第238話 掛け軸の赤い竜
店へ入ってきた男は、品の受け渡しをしていたタオの手が空くまで待った。
深い藍色の長衣に、細い銀糸の縁取り。
年はタオと同じくらいに見えた。
供を二人連れていたが、入口を塞がないよう、先に脇へ下がらせている。
男はタオへ頭を下げた。
「お仕事中に失礼いたします。ウェン家で家宰を務めます、カイと申します。ポルフィラ様に、お取り次ぎをお願いできますでしょうか」
タオの顔つきが変わった。
「家宰殿が、わざわざ?」
「主人から、失礼のないよう、自分でお伝えしてくるようにと申しつかっております」
ポルフィラは倉庫の戸口から出た。
「私に、何のご用ですか」
カイは彼女へ向き直り、改めて頭を下げた。
「主人ウェン・ルイより、ご招待をお届けに参りました。オブシディオン様にも、ぜひご一緒にお越しいただきたいとのことです」
ポルフィラは足を止めた。
また、竜と一緒に……
その表情を見て、カイは差し出しかけた書状を手元へ戻した。
「先日のことがございました。ご不安は、もっともでございます。まずは、お話だけでもお聞きいただけますか?」
命令する声ではなかった。
それでもポルフィラは、すぐには近づかなかった。
カイは続けた。
「主人は、グオ・シェンを含む、この地方の領主たちを取りまとめる立場にあります。今回の経緯を、お二方から直接伺いたいと申しております」
「庭を焼いたことを、責めるためですか?」
「主人からは、お二方を賓客としてお迎えするようにと言われております」
カイはポルフィラの目を見て答えた。
「ただ、私の言葉だけで信用していただくのは難しいでしょう。書状をお読みになり、お返事は後ほどでも構いません」
ポルフィラは書状を受け取った。
そばでタオが、カイへ椅子を勧めた。
*
カイが店を出たあと、ポルフィラはタオに尋ねた。
「知っている人なんですか?」
「家宰のカイ様とは直接お会いしたことはない。だがウェン様のところとは、取引がある。払うべきものを渋る方ではないよ。飢饉のときに倉を開いたこともあって、この辺りでは評判のよい方だ」
「グオ・シェンより、偉い人なんですよね」
タオはうなずいた。
「あの男のことで困った者が、訴えに行く先でもある。私なら、お会いする。今後、店や村が心配だということも、聞いていただけるだろう」
ポルフィラは書状へ目を落とした。
都合のよい日に、望む形で訪ねてほしいと書かれている。
竜が休める土地も用意するが、先に確かめてもらって構わないという。
翌朝、返事を聞きに来たカイとともに、岩場へ向かった。
木々の間から黒い体が見えたとき、カイの足が止まった。
顔を上げ、息を吸ったまま動かなくなる。
オブシディオンが首を起こした。
カイは一歩退きかけ、そこで姿勢を正した。
「初めてお目にかかります。ウェン家のカイと申します」
深く頭を下げてから、竜へ向けて招待の言葉を述べた。
ポルフィラへ説明させて済ませず、彼自身にも伝えようとしている。
〈どう思う?〉
ポルフィラが尋ねた。
〈この者は、私にも話しているな〉
〈うん〉
館の場所を聞くと、カイは二人が分かるまで道と地形を説明した。
返事を急がせることも、オブシディオンに近づくこともしなかった。
ポルフィラはオブシディオンを見上げた。
〈一緒に、行ってみようか〉
*
シェンラから内陸へ向かうと、街道を行き交う荷車が増えた。
畑の間に村が続き、やがて大きな町が見えてくる。
川に沿って倉や店が並び、石を敷いた広い通りへ幾つもの橋がつながっていた。
軒先の看板は形がそろい、店の奥に見える品の並べ方まで整っている。
橋を渡る人々の鮮やかな上衣や、きちんと結われた髪が、陽光に映えていた。
ポルフィラは背の上から町を見渡した。
シェンラよりずっと大きい。
人と荷の流れも、川沿いの道と中央の通りへ分かれ、混み合う交差点には広場が設けられていた。
その都会の中に、木々の緑を抱えた広大な一画があった。
高い塀に囲まれたウェン家の屋敷だった。
青緑の瓦屋根が、庭木の間から現れた。
一つではない。
左右に渡された回廊が幾つもの棟をつなぎ、その内側に中庭を抱いている。
朱色の柱が規則正しく並び、屋根の端が、空へ向かって緩やかに反っていた。
庭園の池を渡る橋が見え、その先にも回廊と離れが続く。
町の何本もの通りが収まりそうな敷地だった。
それでも中央の大きな棟を取り巻く建物は、庭の景色に合わせて低く配され、門から奥へ延びる道も、その棟で終わっていた。
カイに教えられた着地場所は、敷地の川側に広がる草地だった。
周りの棟から十分に離れ、川へ向かって空が開けている。
庭木の切れる所に迎えの人々が待ち、川向こうの道にも、空を見上げる人が増えていた。
〈あそこだね〉
オブシディオンが大きく旋回した。
朝日に照らされていた草地を、黒い影が横切った。
川向こうの道に立つ人々が一斉に顔を上げる。
遠くを飛ぶ竜だと思っていた者の目の前で、その翼がぐんぐん大きくなった。
迎えの旗を持っていた男が、旗を傾けたまま立ち尽くした。
籠を抱えていた女が足を止め、隣の者の袖をつかむ。
子供を抱いた男は、口を開けたまま、背後へ二歩下がった。
オブシディオンが翼を立てた。
空を押し返す羽ばたきが、重く響いた。
川面に細かな波が走り、岸の草が一斉に伏せる。
川沿いの木々がざわめき、回廊に下がる房飾りが真横へなびいた。
人々は袖で顔をかばった。
それでも目をそらせず、指の隙間から見上げている。
黒い脚が草地へ届いた。
地面が沈み、重い響きが足裏を伝わる。
長い尾がゆっくり下り、翼の鉤爪を地面についた。
誰かが、かすれた声で言った。
「あれに、人が……」
ポルフィラは肩へ下り、鱗を足場に身軽に地面へ降りた。
竜の脚の脇へ立つと、その小ささに、見ていた者たちがまた黙った。
館から迎えに出ていた男が、しばらく竜を見上げていた。
やがて一度、深く息を吐き、ポルフィラへ歩み寄る。
「ウェン・ルイです。お越しくださって、ありがとう」
年はドランと同じくらいだろう。
すらりと細身で、茶緑の髪をきちんと結っていた。
灰緑色の長衣は仕立てがよく、袖の縁にだけ控えめな刺繍がある。
穏やかな目が、ポルフィラの顔へまっすぐ向けられた。
驚きを残しながらも、相手を落ち着かせるような微笑みだった。
手を上げる仕草にも、ゆっくりと言葉を選ぶ話し方にも品があり、ポルフィラは自然と姿勢を正した。
ルイはオブシディオンにも向き直り、胸の前で手を重ねて礼をした。
「あなたを、この目で拝見できる日が来るとは思いませんでした」
ポルフィラが名を伝えると、ルイはもう一度、ゆっくり呼んだ。
「オブシディオン様。ようこそ、我が家へ」
竜がわずかに顎を下げた。
ルイの後ろで、家宰のカイの肩から力が抜けた。
*
館へ入る前に、ポルフィラは草地を見回した。
川へも出られ、翼を広げる邪魔になるものもない。
オブシディオンは水を飲んでから、草の上へ腹を下ろした。
〈何かあったら、すぐ呼ぶね〉
〈ああ〉
ルイは先を急がず、二人のやり取りが終わるのを待っていた。
草地から館へ続く門をくぐると、磨かれた石の道が延びていた。
中庭を囲む回廊を歩くと、柱の間から、別の庭と低い屋根が見える。
途中で、ルイの妻と双子の息子たちを紹介された。
妻のリンは穏やかに迎え、ポルフィラと同じ年頃に見えるユンとハオは、よく似た茶色の目を輝かせていた。
「あんな大きな竜に、どうやって乗るの?」
ユンが尋ね、すぐ横からハオものぞき込んだ。
ポルフィラは笑った。
「初めは大変だったけど、今は慣れたよ」
リンが二人の肩へ手を置いた。
「お話は、あとで。まずお父様のお客様をお通ししましょう」
*
通された部屋で、ポルフィラは足を止めた。
壁に、大きな掛け軸があった。
雲の間を飛ぶ、赤い竜。その背に、一人の男が乗っている。
描かれた竜の鱗へ、細い金の線が入っていた。
男は首の付け根に座り、風に袖をなびかせている。
体との釣り合いからすると、竜はノクスと同じくらいだろうか。
「それは、私の曽祖父です」
ルイが隣へ来た。
ポルフィラは彼を見た。
「本当に、竜に乗っていたんですか」
「ええ。私が生まれるより前に、祖父へ家督を譲り、旅に出ました。そのまま戻らなかったそうです」
ポルフィラはもう一度、掛け軸を見上げた。
村の年寄りたちが話していた、竜に乗る人。
今は、その姿が目の前にある。
ルイは赤い竜へ目を向けた。
「この家では、昔から大切にしている絵です。私も子供の頃、何度も見上げました。祖父が覚えていた曽祖父の話を、せがんだものです」
「古い家には、こういう絵が残っているんですか」
「我が家だけではありません。古い家ほど、竜とともに生きた者を家族に持っています。王家にも。その人たちの話を、今も伝えています」
ポルフィラは絵から離れられなかった。
竜がいたことさえ、信じられていなかった故郷を思う。
同じ海の向こうで、この家の人たちは、赤い竜を見上げながら育っていた。
「……だから、竜を見ても、みなさん余り驚かないんですね…」
「ええ。ただ、今日ほど驚いたことはありません」
ルイは窓の向こうへ顔を向けた。
「曽祖父の竜も、オブシディオン様ほど大きくはなかったでしょう」
*
席につくと、ルイはグオ・シェンの話を切り出した。
ポルフィラは招待を受けてからのことを順に伝えた。
竜を譲れと言われたこと。
断ると兵を向けられ、店や村まで脅されたこと。
自分へ矢が放たれたことも話した。
ルイは途中で遮らず、聞いていた。
庭を焼いたところまで話し終えると、膝の上で手を重ね直した。
「あなた方が来られる前から、訴えは届いていました。代金を払わず品を納めさせる。断った商人へ嫌がらせをする。問いただせば、家臣の行き違いだと言い逃れる」
ルイはポルフィラへ頭を下げた。
「……対処が遅れました。そのために、あなた方まで危険な目に遭わせてしまった」
ポルフィラは姿勢を正した。
グオ・シェンより身分の高い人が、自分へ頭を下げている。
「今は、あの場にいた者たちから、あの男の命令だったと複数の証言がそろいました。店や村を脅しに使ったことも、私の方で取り上げます」
「タオさんたちに、何もしないようにしてもらえますか」
「もちろんです。店と村へ、こちらから家臣を出します。何かあれば、私へ直接知らせてもらえるようにしましょう」
ポルフィラは深く息を吐いた。
ルイは静かに続けた。
「脅しに屈せず、あの男を止めてくださったことに感謝します。竜とあなたを、金で買えるものとして扱ったことも、我が家では看過できません」
窓から、川風が入った。
草地では、オブシディオンが目を閉じていた。
ルイは、ポルフィラがそちらを見るのを待ってから尋ねた。
「この先は、どちらへ?」
「……王都へ行ってみたいと思っています。まだ、この国をもっと見たくて」
「それでしたら、お伝えしたいことがあります」
ルイは少し表情を和らげた。
「私の親族が王家へ嫁いでおり、普段から行き来があるのです。今回の報告をした折、海を越えて竜と旅をする方のこともお伝えしました」
ポルフィラは振り返った。
「ぜひ、お二方に会いたいと。王家から、そう言葉を預かっています」
ポルフィラは壁の赤い竜を見た。
その背の男は、雲の向こうへ顔を向けていた。
ルイが静かに言い添えた。
「お返事は、急がなくてよいのです。よければ、何日か我が家でお過ごしください。オブシディオン様にも、あの場所をお使いいただけます」
「泊まっても、いいんですか」
「もちろん。町にも、ご覧いただきたいものがたくさんあります。ご希望でしたら、案内する者をつけましょう」
ポルフィラは窓の外へ目を向けた。
オブシディオンが、草の上でゆっくり翼を伸ばしている。
〈何日か泊まっていかないかって。どうする?〉
〈お前は、この町も見たいのだろう〉
ポルフィラは笑った。
〈うん。まだ、上からしか見てないもの〉
ルイへ向き直り、頭を下げた。
「では、少しお世話になります」
ルイの穏やかな目が細くなった。
「どうぞ、ごゆっくり」




