大丈夫246話 帳面の向こう側
宮殿へ戻ったリャンは、翌日から忙しくなった。
ウェン家へ滞在中に受け取った知らせを読み、留守を任せた者たちと話し合う。
その机の端には、漁村から持ち帰った小さな網の切れ端が置かれていた。
シェンリュカが、メイに結び方を教わったものだった。
「これは、部屋へ持っていかなくていいのか」
リャンが尋ねると、皇女は首を振った。
「お父様のところにも、一つあった方がいいでしょう」
リャンは笑い、そのまま机へ残した。
*
ポルフィラは宮殿の客として、日々を過ごした。
初めは案内を頼んでいた道も、やがて一人で歩けるようになった。
庭師に挨拶をし、厨房から客殿へ朝食を運んでくる人の顔も覚えた。
オブシディオンは、山へ狩りに出た。
気が向けば遠くまで飛んでいき、夕方になって戻ることもあった。
その翼が宮殿の空へ現れると、人々は顔を上げた。
「お戻りだ」
誰かが言うと、近くの者も仕事の手を止めた。
回廊にいた家臣が空へ礼をし、庭師は顔をほころばせた。
草地へ降りたオブシディオンには、そばを通る者が「お帰りなさいませ」と声をかけた。
彼が休む場所には、荷物を置かないように気を配ってくれる。
侍女たちも、庭でうたた寝をしているときは起こさぬよう、少し離れた道を通った。
竜のことをもっと知りたくて、ポルフィラに好きな食べ物や狩りの様子を尋ねる者もいた。
町へ買い物に出ると、店の人からも声をかけられた。
「今朝、オブシディオン様がお飛びになるのを見ましたよ。実に見事なお姿でしたね」
隣の店の男も、笑顔で話に加わった。
「あの翼が見えると、つい、手を止めてしまうんです。次はいつお出かけになりますか?」
町の人たちも、オブシディオンを見るのを楽しみにしている。
帰ってくる姿を見つければ、嬉しそうに空を見上げる。
自分の大切な相手を、こんなにも多くの人が大切にしてくれる。
ポルフィラはそのことが嬉しくて、たまらなかった。
〈みんな、あなたがいてくれて嬉しいんだよ〉
庭へ戻ると、彼女は黒い鼻先へ手を添えた。
〈お前も、嬉しそうだ〉
ポルフィラは笑ってうなずいた。
〈うん。ここに来られて、幸せだなって思う〉
*
夕食は、毎晩、皇帝一家と一緒だった。
夕方になるとシェンリュカが迎えに来て、ユエンも途中で合流した。
リャンと皇后の待つ部屋には、いつもポルフィラの席が用意されていた。
「今日は、何をしていた?」
席へ着くと、リャンが尋ねた。
ポルフィラは町で見たものや、オブシディオンから聞いた昼間の狩りの話をした。
リャンは国の古い話を聞かせ、皇后は、彼女が気に入った料理を覚えていてくれた。
「これ、好きだったでしょう。今日は少し多めに用意してもらったのよ」
皇后が皿を勧めると、シェンリュカが笑った。
「私の分も、残してね」
「そんなに食べないよ」
ポルフィラが答えると、隣でユエンも笑った。
誰かが話し始めれば、ほかの者も箸を動かしながら耳を傾ける。
昼間あったことを話し、冗談を言い、皆で笑う。
毎日の食卓には、初めて招かれたときの緊張は、もうなかった。
ポルフィラは、ときどき故郷の食卓を思い出した。
ドランやミレアと、その日にあったことを話しながら食べた夕食。
ここでも、同じように自分の話を聞いてくれる人たちがいた。
宮殿の客として来たはずなのに、今は、まるで家族の一人になったようだった。
三人で会うと、話が尽きなかった。
ユエンが舟から落ちた日のことは、シェンリュカが何度も持ち出した。
そのたびに彼は困った顔をしたが、最後には三人で笑っていた。
*
シェンリュカには、宮殿の中に好きな場所がいくつもあった。
花の咲く中庭、古い本の置かれた部屋。
そして、職人たちの工房だった。
「父上が使う椅子も、飾り台も、傷んだらここで直すんだ」
ユエンが一緒に来た日、そう教えてくれた。
広い敷地の南側に、工房が幾棟も並んでいた。
木を削る音がし、奥では金具を打つ音が響く。
品を納める倉庫も近く、道には荷車が行き交っていた。
シェンリュカは、職人の手元を見るのが好きだった。
何度も訪れるので、職人たちも、手を止めずに作業の説明をしてくれるようになった。
ポルフィラはその隣で、ドランの鍛冶場を思い出していた。
ある日、金具を作る工房で、ポルフィラは作業台の端にある金属へ目を留めた。
黒ずんだ塊だった。
けれど、欠けた断面だけが、銀色とも青ともつかない光を返している。
「これは、鉄ですか?」
ポルフィラが尋ねると、年配の鍛冶職人が顔を上げた。
「ええ。ただ、普通の鉄とは、少し違います。鍛えるときにも、少々、気を使いましてね」
ポルフィラは、触れてもよいか確かめてから手を伸ばした。
両手で持ち上げると、ずしりと重い。
ドランがこれを見たら、どんな顔をするだろう。
「父も鍛冶屋なんです。でも、こんな鉄は見たことがありません」
職人が微笑んだ。
「それで、さっきから炉の方を見ておいででしたか」
「打つところも、見ていていいですか?」
「もちろん。危ないので、その線の外でお願いします」
ポルフィラは教えられた場所へ立った。
職人は炉の中の金属を示し、槌を入れる順番や、熱し直すときのやり方を、作業をしながら教えてくれる。
ポルフィラは父の仕事を思い出し、違うところを一つずつ尋ねた。
ユエンとシェンリュカも隣へ来て、槌の下で金属が形を変えていくのを見ていた。
*
工房を出るときも、ポルフィラは何度か作業台を振り返った。
ユエンが尋ねた。
「あの鉄が、気になる?」
「うん。父さんにも見せたいなと思って。少し、買い分けてもらえないかな」
ユエンは、彼女と一緒に職人のもとへ戻った。
「彼女の父親にも、あの鉄を試してもらいたいんだ。分けられるものはあるかな」
職人は、試しに使ってもらえるだけの塊はあると答えた。
ユエンはうなずいた。
「宮殿の材料だから、父上に話してみるよ」
数日後、客殿へ布包みが届いた。
中には、あの黒ずんだ金属の塊が入っていた。
ドランが実際に鍛えて試せるよう、小さな欠片ではなく、まとまった量を分けてくれたのだった。
夕食の席で礼を言い、代金のことを尋ねると、リャンは笑った。
「それは、私からそなたの父上への贈り物にしてくれ。何ができたか、次に来たときに聞かせてもらえれば嬉しい」
ポルフィラは顔を輝かせた。
「ありがとうございます。父も、きっと喜びます」
客殿へ戻ると、塊をもう一度よく包み、旅の荷物へしまった。
鍛え方を忘れないよう、職人に教わったことも紙へ書き留めた。
父に渡せる日が、今から楽しみだった。
*
池の岸の花が散り、木々の葉が濃くなった。
やがて冬が来て、暖かさが戻る頃には、宮殿へ来て一年ほどになっていた。
ポルフィラはオブシディオンと、家に帰ることを話すようになった。
タオの店で荷物を受け取り、レンとメイにも会ってから、この国を発つ。
この国を離れるのは寂しかったが、故郷の家族や友達にも会いたかった。
*
そんなある日、三人で工房を訪ねると、職人たちが運び込まれた木材の前で困っていた。
ユエンが尋ねた。
「何か、足りないのか」
年配の職人が頭を下げた。
「はい。東西の回廊と殿舎の修繕用に、木材を二百本求めました。ですが、届いたのは百五十本です。いくつもの工房で材料が足りず、仕事が止まっております」
荷を運んだ役人も、倉庫から渡されたのは、それだけだったと答えた。
ユエンは二人の話を聞き、倉庫を確かめに向かった。
数日後、ほかの工房でも、油や布が足りていないと分かった。
ところが、宮殿は頼んだ分の代金を、すべて払っていた。
夕食の席で、ユエンがリャンへ報告した。
「木材だけではありません。油も布も、届いていない分まで代金が払われています。どれも同じ商家から買い、南の倉庫で受け取ったことになっています」
リャンが箸を置いた。
「倉庫を任せている者は、何と言っている」
「下役の数え間違いだと。ですが、工房の者は、以前から足りないと訴えていたそうです」
リャンの表情が厳しくなった。
「その者だけの説明では済ませられぬな。商家にも話を聞き、支払った金を調べさせよう」
ポルフィラは二人の話を聞いていた。
品物が届いていないのに、その代金は誰かに渡っている。
一度の間違いではなく、いろいろな品で同じことが起きているのだった。
*
工房を訪ねると、使えなくなった古い板を前に、職人たちが相談していた。
新しい材木が足りないため、修繕に使い直せるものを探しているのだという。
シェンリュカが、ポルフィラの隣で言った。
「必要な材料を頼んだのに、届かなくて困るのは、この人たちなのよね」
ポルフィラはうなずいた。
「早く足りない分が届いて、仕事を進められるといいね」
二人は作業の邪魔にならない所へ下がった。
ユエンは職人たちの話を聞き終えると、調べが進んでいることを伝えていた。
*
ある朝、ユエンが客殿へ来た。
手には、封をした文書を持っている。
「今日は、妹が訪ねてくると思う。工房で、直してもらっている飾り金具を見るそうだよ」
「昨日、聞いたよ。ユエンは一緒に行かないの?」
彼はうなずいた。
「倉庫の件で、用事があるんだ。二日後に、父上が選んだ役人たちが調べに入ることになった」
ポルフィラは文書へ目を向けた。
「あの、品物が足りないこと?」
「うん。倉庫に残っている品と、買った記録を見比べる。管理を任されている貴族も、その場で説明するよう命じられた。今日は、その知らせを届けるんだ」
これまでは、管理者に尋ねても、下役が間違えたという返事ばかりだった。
今度は、皇帝が選んだ役人が直接確かめる。
管理者も、曖昧な返事では済ませられなくなる。
ポルフィラはユエンを見た。
「困っている職人たちの話を、ちゃんと聞いてくれたんだね」
「仕事ができないのは、自分たちのせいではないからね。早く、安心して働けるようにしたい」
彼の声は穏やかだった。
けれど、放っておく気がないことは、よく分かった。
ポルフィラは少し笑った。
「ひと段落したら、また舟に乗らない?」
ユエンも笑った。
「今度こそ、妹に笑われないようにするよ」
*
その夕方、南の倉庫を管理する貴族は、届けられた命令を読み返していた。
納めていない品まで、すべて届いたことにして、宮殿に代金を払わせる。
その金を商家と分けるやり方を、長く続けてきた。
だが、二日後には、皇帝の命じた役人がやって来る。
自分の言い分を伝えるだけでは済まない。
机には、嘘の数を書いた帳面が並んでいた。
これを調べられれば、隠してきたことが明らかになる。
男は戸を閉め、帳面へ目を落とした。




