第231話 揺れる足場
翌朝、ポルフィラはレンを連れて浜へ向かった。
オブシディオンはもう海から戻っていた。
濡れた鱗に朝日が光り、鼻先を上げて二人を迎える。
ポルフィラは隣を歩くレンを見た。
「ねえ。お願いがあるんだけど」
「何だ?」
「オブシディオンに登ってみてくれない?」
レンは足を止め、竜を見上げた。
前脚から肩へ、それから背へと目を動かす。
「いいのか?」
〈オブシディオン。いい?〉
〈構わん〉
オブシディオンが体を伏せると、レンはその横へ歩み寄った。
「じゃあ、ちょっと失礼するよ」
畳まれた翼から肩へ目をやり、足を置けそうな場所を一度見ただけで、軽く地面を蹴った。
ポルフィラがいつも両手でしがみつく翼の関節へ、片足でひょいと飛び乗る。
そこで立ち止まることなく、膝を伸ばして体を押し上げた。片手を肩の鱗にかけ、もう片方の足を高い位置へ運ぶ。
揺れる舟から舟へ渡るときと同じに身軽だった。
手で体を引き上げようとせず、足で軽く蹴っては次の足場へ移っていく。
ポルフィラが驚いて見上げたときには、レンはもう肩の上にいた。
そこから背へひと足で上がり、何でもないことのように振り返った。
「ここまででいいか?」
ポルフィラは口を開けたまま、うなずいた。
自分なら、まだ途中で次に足を置く場所を探している。
「……私はいつも苦労するのに」
レンは足元を見てから、八重歯を見せて笑った。
「動かないから、船より楽だよ」
帰りも早かった。
肩の上へ戻ると、軽くしゃがんで片手をつき、体を横へ滑らせる。畳まれた翼へ足が届いたところで、その手を離した。
「あっ!」
ポルフィラが声を上げたときには、レンはもう地面へ飛び降りていた。
両足で着地し、膝を柔らかく曲げて、すぐに立つ。
「ちょっと! 今の、大丈夫なの?」
ポルフィラが駆け寄ると、レンは丸い目を向けた。
「大丈夫だよ。下も見たし」
ポルフィラは肩の高さを確かめた。
自分なら、あそこから手を離すなど考えもしない。
「……私も、そんなふうに動けるようになりたい」
「昨日も言ってたな」
「本当に。体の使い方、教えてほしいの」
「いいけど、俺たちも、どう教えたらいいか……」
レンは自分の手を開いたり閉じたりした。
「なら、船を手伝ってもらえばいいじゃない」
声のした方を向くと、メイが浜を歩いてきた。
二人のそばで止まり、オブシディオンの肩を見上げる。
「レン、あそこから下りたの?」
「途中からな」
メイは驚いた様子もなく、ポルフィラへ向き直った。
「この国の言葉に慣れるまで、うちに泊まっていなよ。その代わり、船の仕事を手伝って」
「泊めてもらって、仕事も教えてもらえるの?」
「こっちは手が増えると助かる。ちょうどいいだろ?」
レンが言った。
メイもうなずく。
「船に乗って毎日動いていれば、嫌でも体が覚えるよ。言葉だって、一緒に働けば早いし」
ポルフィラはオブシディオンを振り返った。
〈ここに、もう少しいてもいい?〉
〈少しで身につくのか?〉
見上げると、竜の目がレンへ向いていた。
ポルフィラは笑った。
〈じゃあ、できるようになるまで〉
*
その日のうちに、メイが仕事着を一揃い持ってきてくれた。
くすんだ藍色の上衣は、襟を斜めに合わせ、脇の紐で留める形になっている。
飾りはなく、身幅にはゆとりがあった。
袖口を紐で絞れるので、余った布が手元へ落ちてこない。
茶色のズボンも、足首で裾を絞る作りだった。
「これ、あげる。船ではこっちの方が動きやすいよ」
メイは服をポルフィラの腕に載せた。
「もらっていいの?」
「うん。私が前に着ていたものだけど、まだ丈夫だから」
着替えると、肩も膝も楽に動いた。
長い髪をまとめたポルフィラの腰へ、メイが短い帯を回し、余った紐を収めてくれた。
「引っかかるものは、出しておかない方がいいよ」
まず任されたのは、船へ道具を運ぶ仕事だった。
レンがひょいと乗り移った船へ、ポルフィラも足を出す。
体重をかけた途端、足元から船が逃げた。
両腕を振り回したポルフィラの肘を、メイがつかんだ。
「膝、固めないで」
言われて膝を曲げると、船はまた逆へ揺れた。
今度は腰が引け、尻もちをつく。
レンが受け取った籠を脇へ置いた。
「最初は座ってていいよ」
悔しかったが、立ち上がろうとすると船が動く。
ポルフィラは縁を握り、二人が動くところを見ていた。
揺れを止めようとしていない。
足の裏も膝も腰も、船の動きを吸収していた。
分かった気はした。
けれど、自分でやると、すぐ全身に力が入った。
*
初めの数日は、浜へ戻っても地面が揺れているようだった。
夕食を食べながら眠くなり、寝床へ入れば朝まで目が覚めない。
翌朝は腕を上げるだけで背中が痛んだ。
それでも、浜へ行けば仕事が待っていた。
魚を入れる籠、網、縄。
名前を教わっても、沖へ出ると声が風に飛ばされる。
レンが何を言ったのか分からず、違う道具へ手を伸ばしたこともあった。
メイは必要なものを指さし、もう一度ゆっくり呼んでくれた。
ポルフィラもその名を繰り返し、手渡す。
家で聞けば分かる言葉が、仕事の最中には分からない。
何度も聞き返すうちに、道具の名と動きが結びついていった。
網を引くときも、最初は腕だけを使っていた。
少し引いただけで指が開き、肩が上がる。
レンが隣へ足を置いた。
「もっと腰を落として。そう。引いたら、足も動かす」
真似をすると、網がさっきより長く船へ入った。
だが、嬉しくて力を入れた途端、また腕だけで引いていた。
メイが笑った。
「一度に覚えなくていいよ。明日もあるから」
*
十日ほどたった朝、ポルフィラは籠を抱えて船へ乗り、思わず足を止めた。
両手がふさがっている。
それなのに、どこにもつかまらずに立っていた。
気づいた途端に船が傾き、慌てて籠を下ろす。
レンがこちらを見て笑ったが、ポルフィラも笑い返した。
さっきまでは、できていた。
少しずつ、船の揺れが分かるようになった。
揺れてから慌てることが減り、無意識に体が揺れを吸収して、楽に立っていられた。
浜へ戻れば、魚を選り分け、道具を洗った。
濡れた網を広げるときにも、足元へ絡まないよう、レンやメイの動きを目で追った。
二人と一緒に働いていると、一日中、全身を使った。
揺れる船で、網を引き、籠を運ぶ。
その繰り返しの中で、ポルフィラは少しずつ体の使い方を覚えていった。
*
ひと月が過ぎる頃には、朝の支度に戸惑わなくなっていた。
起きれば水を運び、メイと食事を済ませ、レンより先に浜へ出ることもある。
道で会う人たちの早口にも、返事ができるようになった。
ある日、隣の船へ渡ろうとして足を止めたポルフィラに、レンが手を差し出した。
ポルフィラは船の縁を見た。
昨日まで怖かった隙間が、今日は足の届く距離に見える。
「……やってみる」
空の籠を向こうへ渡し、船が近づくのを待つ。
メイに教わったように、足元ばかり見ず、降りる場所へ顔を向けた。
片足で蹴る。
向こうの船へ足がつき、膝が曲がった。
レンの手を借りずに立っている。
「できた…」
「うん。帰りもな」
レンはもう次の舟に飛び移っていた。
ポルフィラは笑い、空いた両手を開いた。
手のひらの硬くなったところを親指でなぞってから、彼の後を追った。
*
沖へ出られない日には、破れた網を繕った。
ガンも顔を出し、ポルフィラの隣へ座った。
手を動かしながら故郷の話をすると、知らない言葉だけを聞き返される。
初めの頃とは逆だった。
魚の名前は、まだ時々間違えた。
メイに直されるとレンが笑い、そのレンも、ポルフィラが教えた故郷の呼び名を覚えられずに笑われた。
毎日体を動かすので、食事の量も増えた。
メイの作った魚料理を平らげ、ご飯もおかわりする。
よく働いた日は、食べてもまだ腹が減った。
肩や腕の痛みは、毎朝のことではなくなった。
同じ籠を持っても、途中で置かずに運べる。
腰を落として持ち上げ、抱えた重さに合わせて足を出す。
そのやり方を、もう考えずにしていた。
オブシディオンのところへ行くと、彼は海から戻ったばかりの鼻先を向けた。
〈今日は、早いな〉
〈船が出なかったから。背中、上がってもいい?〉
低くなった前脚へ足を置いた。
手をかけ、体を近づけ、次の足場へ移る。
途中で立ち止まり、ポルフィラは下を見た。
いつもここで腕を伸ばし切って、次を探していた。
今日は、その前に足が上がっていた。
〈どうした〉
〈ずいぶん楽になった…〉
オブシディオンは動かずに待っていた。
ポルフィラは背へ上がると、海の方へ顔を向けた。
まだレンのようにはいかない。
それでも、頬が緩んだ。
*
ふた月を過ぎた頃、メイからもらった上衣の肩が少し窮屈になった。
洗った服へ腕を通しながら首を傾げると、メイが縫い目を確かめた。
「肩、しっかりしたね」
ポルフィラは自分の腕を見た。
袖をまくると、以前には気にしたことのなかった筋が浮いた。
肌も焼け、手には細かな傷がある。
メイは別の上衣を出してくれた。
「こっちにしよう。腕が上がらないと困るから」
着替えて浜へ走ると、レンが船の上から縄を投げてきた。
「それ、頼む!」
ポルフィラは受け止め、返事をした。
言い直してもらわなくても、何をするのか分かった。
縄をまとめて乗り込み、隣へ渡る。
レンが待つ船へ着くと、もう朝の支度はほとんど終わっていた。
「早くなったな」
「毎日やっているからね」
ポルフィラが答えると、レンは嬉しそうに笑った。
*
村へ来てから、三度目の満月が過ぎた。
最初に教わった言葉を、聞き慣れないと思うことはもうなかった。
浜から名前を呼ばれれば振り返り、冗談には二人と一緒に笑う。
その日の仕事を終えたポルフィラは、オブシディオンの前脚へ手を置いた。
足をかけ、体を引き寄せる。
肩へ上がり、背の鱗を越えるまで、一度も止まらなかった。
首の付け根へ腰を下ろしてから、下を見た。
メイが浜の籠を拾い、レンが手を振っている。
初めて二人に会った頃には、こんなふうに登れる自分を想像もできなかった。
〈速くなったな〉
オブシディオンが言った。
〈うん〉
ポルフィラは、鱗に置いた自分の手を見た。
まだレンのような高さから飛び降りることはできない。
けれど、降りるときにどこへ足を置けばいいかは、上からでも分かった。
海風が、額にかかった髪を払った。
ポルフィラは二人へ大きく手を振り返した。




