第249話 離れない人たち
負傷者のために開かれた殿舎は、火元から離れた広場に面していた。
大きく開け放たれた戸から、担架が次々と運び込まれる。
医師が怪我の具合を確かめ、侍女たちが水や布を運んでいた。
皇后シーランは、その入口でシェンリュカを見つけた。
「シェンリュカ!」
駆け寄って抱きしめると、皇女の肩が震えた。
「お母様……」
シーランは娘の顔に触れ、腕や肩に怪我がないか確かめた。
そのすぐ後ろを、ポルフィラの担架が通った。
シェンリュカが母の袖を握った。
「ポルフィラが助けに来てくれたの。私を庇って、腕を……」
シーランは血のにじんだ布を見た。
すぐに娘から手を離し、医師へ道を譲る。
「奥の部屋が空いています。そちらへ」
ポルフィラは担架の上から、皇后を見た。
「シェンリュカと一緒にいた人も、出られました。足を怪我した人が……」
そばを歩いていたユエンが答えた。
「別の医師が診ているよ。護衛も一緒だ。もう心配しなくていい」
ポルフィラはうなずいた。
安心した途端に、痛みが強くなった。
*
部屋へ入る前に、ポルフィラは顔を外へ向けた。
広場に、オブシディオンがいた。
殿舎の戸口は、人の担架を入れるには十分に広い。
それでも、彼の体は通れなかった。
黒い竜は戸口の前で足を止め、こちらを見ていた。
〈ここで、手当てをしてもらうね〉
〈分かっている〉
返事は短かった。
その目が自分の左腕から離れないのを見て、ポルフィラは声をかけ直した。
〈待っていてくれる?〉
〈ここにいる〉
ポルフィラがほっと息を吐くと、シーランがその様子に気づいた。
皇后は部屋の窓を開けさせ、医師へ尋ねた。
「この窓から姿が見える所に、寝台を置けますか」
医師は部屋の中を見回し、うなずいた。
侍女たちが寝台を動かす。
広場にいるオブシディオンの顔が、窓から見えるようになった。
ポルフィラは皇后を見た。
「ありがとうございます」
シーランはそっと額の髪をよけた。
「あなたも、怖かったでしょう。今は安心して、手当てを受けてちょうだい」
その優しい声を聞いて、ポルフィラは初めて唇を震わせた。
燃える物置では、出ることしか考えていなかった。
あと少し遅ければ、あの屋根の下にいたのだ。
窓の外へ目を向けると、オブシディオンが頭を低くした。
彼が見える。
それだけで、少し息がしやすくなった。
*
医師は裂けた袖を切り、傷を覆っていた布を外した。
左の上腕に、長い傷ができていた。
シェンリュカが息をのんだ。
ユエンは妹の肩へ手を置いたが、自分も傷から目を離せずにいた。
医師がポルフィラへ告げた。
「傷を洗って、何針か縫います。手当ての間は、腕を動かさないでください」
ポルフィラはうなずいた。
「分かりました」
シェンリュカが、寝台の右側へ回った。
「手、握っていてもいい?」
ポルフィラは右手を差し出した。
皇女が両手で包むと、指先は冷たかった。
「シェンリュカも、医師に診てもらってね。ずっと煙の中にいたんだから」
「うん。診てもらう。でも、ここにいていいでしょう?」
ポルフィラは小さくうなずいた。
「いてくれると、嬉しい」
傷に触れられるたび、体が強張った。
歯を食いしばっていると、シェンリュカが手を握り直す。
ユエンは寝台のそばに腰を下ろし、ポルフィラの顔を見ていた。
「痛いなら、痛いと言っていいんだよ」
ポルフィラは息を吐いた。
「……痛いよ。すごく」
声に出すと、涙がにじんだ。
シェンリュカも泣きそうな顔になったが、握った手は離さなかった。
*
手当てが終わった頃、リャンが部屋へ来た。
シェンリュカは別の医師に診てもらい、母の隣に座っていた。
娘の無事を聞くと、皇帝は目を閉じた。
それから歩み寄り、その頭を胸へ抱き寄せた。
「よく戻った」
シェンリュカが父の衣をつかんだ。
「ポルフィラと、オブシディオン様が……」
「聞いた。護衛たちも、迎えに行ってくれた者も、皆、よくやってくれた」
リャンは娘の背を撫で、それから寝台へ向かった。
ポルフィラが起き上がろうとすると、すぐに手を差し出して止めた。
「そのままで。礼を言いに来た者のために、痛い思いをしなくていい」
ポルフィラは枕へ頭を戻した。
皇帝は包帯を巻かれた腕を見つめ、深く頭を下げた。
「娘を守ってくれて、ありがとう」
ポルフィラは戸惑った。
「シェンリュカは、友達ですから」
リャンが顔を上げた。
その目元は赤くなっていた。
「そうか。……娘には、よい友ができたのだな」
シェンリュカが寝台のそばへ戻ってきた。
ポルフィラは彼女を見て、微笑んだ。
*
リャンは広場へ出て、オブシディオンの前に立った。
近くで働いていた者たちが手を止めた。
皇帝は黒い竜を見上げ、頭を下げた。
「あなたにも、心から感謝する。娘も、ポルフィラも、よく助けてくださった」
オブシディオンが、低く喉を鳴らした。
〈礼はよい。みなを、よく治してやれ〉
ポルフィラは戻って来た皇帝に、その言葉を伝えた。
リャンは一度、窓の外を見た。
「もちろんだ。必要なものは、すべて用意する」
医師が皇帝へ頭を下げた。
「傷は縫いましたが、腕の動きに支障はありません。しばらく強く引っ張ったり、重い物を持ったりしなければ、大丈夫です」
ユエンがほっと息をついた。
シェンリュカも、ようやく肩の力を抜いた。
「ただ、傷痕は残るでしょう」
医師が続けると、ポルフィラは包帯へ目を落とした。
帰ったら、きっとドランたちに心配される。
それでも、また元どおりに動けると聞いて安心した。
ポルフィラは窓の外を見た。
〈少し休めば、大丈夫だって〉
〈では、今は休め〉
オブシディオンはそう答え、窓の近くへ顎を下ろした。
*
夕方になって、ようやく火が広がらなくなったという知らせが届いた。
倉庫と工房の間で、まだ燃えていない建物の一部を取り壊し、火が移るのを防いだのだという。
火元に近い所では、消火が続いていた。
リャンは隣室で、家臣から報告を受けた。
戸が開いていたので、寝台にいるポルフィラにも声が聞こえた。
家臣が報告した。
「火元は、明日の調査に出す取引の記録を集めた部屋でした。倉庫の管理をする者が一人で残っていたそうです。本人は宮殿を出ようとしたところを、兵が呼び止めております」
リャンの顔が険しくなった。
「逃がしてはならぬ。本人と、火に気づいた者から事情を聞け」
ユエンが続けた。
「商家の記録は、別の場所に残っています。そちらも調べます」
リャンはうなずいた。
「頼む。なぜ火が出たのかも、必ず確かめよ」
ポルフィラは、二人の話を聞いていた。
不正を隠すために、管理を任されていた貴族が帳面を燃やしたのだろうか。
もしそうなら、自分の罪を隠すために、大勢の人を危険にさらしたことになる。
工房まで燃え、侍女は足を怪我した。
シェンリュカも、あの中庭に取り残されたのだ。
シェンリュカが、寝台の横で手を握り締めていた。
ポルフィラはその手へ、自分の右手を重ねた。
隣室で、皇帝が言った。
「まず、火を消し、怪我人を助ける。そのうえで、何が起きたのかを必ず明らかにする」
*
夜になっても、広場では人が行き来していた。
シェンリュカは母に付き添われ、休むために自分の部屋へ戻った。
ユエンも父に呼ばれ、調べの続きを確かめに行った。
二人とも、明日また来ると言っていた。
ポルフィラは、開いた窓から外を見た。
オブシディオンが広場に腹を下ろしている。
侍女が窓を閉めようとすると、彼女は頼んだ。
「少しだけ、開けておいてもらえますか」
侍女はうなずき、夜風が入りすぎないように窓を整えた。
〈眠れそうか〉
オブシディオンが尋ねた。
〈うん。まだ痛いけど〉
〈そうか〉
ポルフィラは、昼間の炎を思い出した。
燃える壁の向こうに黒い首が見えたとき、助かったと思った。
〈来てくれて、ありがとう〉
オブシディオンは、窓へ鼻先を寄せた。
〈お前が呼んだからな〉
ポルフィラは枕へ頬を寄せた。
目を閉じても、彼がそばにいるのは分かった。




