第247話 工房へ続く煙
翌朝、シェンリュカが客殿へ来た。
「飾り布の留め金が直ったの。今日は、工房へ受け取りに行くわ。ポルフィラも来る?」
「少し、あとからでもいい? 朝はオブシディオンと飛ぶ約束をしていて」
「うん。工房にいるわ。見つからなかったら、奥の中庭へ来てね」
ポルフィラはうなずいた。
職人たちが仕事の合間に休む、小さな庭だった。二人で何度も行ったことがある。
シェンリュカが回廊へ戻ると、侍女と二人の護衛が後に続いた。
ポルフィラも庭へ下り、オブシディオンの背へ駆け上がった。
*
南の倉庫では、照合を翌日に控え、資料をそろえる作業が続いていた。
皇帝から派遣される者へ渡すために、下役たちが古い記録を運び出している。
倉庫を管理する貴族は、机に積まれる帳面を見ていた。
届いていない木材や油まで、受け取ったことにして代金を払わせ、その金を商家と分けてきた。
帳面には、支払いを命じた自分の印が残っている。
明日、これを調べられれば、言い逃れはできなかった。
「この棟の分は、私が確かめる。お前たちは倉庫へ戻れ」
下役たちが頭を下げ、部屋を出ていった。
男は最後の一人が角を曲がるまで見送り、戸を閉めた。
この帳面をなくせば、自分が命じた証拠を減らせる。
下役が勝手にしたのだと、言い張れるかもしれない。
男は、そんな考えにすがった。
失うものを一つずつ思い浮かべるうちに、その方法しかないと思いはじめた。
*
初めに煙へ気づいたのは、事務棟へ戻ってきた下役だった。
閉じた戸の隙間から、灰色の煙が漏れていた。
中へ呼びかけても返事はなく、戸を開くと熱い空気が顔へ吹きつけた。
「火だ!」
声を聞きつけ、近くの者たちが走った。
机の向こうで、棚が燃えている。
下役が水を求めて叫んだときには、炎が壁を伝い、上へ伸び始めていた。
その日、南からの風が強かった。
火の粉が軒を越え、隣の建物へ飛んだ。
*
オブシディオンが宮殿へ戻る途中、ポルフィラは煙を見つけた。
南の屋根の間から、一本、太く上がっている。
〈あれ、工房の方じゃない?〉
オブシディオンが首を向けた。
〈火だ〉
次の瞬間、鐘が鳴った。
短く、繰り返し打ち鳴らされる。
その下で、人々が南から北へ動き始めていた。
ポルフィラは背へ身を寄せた。
〈シェンリュカが、工房へ行ってる〉
〈確かめるぞ〉
黒い翼が傾いた。
宮殿の西の庭を通り越し、二人は煙へ近づいた。
空から見ると、燃えているのは一棟ではなかった。
事務棟から隣の倉庫へ火が移り、さらに奥の屋根へ炎が走っている。
建物の間で、人々が水桶を渡していた。
その列の先が、突然崩れた。
戸口から黒煙が噴き、男たちが顔をかばって逃げ出した。
「油の倉だ! 離れろ!」
下から声が届いた。
炎が高く噴き上がり、屋根の端が持ち上がった。
重い音とともに瓦が崩れ、火の粉が風に散った。
ポルフィラは顔をかばった。
熱い風が、ここまで来ている。
工房との間には道があった。
だが、火の粉はその道を越え、張り出した庇へ降りかかっていた。
〈あそこへ下りて。人のいない、広い道のところ〉
ポルフィラが指すと、オブシディオンは建物から離れた場所へ向かった。
*
オブシディオンが地上に着く前に、ポルフィラは背から肩へ移っていた。
竜の脚が地面に着くと、畳まれた翼の付け根へ足を運ぶ。
ポルフィラはためらわず、空中へ身を躍らせた。
両足が地面を捉えた瞬間、膝を柔らかく曲げて着地し、走り出した。
水桶を運んでいた人が、驚いて足を止めた。
ポルフィラは駆け寄った。
「皇女様を見なかった? 侍女と、護衛が二人いたはずなんだけど!」
男は息を切らして首を振った。
「ここには……工房の者は、向こうの門から出てきている!」
ポルフィラは指された方へ走った。
オブシディオンも、建物を避けて後から進む。
門の向こうでは、職人たちが逃げてきた人を数えていた。
荷車が道へ残され、片輪の外れた台車を、二人が必死に脇へ寄せている。
ポルフィラはその隙間を抜けた。
「シェンリュカは、出てきた?」
顔見知りの職人が振り向いた。
その顔で、返事を聞く前に胸が冷えた。
「奥へ、お逃げになったと……。いつもの出口は、もう火が回っていて」
「奥の中庭?」
職人がうなずいた。
「護衛の方が、道を探しに。ですが、途中の回廊が落ちたという者もいて……」
ポルフィラは門の奥を見た。
よく知る工房の屋根が、煙で見え隠れしていた。
*
宮殿の中ほどでは、リャンが広場へ出ていた。
各所から来る知らせを聞き、避難する者と、水を運ぶ者の道を分けさせる。
「工房から広場へ出る門を、すべて開けよ。道具や品物は置いて逃げさせろ。人命が先だ」
リャンは、火の届いていない北の広場を指した。
「逃げてきた者は、あそこへ集める。各工房の責任者に人数を確かめさせ、戻っていない者がいれば、すぐに知らせよ」
侍従がうなずき、別の者が駆けてきた。
「皇女殿下は、まだお戻りではございません」
リャンの手が止まった。
皇后も、南の空へ顔を向ける。
ユエンはすでに護衛から報告を聞いていた。
「妹は、金具の工房だ。いつもの門が使えないなら、東の通路へ回る。そちらから戻った者を探してほしい」
「殿下は、こちらに」
護衛が止めた。
ユエンはその顔を見た。
「一人で火の中へ走るつもりはない。だが、妹がどの道を知っているか、私も知っている。案内できる者と一緒に行こう」
リャンが息子を呼んだ。
「行方を確かめろ。分かったことは、必ず戻して知らせるんだ」
「はい、父上」
ユエンが走り出した。
皇后はその背を見送り、震えた手を重ねた。
それから、運ばれてくる負傷者へ顔を向けた。
「あちらの殿舎を開けて。水と清潔な布を。医師にも、こちらへ来てもらいましょう」
*
工房の門へ、若い護衛がよろめきながら出てきた。
顔に煤がつき、片方の袖が裂けている。
ポルフィラは彼を知っていた。
朝、シェンリュカについていた二人のうちの一人だった。
「シェンリュカは?」
彼は咳き込み、工房の奥を指した。
「中庭です。侍女と、もう一人がついています。東へ出る道を確かめに行きましたが、回廊が……」
喉が詰まり、言葉が切れた。
ポルフィラは渡された水を彼へ持たせた。
「戻ろうとしたけど、通れなかったの?」
護衛は苦しそうにうなずいた。
「北の物置を抜ければ、まだ……ですが、入口に材木が倒れて」
背後で、オブシディオンが頭を下げた。
〈場所は、分かるか〉
ポルフィラは振り返った。
〈分かる。中庭は知ってる。物置も、外から見たことがある〉
〈上から確かめる。背へ乗れ〉
ポルフィラは、竜の翼の付け根へ駆け寄った。
そこへ、門に着いたユエンの声がした。
「ポルフィラ!」
彼女は振り返り、息を整えた。
「中庭にいる。侍女と護衛も一緒だって。オブシディオンと、上から見る」
ユエンは竜を見上げ、うなずく。
「分かった。こちらは、物置へ通れる道を空ける。近くに残っている人も下がらせるよ」
ポルフィラは彼の目を見た。
「必ず、見つける」
「……君も、戻ってきて」
彼女はうなずき、竜の肩へ上がった。
オブシディオンが翼を広げる。
門の前にいた人々が顔をかばい、壁際へ下がった。
炎が噴く屋根より高く、黒い体が浮かび上がった。
ポルフィラは目を細め、煙の切れる場所を探した。
中庭が見えた。
白い石の敷かれた、小さな四角い空間。
その隅で、三人が身を寄せていた。
シェンリュカが上を向き、口元を押さえていた布を離した。
「ポルフィラ!」
風にかすれた声が、確かに届いた。




