第243話 一家で空へ
オブシディオンが狩りから戻ったのは、その日の昼を少し過ぎてからだった。
山の方から影が近づくと、ポルフィラは庭へ駆け下りた。
草地へ下りた竜の鼻先へ、両手を置く。
〈おかえり。鳥、いた?〉
〈ああ。よく肥えていた〉
満足そうな返事に、ポルフィラは笑った。
〈あのね。お願いがあるの〉
オブシディオンが彼女を見た。
〈皇帝様たちを、背中に乗せてあげたい。四人一緒でも、平気?〉
〈お前たちが五人になったところで、重さなど大して変わらぬ〉
ポルフィラの顔が明るくなった。
〈今朝、みんなで見送ってくれたでしょう。あなたが飛んでいくのを、あんなに嬉しそうに見ていたから。ここでお世話になるお礼に、空を見せてあげたくて〉
オブシディオンは、話す彼女を見ていた。
次々と言葉が出て、笑みがこぼれる。
喜ぶ一家の姿を、もう思い描いているのだろう。
〈ならば、この国を巡ればよい〉
〈少し飛ぶだけじゃなくて?〉
〈お前が世話になった者たちも、訪ねたいのだろう。私の背なら、皆で行ける〉
ポルフィラは思わず首へ抱きついた。
〈ありがとう! きっと、すごく喜ぶよ〉
鼻先が、彼女の肩へ軽く触れた。
オブシディオンも、目を細めていた。
*
提案を聞いたシェンリュカは、その場で立ち上がった。
「私たちも、乗っていいの?」
「四人で一緒に。オブシディオンも、国を巡ろうって」
リャンがポルフィラを見た。
「私も、よいのだね?」
隣でユエンが笑った。
「四人とおっしゃいましたよ、父上」
皇后は両手を重ね、少しの間、何も言わなかった。
「屏風の中へ、入るような気持ちですね」
だが、話を聞いた家臣たちの顔は、一斉に曇った。
皇帝だけでも驚くことなのに、皇后も皇太子も皇女もそろって空へ出る。
いつ戻るかと尋ねられ、途中で泊まるつもりだと答えると、侍従の一人が頭を抱えた。
陛下。せめて、お一人ずつに……」
「それでは、私が戻るまで、家族は庭で待つことになる」
リャンは言った。
「同じ空を見て話したいのだ。なあ?」
シェンリュカが大きくうなずいた。
家臣は皇后へ助けを求めるように顔を向けたが、皇后も微笑むばかりだった。
「宮殿を空けられては、万一の折に……」
「留守の間の役目は、出る前に決めておく。何かあれば、ウェン家へ知らせよ。まずは、あちらへ伺う」
家臣たちは、なおも口々に止めた。
リャンは一人ずつ話を聞き、最後に、静かに言った。
「民の暮らしを見るのも、皇帝の仕事だ。普段は長い行列を組んで、予定した町へ入る。それでは見られぬものもあるだろう」
ポルフィラはその横顔を見た。
楽しめることがあれば、もう引き返す気がない。
その顔に、ふとドランを思い出す。
リャンは彼女と目が合うと、子どものように笑った。
「行くと決めた。さて、何を持てばよいかな?」
シェンリュカが父の腕へしがみついた。
ユエンは笑いながら、乗る場所や座り方をポルフィラに尋ね始めた。
皇后も支度の者を呼び、動きやすい服を用意するよう頼んでいる。
困り果てた家臣たちの前で、一家はもう旅へ出かける顔になっていた。
*
出発の日、四人は飾りの少ない旅装で現れた。
リャンは濃い茶色の上衣に細い帯を締め、皇后も長い袖をまとめていた。
ユエンは荷を一つ肩へかけ、シェンリュカは結び直した髪を何度も確かめている。
オブシディオンが体を低くした。
ポルフィラは用意した縄と座る場所を示し、一人ずつ上がってもらった。
荷を固定する仕事で覚えた結び方が、ここでも役に立った。
ユエンは先に上がり、母と妹へ手を貸した。
最後のリャンが背へ腰を下ろすと、思わず声が漏れた。
「もう、こんなに高いのか」
「まだ立ち上がっていませんよ」
ポルフィラが言うと、一家が顔を見合わせた。
つかまる場所と体を固定する縄を確かめ、ポルフィラは前へ座った。
〈みんな、大丈夫だよ〉
オブシディオンが立った。
四人から、声にならない声が上がる。
翼が広がると、見送りの家臣たちが衣を押さえた。
シェンリュカが笑いながら、ポルフィラの背へ呼びかける。
「本当に、飛ぶのね!」
〈ゆっくり、お願い〉
竜が地面を蹴った。
草地が下がり、池が広がる。
シェンリュカの歓声が響いた。
リャンは笑っていた。
皇后は夫の腕を握り、顔を上げて風を受けている。
ユエンも、いつもの落ち着いた顔を忘れたように、宮殿を見下ろしていた。
「あれが、私たちの住んでいる場所なのですね」
風に混じる声に、リャンが何度もうなずいた。
「ああ。あの中ばかり歩いていたのだな、私たちは…」
ポルフィラは振り返り、一家の顔を見た。
その笑顔が嬉しくて、オブシディオンの首へそっと手を置いた。
*
ウェン家の庭が見えてくる頃には、四人とも空の景色から目を離せなくなっていた。
皇后は川の曲がる先を指し、ユエンは街道から町へ入る荷車を見つける。
シェンリュカは、雲の影が畑を渡るたびに声を上げた。
竜が旋回すると、館の回廊で人が立ち止まった。
黒い姿を覚えていた者が奥へ走り、家宰のカイが庭へ出てくる。
降りてきた背の上の人たちを見たカイが、ぴたりと止まった。
リャンが手を振った。
「カイ。主人はいるかね」
カイは口を開けたまま、皇帝と皇后、二人の子供たちを順に見た。
それからようやく、深く頭を下げた。
「ただいま、お呼びいたします!」
駆けつけたルイも、すぐには声が出なかった。
竜の背から一家が下りてくる。
その様子を見て、細身の体をかがめたまま、顔だけを上げていた。
「ご連絡を、いただいておりましたでしょうか……?」
「いや。驚かせたな」
リャンは笑った。
「どうしても、皆で乗って来たくなったのだ」
「ルイ様、山の向こうまで見えたんです」
シェンリュカが言った。
「川も、道も、ずっと続いていて。全部、この背から見てきたの」
皇后も嬉しそうにうなずいた。
ユエンが、母の髪へついた小さな草を取っている。
ルイの驚きが、ゆっくり笑みに変わった。
「それは……何よりの旅でございますね」
「今夜、泊めてもらえるだろうか?」
リャンが尋ねた。
ルイは背筋を伸ばした。
「もちろんです。ぜひ、お話もお聞かせください」
カイへ客間の支度を頼む声にも、喜びが混じっていた。
ポルフィラはオブシディオンを見上げた。
彼はもう、勝手を知っている草地へ首を向けていた。




