第242話 竜を見送る朝
竜の故郷へ思いを馳せていたリャンが、やがて表情を改めた。
「もう一つ、伺いたい。祖母を連れ帰った、銀の竜のことだ」
ポルフィラは姿勢を正した。
「脇腹を貫いていたのは、弩の矢だった。普通の弓では放てぬ、太く重いものだ。あの傷を負わせるような弩を、お見かけになったことはあるだろうか」
オブシディオンは、すぐには答えなかった。
〈私が石の中にいた間にも、人は武器を作っていたのだろう。今の弩については、分からぬ〉
その言葉は、ポルフィラだけが聞いた。
長い年月、黒紫の石の中にいたことは話せない。
ポルフィラは皇帝へ向き直った。
「どんな武器だったのか、今のお話だけでは、彼にも分からないそうです」
リャンはうなずいた。
「そうか。無理もない。私たちも、祖母がどこへ行っていたのかさえ、分からぬのだから」
卓の上の灯りが、皇帝の頬を照らした。
先ほどまでの、竜の里へ胸を躍らせる顔とは違っていた。
「この国で、竜は神にも等しい大切な存在だ。空を飛ぶ姿を見れば、縁起がいいとさえ言われている。古い家系では、竜とともに生きた者の話を大切に語り継ぐ…」
リャンは、庭に横たわる竜へ目を向けた。
「…それを射殺す者がいるとは。祖母が戻った日から、どうしても、そのことが許せなかった…」
皇后は口を挟まず、彼の横にいた。
ユエンも、父の言葉を聞いていた。
「…私にも竜がいたなら、どこで何があったのか調べに行きたい。祖母の竜の仇を取りたいと、今でも思う…」
リャンはそう言って、しばらく口を閉じた。
胸に抱えてきた怒りや悲しみを、初めて明かしたように…
ポルフィラは、小さくうなずいた。
その気持ちは、痛いほどよく分かった。
*
夜の風が、池から吹いてきた。
シェンリュカが肩へ薄い上衣をかけてもらい、ユエンはポルフィラにも寒くないか尋ねた。
「大丈夫です」
ポルフィラは答えた。
けれど胸の奥には、さっきとは違う痛みがあった。
自分も、年を取らなくなった…
同じ場所に留まり、周りの人たちだけが変わっていく。
それを考えると苦しくなって、故郷を出た。
今はまだ、帰れば両親も友達もいる。
けれど、いつか友達が自分より年上に見えるようになる。
そのとき自分は、あの村へ帰れるだろうか……?
顔を見たいと思いながら、会うのが怖くなる日が来るかもしれない…
皇帝の曽祖母も、祖母も、それを思って旅立った。
家族と離れる決心をしたけれど、竜だけはずっとそばにいるはずだった。
その相手を、失う……
傷を負った銀の竜が、最後の力で宮殿まで飛び、祖母を家族のもとへ帰した。
そのあと彼女は、動かなくなった体のそばで、名を呼び続けた……
ポルフィラは庭へ手を伸ばした。
オブシディオンが、何も尋ねずに鼻先を寄せた。
鱗へ掌を当てる。
温かい。
息をしている。
皇帝の祖母も、この温かさを知っていたのだ。
それが失われた瞬間を思うと、胸が張り裂けそうになる。
ユエンが何か言いかけ、やめた。
代わりに、侍女が置いた上衣を、ポルフィラの座る席の脇へ寄せてくれた。
「ここに、置いておきますね」
ポルフィラは顔を上げた。
「ありがとうございます」
それからもう一度、竜の鼻先へ手を戻した。
いつか行こうと思った火山の山々の他に、まだ知らない空が、いくつも広がっていた。
*
朝の池には、まだ薄い靄が残っていた。
オブシディオンが草地で立ち上がると、庭を歩いていたシェンリュカが足を止めた。
「もう、行かれるの?」
ポルフィラはうなずいた。
「はい。昨日、話していた鳥を探しに」
皇女はすぐに侍女へ何か頼んだ。
ほどなくリャンが姿を見せ、ユエンも続いた。
皇后が回廊を渡ってくる頃には、竜は池で水を飲み終えていた。
リャンは歩みを速めた。
「間に合ったな」
「お見送りに?」
ポルフィラが尋ねると、皇帝は笑った。
「昨日は、降りてくるところを見せてもらった。今朝は飛び立つ姿を見たいと思ってね」
オブシディオンが四人へ顔を向けた。
それぞれが挨拶をし、彼が翼を動かすと、言われる前に少し下がった。
〈行ってくる〉
〈うん。いってらっしゃい〉
翼が広がった。
靄が押し流され、草の先から露が飛ぶ。
大きな脚が地面を蹴ると、黒い体がふわりと浮き、そのまま池の向こうへ上がっていった。
一度、二度。
羽ばたくたびに、巨体が朝の光へ近づいていく。
ポルフィラの隣で、シェンリュカが両手を胸の前へ重ねた。
リャンは顔を上げたまま、口元を緩めている。
皇后も髪に触れる風をそのままに、竜を見送っていた。
オブシディオンが山へ向きを変えた。
ユエンの視線が、長い弧を描く翼を追った。
「あの背からは、どこまで見えるのだろう…?」
独り言のような声だった。
ポルフィラは彼を見て、それから一家の顔を順に眺めた。
怖がっていない。
ただ、飛ぶ姿を見ていたいのだ。
故郷でも、見慣れた人は増えていた。
それでも初めて見る者は、物陰に隠れ、身をすくめた。
この人たちは、ただ憧れを持って竜を見ている。
大きな体に驚きながら、もう少しそばにいたいと願っている。
黒い姿が小さくなるまで見送ってから、リャンが息を吐き微笑んだ。
「よい朝だ」
ポルフィラはうなずいた。
胸がいっぱいで、すぐには言葉が出てこなかった。




