第248話 炎の中の黒い竜
オブシディオンの背から、三人の姿が見えた。
シェンリュカと侍女、それに護衛が一人。
燃える工房に囲まれた中庭で、身を寄せ合っている。
ポルフィラは身を乗り出し、皇女へ手を振った。
「シェンリュカ! 今、助けに行く!」
皇女が両手を上げた。
だが、その庭はオブシディオンが降りるには狭すぎた。
翼を畳んでも、建物と三人を避けて着地する場所がない。
ポルフィラは、庭の北側にある物置を指した。
〈あの物置を通れば、庭へ出られるはずだ。入口の前へ降りて〉
〈分かった〉
オブシディオンは工房の屋根を越え、北側へ回った。
*
物置の入口では、ユエンと兵たちが材木をどけていた。
ポルフィラが地面へ降りると、ユエンが駆け寄ってきた。
「シェンリュカは?」
ポルフィラは中庭のある方を指した。
「物置の向こうの庭にいる。侍女と護衛も一緒だった」
三人がいる中庭は、物置のすぐ向こうだった。
物置の中をまっすぐ進み、奥の扉から出れば、中庭へたどり着ける。
中を知る職人が、ユエンへ告げた。
「通路は荷を置いてあるので狭いですが、人は通れます」
ポルフィラは物置をのぞいた。
天井近くには煙が溜まって視界が悪い。
「私が行く。オブシディオンに、三人のいる場所を教えてもらえるから」
ユエンはそばの護衛へ顔を向けた。
「彼女と一緒に行ってほしい。歩けない者がいたら、運んできてくれ」
護衛がうなずき、口と鼻を布で覆った。
ポルフィラも渡された布を当て、姿勢を低くする。
ユエンがその肩へ触れた。
「くれぐれも気をつけて欲しい」
ポルフィラは彼を見た。
「うん。行ってくる」
オブシディオンは、ポルフィラが中へ入るのを見送った。
*
通路の両側には、板や木箱が積まれていた。
ポルフィラは護衛とともに腰をかがめ、裏口を目指した。
息を吸うと喉が痛む。
それでも、足元は見えていた。
裏口を抜けた途端、シェンリュカがこちらを向いた。
「ポルフィラ!」
駆け寄ろうとして咳き込んだ皇女を、ポルフィラが支えた。
「迎えに来たよ。歩ける?」
シェンリュカはうなずいた。
「私は平気。でも、この人が足を怪我して……」
侍女が地面に座り、腫れた足首を押さえていた。
連れてきた護衛が、皇女についていた護衛と二人で、侍女を両脇から支えた。
ポルフィラは三人へ、入ってきた裏口を示した。
「ここをまっすぐ戻れば、外へ出られる。先に行って。私たちもすぐ後ろについていく」
二人の護衛が、侍女を支えて物置へ入った。
ポルフィラはシェンリュカの手を握り、その後へ続いた。
中庭の向こうで、工房の屋根が崩れた。
振り返りかけた皇女の手を、ポルフィラは引いた。
「前を見て。お兄さんが、出口で待ってる」
*
護衛たちは侍女を連れて、先に外へ出た。
入口から差す明かりの中に、ユエンの姿が見える。
ポルフィラとシェンリュカも、あと数歩でそこへ届くはずだった。
頭上で、木の裂ける音がした。
ポルフィラは顔を上げた。
入口の上に渡された太い梁が、片側の柱から外れかけていた。
焼けた木の端から、鉄の留め金が垂れ下がっている。
その真下を、シェンリュカが通ろうとしていた。
「下がって!」
ポルフィラは皇女の腕をつかみ、落ちかけた梁の下から引き戻した。
そのまま二人で壁際へ飛び退き、皇女を庇って身をかがめた。
梁が落ちた。
突き出た留め金が、ポルフィラの左の上腕を切り裂いた。
激しい痛みに、息が止まった。
背後で梁が床を打ち、木箱が砕ける。
粉塵が舞い上がり、入口の明かりが見えなくなった。
ポルフィラは右手を壁につき、倒れるのをこらえた。
「シェンリュカ。当たらなかった?」
皇女は首を振った。
その目が、ポルフィラの左腕に止まる。
「腕から、血が……!」
裂けた袖の下から、血が流れていた。
腕を上げようとすると痛みが走る。
ポルフィラは左腕を体へ寄せ、入口を見た。
落ちた梁と壊れた木箱が、出口を塞いでいた。
外からユエンの声がした。
「ポルフィラ! シェンリュカ!」
ポルフィラは大声で呼びかけた。
「二人ともいる! でも、出られない!」
入口の向こうで、兵が梁を動かそうとした。
しかし、上から落ちてきた屋根の一部まで重なり、人の力では持ち上がらなかった。
煙が濃くなってきた。
シェンリュカが口元を押さえ、膝をつく。
ポルフィラはそのそばにかがみ、オブシディオンを呼んだ。
〈入口のすぐ横にいる。梁が落ちて、出られない〉
〈壁を壊す。外の壁から離れられるか〉
ポルフィラは右腕で皇女の肩を抱き、外壁から通路の中央へ移った。
頭を低くさせ、自分も隣に伏せる。
〈離れたよ〉
*
外では、物置の屋根から炎が噴き出していた。
オブシディオンが低く鳴き、入口の横へ頭を向けた。
二人が取り残されている場所の、外側だった。
ユエンは兵たちを振り返った。
「壁を壊して助けるつもりだ。みんな、離れて!」
オブシディオンが、片方の翼を持ち上げた。
翼の鉤爪を外壁の板に引っかけ、後ろへ引く。
板が裂けた。
壁の一部が剥がれ、その奥に、建物を支える柱が現れた。
燃える軒が落ち、竜の首へ炎が降りかかった。
近くの兵が、思わず声を上げた。
「オブシディオン様!」
炎が黒い鱗を包んでいた。
首から胸へ赤い火が広がり、壁にかけた翼まで呑み込んでいく。
巻き上がる煙の中で、巨体の輪郭が見えなくなった。
兵たちは熱に顔を背け、腕で目をかばった。
かなり離れなければ、その場に立っていられない。
それほどの炎がオブシディオンを襲った。
煙の切れ間に、黒い首が見えた。
鱗は焼け落ちていない。
翼の薄い膜にも炎がまとわりついているのに、穴ひとつ開かなかった。
鉤爪にかかった板は赤く燃えている。
水桶を抱えた兵が、足を止めた。
「火が……竜には、効かないのか」
ユエンは返事ができなかった。
炎に包まれた黒い顔が、ゆっくりと壁へ近づく。
オブシディオンの目は、壁の向こうにいるポルフィラを探していた。
長い首を伸ばし、焼けて細くなった柱へ頭を押し当てる。
太い柱が軋み、根元から折れた。
壁板とともに、柱が物置の内側へ倒れる。
兵たちが顔を覆う中、オブシディオンは翼の鉤爪で、穴の縁に残った板を外へ引き剥がした。
人が通れるだけの穴が開いた。
ユエンが目を凝らすと、煙の奥で二人が動いた。
「シェンリュカ! こっちだ!」
*
ポルフィラは顔を上げた。
壊れた壁の向こうに、外の明かりが見えた。
オブシディオンは人が通れるように場所を空けていた。
燃える軒のすぐ下に、その黒い首がある。
炎が触れるたびに、鱗の表面が赤く照らされた。
シェンリュカが、その姿を見上げた。
「火が当たってる……!」
ポルフィラは皇女へ顔を向けた。
「オブシディオンは、大丈夫」
〈今だ。そこから出ろ〉
ポルフィラは皇女の背を押した。
「先に行って。足元に木があるから、気をつけて」
シェンリュカが穴をくぐった。
外で待っていた護衛が、その腕を取って瓦礫のない場所へ導く。
ポルフィラも後を追った。
左腕がひどく痛み、壁の残りをまたごうとして足が止まる。
穴のすぐ外へ、ユエンが来た。
「右手を出して。支えるから」
ポルフィラは手を伸ばした。
ユエンに右腕を支えられ、折れた板をまたぐ。
ようやく外へ出ると、彼女は大きく息を吐いた。
「戻ったよ」
ユエンは答えかけ、血に染まった左袖を見た。
「ポルフィラ、その腕……」
シェンリュカが兄のそばへ戻ってきた。
「私を庇ってくれたの。梁が落ちてきて……」
話しながら、皇女の声が震えた。
ユエンは近くの兵へ告げた。
「医師を呼んで。それから、清潔な布を持ってきてほしい」
ポルフィラの膝が震えた。
気づいたユエンが体を支え、物置から離れた石段へ座らせた。
「座って。ここで待とう」
渡された布を、ユエンが傷に当てた。
ポルフィラは痛みに顔をしかめ、右手でその布を押さえた。
シェンリュカが目の前に膝をついた。
「ごめんなさい。私のせいで……」
ポルフィラは首を振った。
「シェンリュカのせいじゃないよ。怪我がなくて、よかった」
皇女は何度もうなずいた。
頬を涙が伝い、灰で汚れた上衣に落ちた。
*
オブシディオンが、燃える物置から離れた。
彼が数歩退いた直後、屋根が大きな音を立てて崩れ落ちた。
炎が高く噴き上がった。
その手前に立つ黒い巨体を、人々は言葉もなく見上げた。
鱗には灰がついていた。
首を動かすと、そこに積もった火の粉が地面へこぼれた。
翼の縁に残っていた燃えさしも、体を揺すった拍子に落ちる。
ユエンは、壁を壊した翼の鉤爪から長い首へと目を移した。
つい先ほど、あの首も翼も、真っ赤な炎の中にあった。
人の手では動かせなかった梁が焼け崩れ、建物が形を失っていく中で、この竜の体は何も損なわれていない。
幼い頃から屏風に描かれた竜を眺め、憧れた。
今、目の前にいる竜は、想像していたよりもはるかに強く、美しかった。
ユエンは深く息を吐いた。
妹も、ポルフィラも、この竜がいなければ連れ出せなかった。
水桶を持った若い男が、震える声でつぶやいた。
「あんな炎の中にいたのに……」
隣の老職人が、深く頭を下げた。
「皇女様を、お助けくださった」
オブシディオンは人々の間を通り、ポルフィラの前へ来た。
低く下げた鼻先が、血のにじんだ布のそばで止まる。
〈腕をやられたのか〉
ポルフィラは彼を見上げた。
〈落ちてきた鉄が当たっただけ〉
竜の喉から、低い唸りが漏れた。
ポルフィラは静かに呼びかけた。
〈そばにいて〉
オブシディオンはその場に腹を下ろし、ポルフィラの顔の近くへ頭を寄せた。
彼女は少しだけ身を傾け、頬を黒い鱗によせた。
医師が担架を持った者たちと駆けつけた。
シェンリュカはポルフィラの隣を離れなかった。
医師がユエンへ告げた。
「傷が深い。すぐに手当てをします」
担架が石段のそばに置かれた。
ユエンがポルフィラの背を支える。
「医師のいる建物へ運ぶよ。僕たちも一緒に行く」
ポルフィラはうなずき、担架へ横になった。
医師が代わって傷の布を押さえると、シェンリュカは空いた右手を握った。
「今度は、私がそばにいるから」
その向こうで、オブシディオンがゆっくりと立ち上がった。
担架が運ばれ始めると、黒い竜も、ポルフィラを見守りながら歩き出した。
宮殿では、まだ火を消すための鐘が鳴り続けていた。




