第239話 竜を迎える宮殿
ウェン家で数日を過ごしたあと、ポルフィラは王都への招待を受けると返事をした。
町を案内してもらい、ルイからこの国の話を聞く間に、遠くから眺めていた山々の麓まで行ってみたい気持ちが膨らんでいた。
タオへも便りを出した。
預けている荷物は、帰りに取りに戻ること。
村のみんなにも、王都へ向かうと伝えてほしいこと。
返事で、店も村も嫌がらせは受けていないと聞き、旅立つ日を決めた。
*
山々が近づくにつれ、地上の景色が変わっていった。
畑の間に町が増え、町と町をつなぐ道が太くなる。
川沿いには屋根が連なり、やがて幾本もの街道が、一つの大きな都へ集まっていた。
〈あれが、王都……〉
ポルフィラは顔を上げた。
高い峰々が、都の背後に重なっている。
その山裾を起点に、家並みが扇を開いたように広がっていた。
手前には畑や果樹園がある。
そこから町へ近づくと、家々の屋根の間に庭の緑が見え、広い通りを行き交う人と車が細い流れになっていた。
その奥に、もう一つ、塀で囲まれた大きな区画があった。
門の向こうに門がある…
広場を挟んで大きな殿舎が建ち、その先にも石段と屋根が続いていた。
東西には池や庭園が広がり、回廊でつながれた建物が、木々の間から顔をのぞかせる。
ウェン家の館でさえ広かった。
けれど、目の前の宮殿は、一軒の屋敷として数えられるような場所ではなかった。
〈中に入ったら、道を覚えられるかな〉
〈上からなら、分かるだろう〉
〈私は、毎回空から帰るわけじゃないよ〉
オブシディオンの鼻から、小さく息が漏れた。
*
迎えの印は、宮殿の西側の庭にあった。
大きな池のほとりに広い草地が開け、白い石を並べた円が、降りる場所を示している。
オブシディオンが旋回すると、庭の端に並ぶ人々が見えた。
その後ろには幾重もの回廊があり、柱の間からも顔がのぞいていた。
遠い空の竜を見ていた者たちが、近づくにつれ、手にしていたものを置いて立ち上がる。
黒い影が、池を覆った。
水面を渡った影は石橋を越え、草地いっぱいに広がった。
翼が風を押し、岸の柳が大きくしなった。
回廊に下がる簾が鳴り、誰かが思わず柱へつかまる。
けれど迎えの人々は道を空けたまま、その姿を見上げていた。
脚が地面へ届いた。
長い尾が草を払い、翼がゆっくり折り畳まれていく。
静かになった庭へ、池の波が岸を打つ音が戻ってきた。
ポルフィラは背から下りた。
肩から畳まれた翼の付け根へ下り、最後は草の上へ軽く飛び下りる。
顔を上げると、少し離れた所に、四人が立っていた。
中央の男は、濃い緑の髪を結い、金色を帯びた黄の長衣を着ていた。
胸と袖には細かな刺繍があるが、ポルフィラより先に竜へ向けられたその顔には、ただ驚きが浮かんでいた。
彼は挨拶をしかけるように口を開き、またオブシディオンを見上げた。
「……これほど大きいとは。祖母の竜よりも、はるかに大きい」
隣の若者も、黒い竜を見上げたまま動かなかった。
「父上。屏風の竜も、十分に大きいと思っていました。けれど、この方は……」
長い首を目で追い、その先にある頭へ視線を向ける。
ポルフィラが地面へ降りてきても、若者はすぐには気づかなかった。
隣の少女が、小さく息をのんだ。
「翼を畳んでも、あんなに大きいのね」
オブシディオンの背は、見上げる一家の頭より、はるかに高かった。
畳まれた翼の向こうへ、庭の木々が隠れている。
少女は竜の顔を見ようと首を反らし、侍従たちも同じように見上げていた。
隣の女性が、そっと袖へ触れた。
「あなた。お客様が下りていらっしゃいましたよ」
男ははっとして、ポルフィラへ向き直った。
「すまない。あなたを迎えたのに、お連れの方ばかり見てしまった」
近くの侍従が、身をかがめて告げた。
「皇帝リャン陛下、皇后シーラン陛下でいらっしゃいます」
ポルフィラは慌てて姿勢を正した。
「ポルフィラです。お招きいただき、ありがとうございます」
皇帝は微笑んだ。
「リャンだ。ようこそ。海を越えて来てくれたことを、嬉しく思う」
それから、オブシディオンへも礼をした。
「オブシディオン殿。どうぞ、ここでは翼を休めていってほしい」
竜がゆっくり顎を下げた。
リャンの目が、また少し大きくなる。
皇后がポルフィラへ微笑みかけた。
「夫は、お二方をお迎えすると決まってから、何度もこの庭を見に来ていたのですよ」
「翼を広げる場所がなければ、困るだろう」
リャンが答えた。
「もちろん。でも、昨日は三度でしたね」
後ろにいた若者が、口元を押さえた。
その隣の少女は、遠慮なく笑った。
*
若者は皇太子ユエン、少女は皇女シェンリュカと紹介された。
並んだ二人を見て、ポルフィラは双子だろうかと思った。
きれいな茶色の髪も、鮮やかな緑の瞳も、驚くほどよく似ている。
竜の民にも、茶色の髪の人はいる。
けれど、光が当たっても少しも緑がからない、これほど純粋な茶色は珍しかった。
それなのに、二人の瞳には茶色がまったく混じっていない。澄んだ美しい緑が、庭から差す光を受けて輝いていた。
兄妹とも、鼻筋の通った整った顔立ちをしていた。
中でも、長い睫毛に縁取られた目が印象に残る。
一度目が合うと、自然とその瞳へ視線を引かれた。
ユエンはポルフィラより少し年上に見え、背が高かった。
茶色の髪をきちんと結い、姿勢よく立っていたが、微笑むと目元が優しく和らいだ。
礼を返したあと、竜の方へ目が動き、ポルフィラと目が合った。
「父のことは、笑えませんね。私も、気になって仕方がない」
ユエンは小さく笑った。
「見ていても、大丈夫ですよ」
「では、遠慮なく。でも、あなたのお名前は、もう覚えました」
ポルフィラはつられて笑った。かしこまっていた肩が、少し下がった。
シェンリュカは、ポルフィラより少し年下だろう。
兄と同じ茶色の髪へ小さな飾りを留め、よく似た緑の瞳を輝かせていた。
表情がくるくると変わるので、落ち着いた兄より幼く見える。
「あの、もう少し近くへ行ってもいいですか」
尋ねられ、ポルフィラはオブシディオンを見た。
〈近くへ来たいって〉
〈構わん〉
「大丈夫です」
シェンリュカはうなずき、歩き出した。
リャンもすぐ隣へ並んだので、皇女が父を見上げる。
「お父様も?」
「私も、まだ挨拶をしただけだからね」
親子が並んで歩く後ろを、皇后とユエンもついてきた。
近づくほど、シェンリュカの歩幅が小さくなった。
畳まれた翼のそばで立ち止まり、首を反らす。
「屏風で見るより、ずっと大きい……」
オブシディオンが頭を下げた。
皇女は一瞬父の袖をつかみ、それから、目の前へ来た鱗を見つめた。
「触っても?」
ポルフィラがうなずくと、シェンリュカは指先を伸ばした。そっと一枚の鱗へ触れ、掌を添える。
「温かい」
その隣で、リャンも手を伸ばしかけた。
ポルフィラと目が合うと、少し照れたように笑う。
「私も、よいだろうか」
*
オブシディオンが休む姿を何度も振り返りながら、一行は殿舎へ向かった。
庭の石橋を渡り、回廊を進む。
柱には竜や雲、草花が彫られ、手すりの角は、長い年月に磨かれて滑らかになっていた。
新しく塗り直された朱色の下にも、古い木の厚みが感じられる。
中庭の向こうを、食器を運ぶ者たちが横切った。
別の回廊では、束ねた文書を持つ役人が立ち止まって礼をしている。
遠くの建物から、時を知らせる鐘が聞こえた。
案内された部屋は、広かった。
高い天井を太い柱が支え、庭へ向いた戸が開け放たれている。
奥には大きな椅子があったが、リャンは手前に用意された席へ彼女を招いた。
その背後に、大きな屏風が立っていた。
青い竜と、銀色の竜。
幾枚もの面にまたがって二頭が飛び、それぞれの背に人が乗っている。
渦を巻く雲の間から長い尾が現れ、翼が屏風の端近くまで伸びていた。
ポルフィラは立ったまま、見入った。
銀の鱗に庭からの光が映り、顔を動かすと、竜まで身をひるがえしたように見えた。
青い竜は、銀の竜より少し小さい。
ポルフィラはそれぞれの乗り手へ目を移した。
青い竜は、ノクスくらいだろう。銀の竜は、それよりもう少し大きい。
その大きさなら、二頭とも、実際に目の前へ現れれば息をのむほど立派な姿に違いなかった。
「我が家に伝わるものだ」
リャンが隣で言った。
「子供の頃は、ここへ来るたび、あの背の上に座れたらと思ったよ」
リャンは描かれた乗り手を指した。
「描かれた人の背丈から、竜がどれほど大きいか考えるのだ。子供たちとも、庭のどこからどこまでになるかと、話したものだ」
ユエンが銀の竜を見上げた。
「私は、銀の竜くらいの大きさを想像していました。オブシディオン殿は、それよりはるかに大きいのですね。おそばに立ったときは、顔を見るのに首が痛くなるほど見上げました」
シェンリュカが、描かれた二頭を見比べた。
「この竜たちでも、お庭にいたら、きっと大きいのでしょうね。でも、オブシディオン様は、その何倍もありそう」
ユエンもうなずいた。
「翼の下に、私たち全員が入っても余りそうでした。絵だけを見て考えていた大きさとは、まるで違いましたね」
皇后も、庭の方へ顔を向けた。
「私も、絵の中の大きさを思い浮かべておりました。遠くから拝見するのと、おそばに立つのとでは、まるで違いましたね」
リャンは庭の方へ目を向けた。
「オブシディオン殿の姿も、絵に残したいものだな。そなたが背に乗ったところを描けば、後の世の者にも、あの大きさが分かるだろう」
ポルフィラはウェン家の掛け軸を思い出した。
あの赤い竜も、大切に飾られていた。
「この方たちも、皇族なんですね」
「青い竜に乗っているのが、私の曽祖母。銀の竜の方は、祖母だ」
リャンが言った。
ポルフィラは二人の顔を見直した。
どちらも若くはない。
けれど、曽祖母や祖母という言葉から思い浮かべるより、ずっと若かった。
「祖母は、今の私と同じくらいの年に、飛来した銀の竜と出会ったそうだ」
リャンは屏風へ目を向けた。
「私が物心ついたときには、両親と同じくらいの年に見えた。幼い頃は、それを不思議とも思わなかったがね」
ポルフィラは黙って聞いた。
リャンの指が、銀の竜の背にいる女性を示す。
「本当に、年を取らなくなるのか。竜と繋がると」
「はい。オブシディオンから、そう聞いています」
ポルフィラは答えた。
「ただ、彼を失えば、人として年を取るようになると」
リャンはゆっくりうなずいた。
「祖母も、そうだった」
部屋が静かになった。
シェンリュカが兄のそばへ寄り、ユエンは妹のために少し場所を空けた。
「曽祖母が出ていったのは、私が生まれるずっと前だ。夫を亡くし、次は自分の子供たちを見送ることになる。それには耐えられぬと、青い竜と旅立った」
ポルフィラは青い竜を見た。
背の女性は顔を上げ、雲の先へ目を向けている。
「祖母も、やがて同じことを考えるようになった。子供たちの姿が、自分より年上に見えるようになる。その前に、この宮殿を出ると決めたのだ」
リャンは言葉を切った。
ポルフィラは、続きを待った。
「だが、一年後に戻ってきた」
声が低くなった。
「銀の竜の脇腹に、弩の矢が刺さっていた。普通の矢とは比べものにならぬ太さだった。竜は祖母をこの庭まで連れ帰り、そのまま息絶えた」
ポルフィラは窓の向こうを見た。
オブシディオンが休んでいる庭。
その場所へ、銀の竜が傷を負って降りた。
「どこで、そんな……」
「分からぬ。どのような弩で放ったものか、誰にも分からなかった。どこへ旅をし、誰に襲われたのかも」
リャンは屏風から手を下ろした。
「祖母は、竜が動かなくなってから、誰の呼びかけにもまともに答えられなくなった。そばを離れようとせず、名を呼び続けていた」
ポルフィラは言葉を失った。
オブシディオンが目の前で息絶えたら、自分はどうなるだろう。
名前を呼んでも、もう返事はない。
そんなことは、考えるだけでも恐ろしかった。
「そのあと、祖母は年を取るようになった。だが、心は戻らなかった。旅のことを聞こうとしても、話せる状態にはならなかったのだ」
ポルフィラは屏風の女性を見つめた。
竜と一緒に生きていこうと、この宮殿を旅立った人だった。
その竜を失ってから、正気に戻ることもなかったという。
どこかの国には、竜の鱗を貫く武器がある。
オブシディオンと旅をする自分も、その危険を知らずに近づくかもしれない。
ポルフィラは思わず、庭で休んでいる彼の姿を確かめた。
リャンも庭の竜へ目を向けた。
「迎えたばかりなのに、悲しい話をしてしまったな。だが、世界のどこかには、竜を傷つける武器があることを、あなたにも知っておいてほしかった」
ポルフィラへ向き直り、静かに続けた。
「祖母と同じ目に遭ってほしくないのだ。あなたにも、オブシディオン殿にも」
「いえ。聞かせてくださって、ありがとうございます」
ポルフィラの目が、また庭へ向いた。
黒い背がそこにある。
それを確かめると、胸の奥に詰まっていた息が少しずつほどけた。
リャンもしばらく同じ方を見ていた。
やがて、手前の席へ彼女を招く。
「座ってくれ。温かいものを飲もう。あなたの旅の話も、聞かせてもらえないだろうか」




