第230話 海を渡った言葉
オブシディオンが砂の上へ腹を下ろすと、村人たちはようやく言葉を取り戻した。
「何を食べるんだ?」
「あの爪で魚を捕るのかね」
次々に尋ねられ、ポルフィラは笑った。
「魚も食べます。海で自分で捕ってくるんですよ」
レンが竜の鼻先から海へ目を移した。
「こいつが潜ったら、魚が全部逃げそうだな」
「捕まえるの、上手だよ」
〈逃がしてばかりでは腹が減る〉
もっともな返事に、ポルフィラはまた笑った。
レンが不思議そうに顔を向ける。
「何だ?」
「今、オブシディオンが返事をしたの」
レンは耳を澄ますように竜を見たが、それ以上は何も聞こえなかった。
子供の一人が、母親の手を引いて少し前へ出た。
「背中、どうやって上がるの?」
「体を低くしてもらうの。それでも、ちょっと大変だけど」
ポルフィラが見上げると、オブシディオンは長い首を砂の上へ伏せた。
子供たちが一斉に声を上げる。
近くにいた大人まで、つられて笑った。
最初は離れて眺めていた人たちも、ポルフィラに声をかけながら近づいてきた。
勝手に体へ触れる者はいなかったが、首の鱗や畳まれた翼を熱心に見ている。
「名前、何だった?」
「オブシディオン」
「長いな。もう一度頼む」
レンが何度も繰り返す横で、メイは一度で覚えてしまった。
「レンより、私の方が先に呼べるようになったね」
「今、覚えたところだって」
言い返す口から八重歯がのぞいた。
その顔を見ていると、ポルフィラは初めて会った人たちとは思えなくなってきた。
*
子供たちが砂に竜の足跡を写し始めた頃、ポルフィラはガンのそばへ戻った。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「何だね」
「どうして、私の言葉が分かるんでしょう。海を越えてきたのに、レンと話ができて、びっくりしたんです」
ガンは顎ひげに手をやった。
「わしらも不思議だよ。聞き慣れん言い方はするが、何を話しているかは分かる」
「私もです。時々、分からないところはあるけど」
隣で聞いていた老女が、ガンへ顔を向けた。
「船で出ていった人たちの話があるだろう」
「ああ、あれか」
ガンは海の方を眺めた。
「ずっと昔、この国から船に乗って旅立った者たちがいたそうだ。わしが生まれるより、遥か昔の話だがね」
「どこへ行ったんですか?」
「それが、分からん。海の向こうで暮らす土地を見つけたのか、どこかへ寄って、さらに先へ進んだのか」
ポルフィラも海へ目を向けた。
飛んでも飛んでも終わらなかった青い水の上を、船で進んだ人たちがいた。
「私の村にも、皆さんと同じような髪や目の人がいるんです。父さんは、くすんだ緑色で。母さんも緑の髪なんです」
ガンの目がポルフィラの黒髪へ動いた。
「そうなのか」
「はい。だから、ここを歩いていても、知らない国なのに懐かしい感じがして……」
話しながら、ミレアが髪をまとめる姿を思い出した。
さっきメイを見たときにも、同じ仕草だと思ったのだった。
「……船で出ていった人たちが、私たちの国に着いたのかもしれませんね」
「そうかもしれんなあ……」
ガンはゆっくりうなずいた。
「言葉を持って海を渡って、向こうで子や孫に教えた。そう考えると、面白いなぁ」
確かなことは何も分からなかった。
それでも、故郷へ帰ったら話したいことが、また一つ増えた。
*
オブシディオンのそばでは、レンが自分の腕と竜の爪を見比べていた。
メイがその肩をつつき、何か言って笑っている。
ガンも笑いながら眺めていたが、ポルフィラへ向き直ると少し声を落とした。
「この先、島を見て回るつもりかね」
「はい。まだ、どこに何があるかも知らないけど」
「ここはリャン国の端だ。内陸へ行けば町がある。もっと先へ進めば、大きな都もあるよ」
ポルフィラは遠くの山々を見た。
まだまだ、自分の知らない暮らしが広がっている。
「ただ、その竜は目立つ。気をつけた方がいい」
ガンの言葉に、ポルフィラは顔を戻した。
「竜がいるのは、珍しくないんですよね?」
「飛んでいる姿を見ても、不思議には思わんよ。だが、あれほどの竜は別だ。今日も、こんなに人が集まっただろう」
ポルフィラは浜を見回した。
仕事へ戻った者もいるが、後から来た人たちがまた竜を見上げていた。
ガンは近くにいた老人へ目を向けた。
老人も笑みを引っ込め、小さくうなずく。
「ここの領主については、あまりよい話を聞かんのだ。珍しい品を持つ者が呼びつけられ、帰るときには手放すことになったとかね」
「取り上げられたんですか?」
ポルフィラが尋ねた。
「わしらがその場を見たわけではない。町へ魚を売りに行く者から聞く噂だよ。だが、似た話がいくつも耳に入る」
ガンは竜を見上げた。
「だから、村の者も用心している。皆が、見るだけで満足するとは限らんからね」
オブシディオンがいるから大丈夫。
そう答えかけて、ポルフィラは口を閉じた。
この国のことを、まだ何も知らない。
「……覚えておきます」
ガンはうなずき、立ち上がった。
「さて。いつまでも客を浜に立たせておくもんじゃないな」
*
日が傾くにつれ、海から吹く風が涼しくなった。
村人たちはポルフィラへ声をかけ、それぞれの家や仕事へ戻っていった。
メイがポルフィラの隣に並んだ。
「今夜はどうするの?」
「オブシディオンと休める場所を探そうと思って。降りた浜なら、誰の邪魔にもならないかな」
「外で寝るつもり?」
「小さな島でも、そうしてきたから」
メイはレンを見た。レンが当然のようにうなずく。
「うちに来ればいいよ」
「でも……私、この国のお金、持っていないの」
メイは一瞬きょとんとして、それから口角をさらに上げた。
「泊まり賃の話なんかしてないよ」
「親父も、まだ聞き足りない顔をしてるしな」
レンがガンを振り返ると、ガンは否定せずに笑った。
「竜は、あそこで休めそう?」
メイが指したのは、船を置く浜から離れた砂地だった。
波打ち際からも距離がある。
〈オブシディオン。私、二人の家に泊まってもいい?〉
〈お前がそうしたいなら〉
〈あなたは、ここで休める?〉
〈ああ。海へ出るにも都合がいい〉
ポルフィラはメイへうなずいた。
「ここで休むって。ありがとう。お世話になります」
「じゃあ、決まり。魚は食べられるね?」
「大好き」
「それなら困らないよ」
メイが先に家へ向かい、ガンもその後を追った。
ポルフィラはオブシディオンの鼻先へ手を当ててから、レンと一緒に歩き出した。
*
浜の端まで来たところで、レンが足を止めた。
「しまった。船に置いたままだ」
沖へ目を向け、近くの杭に結ばれた縄を確かめる。
その先には、浅い水に浮かぶ船が何艘か並んでいた。
「ちょっと待ってて」
言い終えるより先に、レンは一番近い船へ飛び乗った。
船が傾いたのに、足を踏み直す様子もない。
膝を柔らかく曲げ、その揺れに合わせて隣へ移る。
ポルフィラは思わず水際へ近づいた。
細い船の縁を二歩進んだレンが、次の船へ跳んだ。
片手で縄をつかみ、軽く体を振って足を下ろす。
そこでも止まらず、船底へ身をかがめた。
布の包みを拾い上げると、来たときと同じように船を渡って戻ってくる。
最後は縁を蹴り、ポルフィラの前の砂へ着地した。
「お待たせ」
「……今の、どうやったの?」
「何が?」
レンは包みを脇へ抱えた。
「船を渡っただけだろ」
「だけじゃないよ。あんな細いところを歩いて、揺れているのに飛び移って」
レンは船を振り返った。
「ああ。慣れればできるよ。メイもやるし」
「メイも?」
「俺より速いときもある」
ポルフィラはもう一度、船の間の水を見た。
オブシディオンの背に上がるとき、自分はいつも足を置く場所を確かめ、角をしっかり握っている。
レンなら、どんなふうに上がるのだろう。
「私にも、できるかな」
レンはポルフィラを見て、にっと笑った。
「やってみたいのか?」
ポルフィラはうなずいた。
包みを持ち直したレンが、家の方へ顎を向ける。
「じゃあ、明日な。今日は飯だ。メイに叱られる」
その足取りまで、さっきとは違って見えた。
ポルフィラは隣に追いつき、もう一度だけ、夕日に揺れる船を振り返った。




