第237話 帰ってきて話すこと
タオは、ポルフィラの顔を見ると帳面を閉じた。
屋敷の方から煙が上がったことは、もう店にも伝わっていた。
「怪我はないかい」
ポルフィラはうなずいた。
「でも、お話ししなければいけないことがあります」
店の奥へ入り、招待を受けてからのことを話した。
オブシディオンを譲れと迫られたこと。
帰ろうとすると兵を向けられ、矢を射られたこと。
門を壊し、庭の亭を焼いて出てきたことも。
タオは途中で口を挟まなかった。
ポルフィラが村や店への脅しを伝えたときだけ、眉間にしわが寄った。
「誰にも手を出さないと、言わせました。家臣たちの前で。でも……」
言いかけて、言葉が詰まった。
屋敷では怒りが先に立っていた。
今は、店の外からいつ兵の足音が聞こえてくるか、それが気になった。
「私たちがいなくなったあとで、ここへ何かしてこないか、心配です」
タオは机の上で手を組んだ。
「そうだね。あの方が約束したからといって、もう大丈夫とは言えない」
ポルフィラは膝の上で手を握った。
「すみません。お世話になったのに」
「あの方へ渡すために、竜を連れてきたわけではないだろう」
顔を上げると、タオは彼女を見ていた。
「断った君を兵で捕らえようとした。それは、向こうがしたことだよ。店で働いたことまで、君が悪かったように考えなくていい」
ポルフィラは唇を結んだ。
それでも、心配が消えたわけではなかった。
「レンたちにも、私から話したいんです」
「行っておいで。あの村にも、噂は届くだろう。その前に、君が無事だと見せてきなさい」
*
村へ向かう間、ポルフィラは海を見ていた。
オブシディオンの翼の下を、見覚えのある浜が近づいてくる。
船があった。
網が干され、人が働いている。
いつも通りの景色を見て、ようやく少し息が楽になった。
浜へ降りると、レンが駆けてきた。
ポルフィラが地面へ下りるより早く、声をかけてくる。
「どうした? 今日は仕事じゃなかったか」
彼女の顔を見て、笑みが消えた。
「何かあったのか?」
ポルフィラはうなずいた。
「メイと、ガンさんにも会いたい」
レンはそれ以上尋ねず、家へ走る子供に声をかけた。
ほどなくメイが姿を見せ、ガンも後から来た。
仕事の手を止めた村人たちが、少し離れたところに集まっていた。
ポルフィラは三人へ向き直った。
「領主のところへ、行ってきたの」
メイが息を吸った。
ガンは黙って、続きを待った。
*
話しているうちに、レンの手が拳になった。
兵から逃げたところではオブシディオンへ顔を向け、矢の話になると、ポルフィラを見直した。
「本当に当たってないんだな?」
「うん。翼で防いでくれた」
メイがそばへ寄った。
袖や腕へ目を走らせ、傷がないのを確かめてから、ポルフィラの手を握る。
「よかった……」
ポルフィラは握り返した。
それから、言いにくかったことを口にした。
「村のことも、知っていたの。私が言うことを聞かなければ、みんなに何かするような言い方をしていた」
集まっていた人たちの間で、声が上がった。
隣の者へ顔を向ける人も、浜から村へ続く道を見る人もいる。
「だから、誰にも手を出さないって言わせた。でも、私たちが離れたら……」
ポルフィラは言葉を切った。
メイの手が、まだ自分の手を包んでいた。
「ここを通り過ぎただけなら、こんなことにはならなかったのに」
「そんなこと、言うなよ」
レンが言った。
ポルフィラが顔を上げると、レンは怒ったままの顔をしていた。
けれど、その怒りは彼女へ向いていなかった。
「あいつが竜を欲しがって、お前を捕まえようとしたんだろ。俺たちを脅しに使ったのも、あいつだ」
ガンもうなずいた。
「怖くないと言えば、嘘になる。だが、お前さんを泊めたことを悔やむ理由にはならんよ」
ポルフィラは目を伏せた。
浜で網を繕う手を止めていた老人が、そばへ来た。
「竜を見せてくれと頼んだのは、わしらだ。お前さん一人で、何もかも背負うことはない」
メイが握っていた手を離し、彼女の肩へ触れた。
「話しに来てくれて、よかった。知らないまま、領主のところの人が来る方が困るよ」
ポルフィラは何度かうなずいた。
声を出そうとすると、喉が詰まった。
*
ガンは村人たちへ、見知らぬ使いが来たら、一人で応じず自分を呼ぶよう伝えた。
町へ魚を売りに行く者にも、屋敷や店の様子に変わりがないか気をつけてもらうことになった。
ポルフィラはガンに言った。
「私も、すぐにはここを離れない。タオさんのところにいるから、何かあったら教えて下さい」
「分かった。店とも知らせを行き来させよう」
レンがオブシディオンを見上げた。
「こいつがいると知って、それでも手を出すなら、よほどだと思うけどな」
「怖い思いをさせた相手に、仕返しをしたくなる人もいるから」
ポルフィラが答えると、レンは口を閉じた。
ガンがうなずいた。
「だから、用心はしておこう。何もなければ、それが一番だ」
*
その夜は、レンとメイの家へ泊まった。
いつもの席へ座ると、メイが温かい食事を置いてくれた。
ポルフィラは湯気を眺めていた。
昼間、自分へ向けられた矢の先が、ふと頭に浮かぶ。
メイが隣へ座った。
「今は、食べな。今日はもう、ここにいるんだから」
ポルフィラはうなずき、箸を取った。
一口食べると、腹が減っていたことに気づいた。
レンが笑った。
「そう。それくらい食べられれば、大丈夫だ」
その顔を見て、ポルフィラも少し笑った。
*
翌朝、オブシディオンのところへ行くと、彼は海から戻っていた。
ポルフィラは鼻先に手を置いた。
〈みんな、私がここへ来たことを、嫌だったって言わなかった〉
オブシディオンは静かに彼女を見た。
〈お前がどんな者か、知っている〉
ポルフィラは鱗を撫でた。
〈このまま、何もなければいいね〉
〈ああ〉
シェンラへ戻ってからも、数日はいつも通り店へ出た。
荷を運び、引き継ぎを進める。
その間、タオは得意先から聞いた屋敷の様子を教えてくれた。
村からも魚と一緒に便りが届いた。
兵は来ていない。
変わりなく、漁に出ている。
その知らせを聞くたび、ポルフィラの肩から少しずつ力が抜けた。
そんな朝、店へ一人の男が訪ねてきた。
供を入口の脇へ下がらせ、タオの仕事が終わるまで静かに待っている。
ポルフィラは倉庫の戸口から、その姿を見た。
男の帯に下がる印は、グオ・シェンの家のものではなかった。




