第240話 池のほとりの夕餉
茶と軽い食事が運ばれると、リャンは旅の話を聞きたがった。
海の上でどう休んだのか。
初めて降りた村では、言葉が通じたのか。
ポルフィラは、レンに声をかけたときのことを話した。
話すうちに、シェンリュカが身を乗り出してくる。
「船のお仕事もしていたの?」
「はい。初めは、立っているのも難しかったんです。でも、毎日乗っていると、少しずつできるようになって」
「それで、あんなに軽く下りられたのだな」
ユエンが言った。
ポルフィラはうなずいた。
「教えてくれた二人は、もっと上手です」
ユエンは、彼女の手へ一度目を落とした。
「網を引くのは、腕だけではないのでしょう?」
「そうなんです。最初は腕だけで引こうとして、すぐに疲れてしまって」
「私は荷車を動かす手伝いをして、同じ失敗をしました。力を入れたわりに、少しも進まなかった」
シェンリュカが兄を見た。
「車輪が溝にはまっていたとき?」
「そこまで話すと、格好がつかないな」
ユエンは妹へ笑いかけ、それからポルフィラへ向き直った。
「結局、御者に教わりました。知っている人に任せるのが一番だと思い知った日です」
ポルフィラは笑った。
「私も、初めはレンとメイの邪魔ばかりしていました」
「それが今は、あの高さから下りられる。私にも、何か一つ教えてもらえませんか」
「舟に乗れればいいんですけど」
「では、池の舟から。海へ出るのは、そのあとにします」
本気なのかと顔を見ると、ユエンも彼女を見ていた。
からかう目ではなかった。ポルフィラは少し考え、うなずいた。
「私が教えられることなら」
「約束ですよ」
ユエンの笑みが深くなった。
皇后は微笑んで聞いていた。
「竜と結ばれた方をお育てになったのですもの。ご実家も、お国では名のあるお家なのでしょうね」
ポルフィラは茶碗を置いた。
「あの、私は、皆さんが思っていらっしゃるような、偉い家の者ではありません」
リャンは穏やかに彼女を見た。
「村で育って、父は鍛冶屋なんです。町でも、荷運びをしていました。だから、宮殿にお招き頂けるような身分では……」
皇后はリャンと目を合わせた。
ユエンは口を挟まず、彼女の話を聞いていた。
ポルフィラは困った。
信じてもらえた顔ではなかった。
リャンが口を開いた。
「身分を明かさず、遠い土地で暮らしてみる。それも、旅の仕方の一つだろう」
「いえ、そういう意味では……」
「分かった。これ以上、ご家族のことを尋ねるのはよそう」
リャンは柔らかく笑った。
「ただ、ここではあなたとオブシディオン殿を、私の客として迎えたい。竜とともに、遠い海を越えて来てくれたのだから。それでよいだろうか」
ポルフィラは口を開きかけ、閉じた。
隣でシェンリュカが、そっと笑っている。
「お父様はもうお部屋も用意させてしまったの。あなたが断ったら、きっと困ってしまうわ」
リャンは娘を見た。
「それは、言わなくてもよかったのだが」
ポルフィラはとうとう笑ってしまった。
「では……お世話になります」
リャンが侍従へ客殿の支度を確かめている間に、ユエンがポルフィラへ尋ねた。
「町では、どんな荷物を運んでいたのですか。私は工房へ品が届くところを見ますが、荷を下ろすのにも、ずいぶん手際が要るようですね」
ポルフィラは少しほっとした。
家の話を続けるより、タオの店で働いたときのことなら話しやすかった。
「積む順番を間違えると、あとで必要なものが取り出せなくなるんです。初めの頃は、何度も積み直しました」
ユエンはうなずいた。
「ただ運べばいいわけではないのですね」
「はい。覚える必要のある物が多かったです」
「その話も、もっと聞きたいです。私が工房で職人の邪魔をした話なら、お返しできますよ」
ポルフィラは笑ってうなずいた。
ユエンはそれ以上返事を求めず、彼女の空いた茶碗に気づき、侍女へ小さく目で合図した。
*
客殿へは、シェンリュカが案内すると申し出た。
侍女たちが少し後ろを歩き、二人は池を眺める回廊へ出た。
「最初は、私もよく道を間違えたの」
皇女が柱の角を指した。
「ここを曲がると花の庭。まっすぐ行くと池。似た門があっても、彫ってある花が違うから、それを見ると分かるよ」
ポルフィラは門の上を見た。
小さな白い花が、葉と一緒に彫られていた。
「……覚えられるかな」
「迷ったら、迎えに行くわ」
池の向こうに、草地で休むオブシディオンが見えた。
シェンリュカは立ち止まり、ポルフィラへ顔を向けた。
「また、オブシディオン様に会いに行ってもいい?」
「はい。きっと喜びます。一緒に行きましょう」
シェンリュカは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、また案内してね」
客殿は、池の西岸にあった。
寝る部屋と居間があり、戸を開ければ庭へ下りられる。
草地の向こうには、オブシディオンの黒い背が見えた。
ポルフィラは戸口に立った。
声を出さなくても、彼が首を上げる。
〈部屋が決まったよ。ここから、あなたが見える〉
〈ああ。よい場所だな〉
背後で、シェンリュカが小さく息をついた。
「ここから、お話しできるの?」
ポルフィラは振り返ってうなずいた。
「いい場所だって」
シェンリュカは庭の向こうとポルフィラを交互に見た。
「竜と話せることは知っていたけれど、そばにいなくてもいいの? 声が届かなくても?」
「うん。離れていても話せるよ」
皇女は口元へ手を当てた。
「…遠くにいても、何かあったらすぐ伝えられるのね」
ポルフィラはうなずいた。
シェンリュカは嬉しそうに笑った。
「お父様にも教えてあげて。きっと、またびっくりするわ」
池の向こうで鐘が鳴った。
いくつもの屋根を渡る音を聞きながら、ポルフィラはもう一度、庭を見渡した。
*
日が傾く頃、リャンが客殿を訪ねてきた。
侍従を連れていたが、戸口で声をかけ、ポルフィラが出てくるのを待っている。
リャンは庭で休む竜へ顔を向けた。
「あなたの食事は用意させたのだが、オブシディオン殿には何を召し上がっていただけばよいだろう。好みを聞いておきたくてね」
ポルフィラも庭を見た。
「ああ、彼の食事ですね」
「竜がいた頃は、食事にする家畜を飼っていたのだ。今も、宮殿の外に牧場はある。そういうものでよければ、用意させるが」
ポルフィラは笑い、庭へ目を向けた。
「聞いてみます」
リャンは、彼女が草地へ下りるものと思って道を空けた。
だが、ポルフィラはそこに立ったまま、少し黙っただけだった。
〈今夜、食べるものを用意してくださるって。家畜でもいいか、聞かれたんだけど〉
〈今夜はいらん。明日、山へ行く〉
〈あの、宮殿の向こうの?〉
〈ああ。あの山々には、天馬ほどの鳥がいる。炎で炙って食うと、実にうまい〉
ポルフィラは山を見上げた。
〈知っているの?〉
〈以前、あの辺りを通ったときに食った。魚も、そろそろ飽きた〉
ポルフィラは笑ってしまった。
リャンが不思議そうに彼女を見ている。
「今夜は、いらないそうです。明日、向こうの山へ狩りに行くと言っています。魚には飽きたって」
リャンは目を丸くした。
庭の向こうで、オブシディオンがゆっくり首を上げる。
「今、ここから聞いたのか?」
「はい」
「私には、何も聞こえなかったが……あれほど離れていても?」
ポルフィラがうなずくと、リャンは草地を見直した。
「竜と人が言葉を交わせることは聞いていた。だが、向き合い、そばで語るものとばかり思っていたよ」
彼は縁の端まで歩き、オブシディオンへ礼をした。
「明日は、どうぞよい狩りを」
竜が顎を下げた。
返事が伝わったと知り、リャンの顔が明るくなった。
ポルフィラは続けた。
「私の国にいる、天馬ほどの鳥が、あの山にいるそうです。炎で炙って食べると、おいしいと」
リャンが振り返った。
「炎で?」
*
夕食は、池に面した亭へ用意された。
オブシディオンの休む草地に近く、軒下から彼の顔が見える。
皇后とユエン、シェンリュカもそろい、リャンは席につく前から、昼間聞いたばかりのことを二人の子供へ話していた。
「シェンリュカは知っていたのか。離れていても話せることを」
「さっき、教えてもらったの」
皇女は兄へ顔を向けた。
「お兄様も、知らなかったでしょう?」
ユエンはうなずいた。
「ええ。だから、客殿と庭をいつでも行き来できるようにとあの部屋を選んだんですが…」
ポルフィラは彼へ笑いかけた。
「すぐそばまで行けるのは、嬉しいです」
ユエンは微笑みを返した。
「では、あの部屋にしてよかった」
温かい料理が運ばれた。
薄い皮で包んだ蒸し物に、野菜と肉の煮込み。
見慣れない料理をポルフィラが眺めていると、皇后が取り分け方を教えてくれた。
シェンリュカは自分の好きなものを勧め、ユエンは、まだ熱いですよと小さく声をかけた。
食事が落ち着いたところで、リャンが茶碗を置いた。
「火を使って食べるという話だが、オブシディオン殿が、自ら火を吐かれるのか」
ポルフィラはうなずいた。
「はい。黒い炎です」
ユエンの手が止まった。
「では、シェンラの屋敷を焼いたというのは、本当に……」
「はい」
ポルフィラは箸を置いた。
「私が矢で狙われて、彼が怒ったんです」
卓の向こうで、皇后が顔を上げた。
リャンの表情も変わる。
ルイから報告は届いていたという。
だが、書かれたことを本人の口から聞くのは、また違った。
ポルフィラは、グオ・シェンとのやり取りを順に話した。
金を出すから竜を譲れと言われたこと。
兵に捕らえさせようとしたこと。
そして、タオや村人を脅し、自分へ矢を射るよう命じたこと。
「竜には傷をつけるなと、言ったんです」
シェンリュカが両手を膝へ下ろした。
「あなたには、射てもいいって?」
ポルフィラはうなずいた。
皇女の唇が固く結ばれた。
ユエンは庭の竜を見てから、彼女へ顔を戻した。
「よく、無事に戻ってきてくださいました」
静かな声だった。
だが卓の下で、彼の手が握られているのが見えた。
「ルイ様が、店と村にも気を配ってくださっています。私は、そこが一番心配で」
リャンはしばらく黙っていた。
やがて、控えていた侍従を呼んだ。
「ルイに知らせよ。グオ・シェンの件は、私が直々に処分する。これまでの訴えと、今回の証言を、すべてそろえさせるように」
侍従が深く頭を下げた。
「裁定までの間、領地の役人や兵に、あの男の命令には従わぬよう伝えよ。これは王命である」
声を荒らげたわけではない。
けれど、先ほどまでの親しみやすさは影をひそめ、皇帝としての厳しい顔があった。
侍従が下がると、リャンはポルフィラへ向き直った。
「この国の者が、あなた方へしたことだ。この件は私たちの責任で対処する。あなたの周りの者へ迷惑をかけさせない」
ポルフィラは頭を下げた。
「ありがとうございます」
皇后が静かに言った。
「竜を奪おうとしたうえに、あなたの命まで。招かれた先で、どれほど恐ろしかったでしょう」
ポルフィラは、庭へ目を向けた。
「彼がいてくれましたから」
草地で、オブシディオンの目が開いた。
*
しばらくして、温かい茶が注ぎ直された。
リャンは庭の方へ椅子を向けた。
「竜が火を吐くことを、私たちは知らなかった。祖母たちが、宮殿で炎を見せたという話も残っていない」
ポルフィラはオブシディオンへ伝えた。
彼は首を少し伸ばし、亭にいる一家を見た。
〈ここで吐く必要はなかったのだろう〉
その返事を伝えると、リャンはしばらく黙り、それからうなずいた。
「そうか。私たちは知っているつもりで、姿のほんの一部しか見ていなかったのだな」
シェンリュカが銀の竜の話を思い出したように、父の顔を見た。
リャンは娘へ手を伸ばし、肩にそっと触れた。
ポルフィラも昼の屏風を思い出していた。
火を吐く竜に、死ぬほどの傷を負わせたものは何だったのか……
リャンが庭へ向き直り、深く頭を下げた。
「オブシディオン殿。差し支えなければ、今夜はあなたのことを、もっと聞かせていただけないだろうか。
私たちは、竜について知らぬことがあまりにも多い」
皇后も、ユエンも同じ方へ顔を向けていた。
シェンリュカは卓の端へ身をのりだす。
ポルフィラは彼を見上げた。
〈どうする? みんな、あなたの話が聞きたいって〉
オブシディオンは少し黙った。
それから腹を下ろし直し、亭の近くの草へ顎を置いた。
〈ならば、長い話になる〉
ポルフィラがそう伝えると、リャンは嬉しそうに微笑んだ。
「今夜、時間はたっぷりある。どうか、聞かせてほしい」
侍従が灯りを一つ増やした。
その光が池へ映り、黒い鱗の輪郭を柔らかく照らしていた。




