。


ユエンが拍手をした。

「すっかり戻ったね」


ポルフィラは両腕を上げた。

「前より動けるかもしれないよ。追いかけっこ、してみる?」


「旅立つ前に転んだら、二人とも母上に叱られる」


ポルフィラは笑った。

隣へ来たユエンが、彼女の髪についた小さな葉を取った。

緑の瞳が近くで微笑んでいた。

「それなら、また旅ができるね」


ポルフィラはうなずいた。

「うん。そろそろ、帰る準備をしようと思う」


ユエンは庭の向こうへ目を向けた。

少し間を置いてから、彼女に顔を戻す。

「……分かっていたんだけどね。君が、ずっとここにいるわけではないことは…」


ポルフィラは彼の顔を見た。

自分も寂しかった。

「…もう会えなくなるわけじゃないよ」

ポルフィラは続けた。

「また来る。オブシディオンと一緒に」


彼は確かめるように、その顔を見つめた。

いつもは笑みを浮かべている口元が引き結ばれ、長い睫毛の下で、緑の瞳がまっすぐ彼女へ向いていた。

「それは、信じて待っていていい約束?」


「もちろん」

ポルフィラが笑うと、ユエンもようやく笑った。


「じゃあ、待っている」


二人は、ゆっくりと池のほとりを歩いた。


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