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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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第245話 池に落ちた皇太子

宮殿へ戻って数日後、シェンリュカが客殿へ迎えに来た。

今日は兄も一緒だという。


「今日は、宮殿の中にある町へ行きましょう。お店がたくさん並んでいるの」


ポルフィラは顔を上げた。

「宮殿の中に、町があるんですか?」


「うん。私たちの住む殿舎や庭だけが、宮殿ではないのよ。大きな外塀の内側には、働く人たちの住まいや、お店の集まった通りもあるの」


庭で待っていたユエンが、二人へ歩み寄った。

「宮殿で暮らす人たちが、食事をしたり、日用品を買ったりする場所なんだ。私たちも、ときどき行くよ」


「お二人が歩いていても、大丈夫なんですか?」


ユエンはうなずいた。

「外の町とは違って、門で出入りを確かめている。店を開いているのも、宮殿への出入りを認められた商人たちだ。護衛も一緒に来るから、歩いて店を見て回れるよ」


シェンリュカが嬉しそうに言った。

「ここなら、お店の人に聞きながら、自分で好きなものを選べるの。今日は、あなたにも見せたくて」


ポルフィラはうなずいた。

皇族が買い物をするところを見られるとは思っていなかった。


オブシディオンへ行き先を伝え、二人と並んで回廊を歩き出した。

侍女と護衛も、少し後ろからついてきた。


*


殿舎の並ぶ区画を抜け、内側の門をくぐると、景色が変わった。

広い道の両側に、低い店が軒を連ねている。

看板が下がり、品物を選ぶ人と、荷を運ぶ人が行き交っていた。

遠くには、宮殿を囲む高い外塀が見える。

町のようににぎわっていても、王宮の内側なのだ。

筆や紙を売る店があった。

紐、針、布の端切れ。櫛や小さな鏡を並べた店もある。

湯気の上がる食べ物の店では、仕事を終えた働き手たちが食事をしていた。


すれ違う人々は、兄妹に気づくと道を空けて礼をした。

ユエンは会釈を返し、シェンリュカは顔なじみの店の女へ手を振る。

護衛は近くで周囲に目を配りながら、三人の後についていた。

二人がここへ来るのは、珍しいことではないらしい。

ポルフィラは少し安心して、店先に並ぶ品へ目を向けた。


ユエンが尋ねた。

「何から見たい?」


「あのお店を見てもいいですか」


「もちろん。そのために来たんだから」


シェンリュカはもう、ポルフィラの隣へ並んでいた。

「私も、あそこは好き」


店の女が顔を上げ、慌てて背筋を伸ばした。


ユエンは穏やかに声をかけた。

「今日は友人を案内しているんだ。少し品を見せてほしい。ほかの客も、待たせなくていいよ」


女は頭を下げ、広げていた布をそのまま卓へ置いた。

「どうぞ、お手に取ってご覧くださいませ」


シェンリュカが布の端を持ち上げた。

「この色、あなたに似合うと思う」


「きれいですね。でも、仕事をするときは汚してしまいそうです」

ポルフィラが答えると、シェンリュカは布を置き、彼女へ向き直った。


「ねえ、私たちにも、レンたちと話すときみたいに話してほしいの」


ポルフィラは少し戸惑った。

「でも、お二人は皇族ですし……」


ユエンも隣から声をかけた。

「私たちは、君と友達になりたいんだ。もっと気軽に話してくれると嬉しい。私のことも、ユエンと呼んでくれないかな」


シェンリュカがうなずいた。

「私も、名前で呼んでね」


二人とも、冗談で言っているのではなかった。


ポルフィラは少し考えてから、笑った。

「……うん。分かった。ユエン、シェンリュカ」


シェンリュカが嬉しそうに笑った。

「そう。それでいいの」


ポルフィラも布へ目を戻した。

「……じゃあ、その布、もう少し見せて。よく見ると、小さな模様があるんだね」


ユエンも身を寄せ、三人で布を広げた。


*


店を出ると、焼き菓子の甘い匂いがした。

シェンリュカが道の先の屋台を指した。

「あれ、食べていかない?」


ユエンが店の男へ声をかけた。

「三つ、頼めるかな」


ポルフィラは自分の分を払おうと財布を出したが、ユエンが三人分の銭を渡した。

「今日は招いた私たちに、ご馳走させて」


ポルフィラは財布をしまった。

「ありがとう。じゃあ、次は私がご馳走するね」


「楽しみにしているよ」

ユエンはそう答えてから、少し笑った。

「それと、舟の上の歩き方を教わる約束も、忘れないで」


ポルフィラはうなずいた。

「覚えてる。今度、池でやってみよう」


シェンリュカも二人を見た。

「私も見に行くわ」


店の男から菓子の包みを受け取り、三人は木陰の腰掛けへ座った。

一人ずつ包みを開くと、焼きたての菓子から湯気が立った。


ポルフィラは端を少しかじり、慌てて口を離した。

「熱い!」


隣のシェンリュカも、一口食べて目を丸くした。

「中の餡が、すごく熱いわ」


ユエンはまだ口をつけていなかった。

二人の様子を見て、自分の菓子を半分に割り、湯気を逃がした。

「少し待とうか。こうすれば、中も冷めそうだ」


ポルフィラも真似して割ってみた。

「先に、こうすればよかったね」


シェンリュカが、割った菓子へ息を吹きかけた。

「おいしそうで、待てなかったの」


「私も」

ポルフィラが答え、二人で笑った。


ユエンは自分の菓子へ目を落とした。

「二人が先に食べてくれたから、私は助かったよ」


「次は、ユエンから食べてね」

ポルフィラが言うと、彼も笑った。

「分かった。熱くないか、ちゃんと確かめる」


三人は菓子を少しずつ冷ましながら食べた。

シェンリュカが別の店の菓子の話を始め、今度はそこへ行こうと約束した。

*


それから三人で出かけることが増えた。

宮殿内の町へ行く日も、庭を歩くだけの日もあった。

侍女や護衛は少し後ろに控え、三人の話し声が回廊へ響くようになった。


*


舟に乗る約束を果たしたのは、風の弱い午後だった。

池の岸に沿って、小舟が二艘並んでいた。

二艘とも岸へ縄でつながれていたが、縄には余裕があり、水の揺れに合わせて舟も動いていた。


ポルフィラは、まず手前の舟へ乗った。

膝を柔らかく曲げて揺れを受け止め、そこから隣の舟へひょいと渡る。

そのまま二艘目の舟の中央に立ち、岸にいるユエンへ振り返った。


岸のシェンリュカが手を叩いた。

「やっぱり、上手!」


ユエンは、ポルフィラが先に乗った手前の舟へ片足を置いた。

護衛が手を出しかけると、穏やかに首を振る。

「少し、そこで待っていてほしい。危なくなったら頼む」

彼は両足を舟の中へ入れ、慎重に立った。


隣の舟で待つポルフィラが、声をかける。

「膝に力を入れすぎないで。まだ、渡らなくていいよ」


「うん。少し分かった気がする」

ユエンは足元を見て、顔を上げた。

隣の舟との隙間が、小さくなった。

そこで足を伸ばした。

乗っている舟が押され、横へ逃げた。

ユエンの足が向こうの縁へ届きかけ、その舟も傾く。

「あ」

短い声がして、二艘の間へ姿が消えた。


水が跳ねた。

岸にいたシェンリュカが叫び、護衛が水際へ駆け寄った。

ポルフィラの乗っている舟も大きく揺れたが、彼女は立ったまま揺れを受け流し、ユエンが落ちた場所へ目を向ける。

すぐに、二艘の間から彼が頭を出した。

彼は一度咳き込み、岸から差し出された手をつかんだ。

護衛が引き上げるのに合わせ、足をかけて岸へ上がる。


シェンリュカが駆け寄った。

「お兄様!」


ユエンは濡れた髪を顔から払った。

「大丈夫。浅いところで、助かった」

護衛へ向き直り、息を整えた。

「ありがとう。手間をかけたね。怪我はないから、着替えだけ頼みたい」


ユエンが無事に岸へ上がったのを見届けてから、ポルフィラは岸側の舟の縁まで移り、地面へ飛び移った。

ユエンのそばへ駆け寄り、その顔をのぞき込む。

額に張りついた髪の先から、雫が鼻へ落ちる。

ユエンはまばたきをし、その雫を手の甲で拭った。


シェンリュカの口元が震えた。

「……少し、分かったのではなかったの?」


ユエンが妹を見た。

「どうやら、少し足りなかった」


ポルフィラは堪えようとした。

けれど、肩が揺れ、声が漏れた。


シェンリュカも笑い出した。

兄の無事が分かった途端、もう止まらなかった。


「二人とも、笑いすぎじゃないか」

そう言ったユエンの袖から、ぽたぽたと水が落ちた。

彼もそれを見て、とうとう笑った。

「舟を渡る前に、池へ入ってしまったな」


ポルフィラはお腹を押さえた。

シェンリュカは彼女の肩へつかまり、しゃがみ込んでいる。

ユエンまでその隣へ座り、濡れた裾を持ち上げながら笑っていた。


*


騒ぎを聞きつけたリャンが来たときも、三人はまだ岸にいた。

ユエンは上衣を替え、髪を布で拭いている。


リャンは息子を上から下まで見た。

「お前は、舟に乗ると聞いていたのだがな」


シェンリュカがまた笑った。

「途中までは、乗っていたのよ」


「そうか。着く先を間違えたか」


ポルフィラは顔を伏せた。

せっかく収まっていた笑いが、またこみ上げる。


ユエンは父を見上げた。

「次は、父上にもお試しいただきたいと思っています」


「私は、まず座るところから始めよう」

リャンは即座に答えた。


三人の笑い声が、池へ広がった。

少し後ろでは、侍女が顔をそらし、護衛も口元を押さえていた。


*


夕方、ポルフィラが草地へ戻ると、オブシディオンが目を開けた。


〈よく笑っていたな〉


〈聞こえていた?〉


〈ここまで声が届いていた〉


ポルフィラは鼻先へ手を置いた。

〈ユエンが、池に落ちちゃって。みんなで笑ってしまったの〉

話しながら、また頬が緩んだ。

あの二人といると、皇族と客という隔たりが遠くなる。


回廊から、シェンリュカが呼んだ。

「ポルフィラ! 夕食へ行こう!」


その隣で、乾いた髪のユエンが手を上げている。

ポルフィラも手を振った。


〈行ってくるね〉


竜が顎を下げた。

ポルフィラは二人のところへ駆けていった。

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