第236話 黒炎の庭
オブシディオンの前脚が、門の中央へかかった。
太い爪が塗りの施された板へ食い込む。
竜が肩を動かした途端、門を支えていた柱が軋んだ。
鉄の金具が弾け飛び、内側へ渡されていた閂が折れる。
門は、開かなかった。
二枚の扉も柱も、ひと塊になって外へ倒れた。
地面を打つ轟音が丘へ響いた。
瓦が砕け、土煙が噴き上がる。
つい先ほど兵が閉じた入口には、竜の体が通れるほどの穴が開いていた。
グオ・シェンが家臣の肩越しに叫んだ。
「何をする! 私の城だぞ!」
オブシディオンが振り返った。
長い首が動き、領主の上へ影が落ちる。
グオ・シェンは口を閉じた。
盾代わりにしていた家臣の襟を、さらに強く握った。
ポルフィラは背の上で体を起こした。
「私を閉じ込めようとした城でしょ!」
「この損害を、どうするつもりだ……!」
「先に兵をけしかけて、矢まで射たのは誰?」
グオ・シェンの目が、軒下へ動いた。
弓は地面に落ちたままだった。
兵は柱の陰へ退き、誰も拾おうとしない。
「その娘を下ろせ! 何のために、お前たちを置いている!」
兵の一人が槍を握り直した。
オブシディオンの喉が鳴った。
それだけで男の手が止まり、穂先が震えながら下がった。
グオ・シェンは周りを見回した。
誰も前へ出ない。
家臣たちも、主人のそばから一歩、また一歩と離れていた。
*
庭の奥に、池へ張り出す亭があった。
朱塗りの柱に、金色の飾り金具。
反り返った屋根の下には、卓や椅子が並んでいる。
そこから池を挟んだ斜面には、形を整えられた木々と、飾りの石が続いていた。
ポルフィラは贅を凝らした庭に人影を探した。
逃げ遅れた使用人もいない。
亭の後ろは塀で、その向こうには家ではなく、丘の雑木林が広がっている。
オブシディオンの首が、そちらへ向いた。
〈あそこに人はいない〉
彼が言った。
ポルフィラは角を握り直した。
〈うん〉
竜の胸が膨らんだ。
脚の下で砂利が押し広げられ、翼がゆっくりと開く。
巨大な膜が空を遮り、庭も屋敷の窓も影に沈んだ。
風が止まったように感じた。
牙の並ぶ顎が開く。
喉の奥から、地鳴りにも似た音がせり上がった。
次の瞬間、黒炎が噴き出した。
太い炎の奔流が池を越え、亭を正面から呑み込んだ。
朱塗りの柱も、屋根の金具も、一瞬で黒い渦の中へ消える。遅れて凄まじい熱風が庭を走り、領主たちの袖と裾を叩きつけた。
グオ・シェンが悲鳴を上げた。
顔をかばおうとして家臣の襟から手を離し、よろめいて膝をつく。
炎の中で、柱が爆ぜた。
屋根の片側が沈み、重なった瓦が雪崩を打って落ちる。
落ち切る前に梁が折れ、亭そのものが崩れた。
それでも、黒炎は止まらなかった。
池の向こうで庭木が横倒しになった。
枝葉が燃え上がり、幹が裂ける。
飾り石の表面が音を立てて剥がれ、熱せられた池の縁から白い蒸気が噴いた。
炎を向けられていないこちら側にいてさえ、息を吸うのが苦しい。
家臣が腕で顔を覆い、地面を這って建物の陰へ逃げようとした。
「消せ! 水を……水を持ってこい!」
グオ・シェンが叫んだ。
返事はなかった。
池は目の前にある。
その池へ近づける者が、一人もいなかった。
オブシディオンが、わずかに首を動かした。
黒炎が庭の奥を薙いだ。
手入れされた植え込みも、石造りの小さな橋も、火と蒸気の向こうへ消えた。
崩れた亭の屋根飾りが一瞬だけ浮かび、真っ赤になって砕け落ちる。
グオ・シェンは、もう庭を見ていなかった。
砂利へ両手をつき、腹を引きずるように後ろへ逃げる。
深紅の絹が石に擦れ、金糸の刺繍へ泥がついた。
転んだ拍子に飾り帯の石が外れたが、拾おうともしなかった。
ポルフィラへ謝れと命じた家臣が、彼の裾へすがった。
「領主様……!」
グオ・シェンは足を振り、その手を蹴り払った。
自分だけが先に逃げようとしても、膝がうまく立たない。
二人とも砂利の上でもがき、黒い翼の影から抜け出せずにいた。
*
黒炎が途切れた。
耳の奥には、まだ轟音が残っていた。
火の粉が舞い、池の向こうで木が一本、遅れて折れた。
亭のあった場所には、屋根の形さえ残っていなかった。
黒く縮れた梁が瓦の山へ突き出し、その周りで庭木の切れ端が燃えている。
飾り石は割れ、白かった塀には煤が広がっていた。
そのすべてが、ほんの短い間に起きたことだった。
オブシディオンが顎を閉じた。
鼻先から吐いた息で、地面の灰が舞い上がる。
ポルフィラはゆっくり顔を上げた。
自分の足を踏ん張り、領主を見下ろす。
「彼を、思い通りにできると思ったの?」
グオ・シェンは返事をしなかった。
顔をかばっていた腕を少し下げ、竜の口を見た。
そこからまた火が出るのではないかと、目をそらせずにいる。
「自分の地位を上げるために連れていくって、言ったよね」
領主の唇が動いたが、言葉にはならなかった。
ポルフィラの声が強くなった。
「人を脅して、従わせようとした。私が言うことを聞かなければ、店や村をどうするつもりだったの」
グオ・シェンは家臣を見た。
家臣は首を振り、彼から離れようと手で地面を押した。
ポルフィラは待った。
このまま、逃がすつもりはなかった。
「……何もせん」
ようやく、グオ・シェンが言った。
「聞こえない!」
「何もせんと言っている!」
声を張り上げた直後、オブシディオンの爪が敷石を砕いた。
グオ・シェンが身を縮める。
「店にも、村にも、何もしないで。働いている人を捕まえたり、商売の邪魔をしたりするのもだよ」
ポルフィラは一つずつ言った。
「ここへ案内した人も、話をした人も、今回のことで罰しない。私たちにも、もう手を出さない」
グオ・シェンは何度もうなずいた。
「自分の口で言って」
「手は出さぬ。店にも村にも……誰にも、何も命じぬ」
ポルフィラは、家臣たちへも目を向けた。
「聞いたね」
家臣たちは声を重ね、慌ててうなずいた。
誰も主人の顔色をうかがってはいなかった。
竜が、もう一度こちらを向かないことだけを願っていた。
「私がこの町を出ても、戻ってこないと思わないで」
ポルフィラはグオ・シェンへ言った。
「あの人たちに何かあったら必ず戻ってくる。忘れないで」
領主は灰の混じった砂利へ手をついたまま、黙って頭を下げた。
*
〈行こう〉
ポルフィラはオブシディオンへ伝えた。
彼はすぐには動かなかった。
倒れた門の方へ首を向けたあと、もう一度、領主を見た。
低い唸りが、地面を震わせた。
グオ・シェンは肩を跳ねさせ、さらに頭を下げた。
ようやくオブシディオンが向きを変えた。
砕けた門を踏み越え、丘の上の空いた土地へ出る。
町へ続く道には人影があったが、竜の姿を見ると、皆立ち止まった。
ポルフィラは彼の首へ手を置いた。
〈町の上は避けて。岩場へ戻ろう〉
翼が広がった。
砂と瓦の欠片が舞い、巨体が地面を離れる。
ポルフィラは身を低くし、丘の外へ出るまで背後を見なかった。
屋敷が遠ざかってから、振り返った。
池の向こうで、まだ細い煙が上がっている。
残っていた使用人たちが、ようやく水を運び始めていた。
門のなくなった庭には、深紅の長衣が小さく見えた。
グオ・シェンは、まだ立ち上がっていなかった。
*
岩場へ降りると、ポルフィラは背から下りた。
指の付け根が赤くなっていた。
オブシディオンが顔を寄せた。
〈怪我は〉
〈してないよ〉
ポルフィラは鼻先へ両手を置いた。
まだ息が熱い。
自分の中にも、怒りが残っていた。
〈守ってくれて、ありがとう。私の頼みも聞いてくれて…〉
彼の鼻が、そっと手へ押しつけられた。
ポルフィラはそのまま、少し目を閉じた。
無事に戻ってきたと、ようやく思えた。
やがて手を離し、町の方へ顔を向ける。
「タオさんに、話してくるね」
もう黙って旅立つわけにはいかない。
この土地で世話になった人たちへ、自分の口で伝えなければならなかった。




