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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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第235話 手を出すな

門が閉まる音を聞きながら、ポルフィラは近づいてくる兵を見た。

二人とも、槍を持っていた。

穂先はまだ上を向いているが、左右に分かれ、彼女のそばへ回り込もうとしている。


「帰るだけだよ。そこをどいて」

ポルフィラが言うと、片方の兵が手を差し出した。


「領主様のお話が済むまで、こちらへ」


「私の返事は変わらない」


兵は足を止めず、彼女の腕へ手を伸ばした。


ポルフィラは半歩引いた。

つかまれる前に肩を引き、手の下をくぐる。

背後にいたもう一人へぶつからないよう、足を斜めに踏み出した。

兵の指が袖をかすめたときには、ポルフィラはもうオブシディオンの前脚へ戻っていた。


グオ・シェンが扇を握り締めた。

「何をしている。娘一人だぞ」


兵が顔を赤くして向き直る。


ポルフィラはその目を見た。

「触らないで」


〈上がれ〉

オブシディオンの声が届いた。


ポルフィラは地面を蹴った。

前脚の鱗へ片足を置き、その勢いで体を持ち上げる。

伸ばした手が鱗の縁を捉えると、もう片方の足は次の段差を踏んでいた。

兵が手を伸ばした。

その指が届く前に、ポルフィラは肩を越えた。

手をついて軽く身をひるがえし、背の上へ両足を下ろす。


つかみ損ねた兵が、空の手を握ったまま見上げていた。


ポルフィラは首の付け根まで駆け、振り返った。

息もほとんど乱れていなかった。

「これが、客の帰し方なの?」


グオ・シェンは答えず、兵をにらんだ。

厚い顎の下で、高い襟が窮屈そうに動いた。


そばの家臣が一歩前へ出た。

「勝手に帰るなど許されん。まず下りて、領主様へお詫びしろ」


「どうして私が謝るの。売らないと言ったら、つかまえようとしたのはそっちでしょ」


「言葉を慎め!」


「そっちこそ、いい加減にして!」

ポルフィラの声が庭に響いた。

自分でも驚くほど、腹の底から声が出た。


家臣が口を閉じる。


その顔を見ても、怒りは少しも収まらなかった。

「オブシディオンを物みたいに呼んで、働いている人まで馬鹿にして。領主だからって、何をしてもいいの?」


グオ・シェンが扇を開いた。

「荷運びの娘が、誰のおかげで、この地で生活できると思っている」


「私が働いたからだよ!」

ポルフィラは即座に言い返した。

「仕事をくれたのはタオさんだよ。私は任された仕事をして給金をもらった。誰のおかげでもない!」


領主は扇を閉じ、家臣の胸へ押しつけた。

「商人の名を出せば、私が引くと思うのか?」


ポルフィラは、唇を噛みしめた。

自分からタオの名を口にしてしまった…

そのことを後悔するより先に、領主が続けた。


「お前を雇った店は分かっている。あの海辺の村もな」


ポルフィラは黙った。


領主が、その沈黙を見て薄く笑う。

「初めから素直に話を聞けばよいのだ」


「……あの人たちに、何をするつもり?」


「お前次第だろう」


レンが網を引く背中が浮かんだ。

メイが仕事着の紐を結んでくれた手も、タオから初めて受け取った給金も。

この男は、その人たちの暮らしを、ポルフィラを従わせるために利用しようとしている。

腹の奥から怒りが込み上げた。

「私を脅すために、あの人たちを持ち出すの?」


グオ・シェンは返事の代わりに、庭の中央を指した。

「下りろ。金の話は、それからだ」


ポルフィラは拳を握った。

「……下りない」


領主の目が細くなった。


「あの人たちに手を出さないで。私も、オブシディオンも、あなたの言いなりにはならない」


*


オブシディオンが、ゆっくりと体を起こした。

背が持ち上がり、ポルフィラは足を開いた。

低く腰を落として、角へ手をかける。

彼の頭が屋根より高くなった。

兵たちが後ずさる。

ついさっきまで腕をつかもうとしていた男も、槍を胸へ引き寄せてさがっていった。


領主は数歩退き、段差に足を取られた。

家臣の腕をつかみ、体を立て直す。

「竜を伏せさせろ!」


ポルフィラは彼を見た。

「帰る」


オブシディオンが片翼を広げた。

膜に遮られ、庭の一角が暗くなる。

風を受けた領主の袖が大きく膨らんだ。


屋敷の軒下で、弓を持つ兵が動いた。


「娘を狙え!」

グオ・シェンが怒鳴った。

「飛ばせるな。竜は傷つけるなよ!」


ポルフィラは声の方へ顔を向けた。

弓に矢がつがえられていた。

その先が、背の上にいる自分へ上がってくる。


オブシディオンの首が、鋭くそちらを向いた。

牙をむき、弓兵とポルフィラの間へ翼を差し入れる。


〈低くなれ!〉


ポルフィラは角の根元に伏せた。

弦の鳴る音がして、翼の硬い骨に矢が当たった。

折れた矢が庭へ落ちるより早く、オブシディオンが吠えた。

轟く声に、弓兵が弓を取り落とした。

家臣たちが耳を塞ぎ、兵は槍を構えることもできずに後ずさった。

グオ・シェンは隣の家臣をつかみ、自分の前へ引き寄せた。


オブシディオンは弓兵から目を離さなかった。

前脚の爪が敷石を削り、長い尾が庭木をなぎ倒す。

腹から、重い音が響いてくる。

大きく開いた顎が、軒下へ向いた。


〈待って!〉

ポルフィラは角を握り、体を起こした。


〈………お前に矢を向けた〉


低い声に、背筋が冷えた。

怖かったのは、彼が怒っているからだけではなかった。

このままでは、軒下の兵も、その後ろの屋敷も、中の人々も黒炎に包まれる……

〈私も怒ってる。許せないよ。でも、ここはよその国だよ。前の王都と同じことを、ここではしないで!〉


オブシディオンの喉が鳴った。

顎はまだ弓兵へ向いている。


〈どこの国であろうと、お前を傷つけさせはしない〉


〈私は無事だよ。だから、聞いて!〉

ポルフィラは首へ手を押し当てた。

〈屋敷には、働いている人もいる。あの男の命令で、関係ない人まで一緒に焼かないで!お願い…〉


軒下から、兵が逃げ出した。

転びかけた若い使用人を別の者が引き起こし、建物の陰へ駆け込んでいく。

オブシディオンの目が、その姿を追った。

〈あの男は、村の者まで脅した〉


〈うん。だから、ここから逃げるだけじゃ済ませない。村人たちにも、手を出させない〉


ポルフィラは領主をにらんだ。

家臣を前に押し出したまま、グオ・シェンは竜の口元を見つめていた。


〈でも、誰も彼も巻き込んだら、レンたちだって怖くて暮らせなくなる。私たちで、あの村をそんな場所にしたくない〉


返事はなかった。

ポルフィラは手を離さず、待った。

震える鱗の下で、彼が息を吸い、ゆっくり吐いた。

やがて、牙をむいていた顎が閉じた。

オブシディオンは軒下から顔をそらし、閉ざされた門へ向き直った。

門番たちは槍を捨て、塀沿いに逃げ始めていた。


〈そこには、もう人がいないね〉

ポルフィラは確かめてから、低く身を伏せた。


オブシディオンが踏み出した。

白い砂利の下で、敷石が割れた。

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