第229話 海の向こうの村
海の向こうにも、また海があった。
村を出てから、いくつの小島で休んだだろう。
オブシディオンが降りられる場所を見つけるたびに翼を休め、ポルフィラも背を下りて足を伸ばした。
そうして飛び続けた先で、ようやく水平線に長い陸地が現れた。
〈今度は大きいね〉
島の奥には、高い山々が連なっていた。
海辺から眺めていた故郷の景色とは違う。
幾重にも重なる峰の向こうが、どうなっているのか見当もつかなかった。
オブシディオンが高度を上げた。
ポルフィラは角を握り、目を細めて陸を見渡した。
緑の中を細い線が走り、海沿いには小さなものがいくつも並んでいる。
〈家かな。人が住んでいるみたい〉
〈ここは通ったことがある〉
〈この島を?〉
〈ああ。高いところを飛んだだけだが〉
ポルフィラは、遠くの山から視線を戻した。
〈そのとき、人はいた?〉
〈いた。私の影が通ると、顔を上げていた〉
〈逃げなかったの?〉
〈逃げ惑ってはいなかったと思う。下りなかったから、詳しくは分からん〉
もう一度、海岸へ目を凝らした。
人が暮らしている。
オブシディオンが飛んでいても、逃げなかった人たちが。
〈行ってみたい〉
オブシディオンは翼を傾け、ゆっくり島へ近づいた。
*
岸に近づくと、浜に引き上げられた船が見えた。
その向こうには家々が並び、道を歩く人影もある。
ポルフィラは村から少し離れた浜を指さした。
〈あそこなら、人がいないよ〉
オブシディオンが砂の上へ降りると、長い尾のそばを小さな鳥が飛び去った。
ポルフィラは背から下り、固まっていた膝を伸ばした。
〈私、歩いて行ってみる。ここで待っていてくれる?〉
〈何かあれば呼べ〉
〈うん〉
波打ち際に沿って歩くと、潮の匂いに魚の匂いが混じり始める。
やがて、網を広げている若い男が見えた。
茶緑色の髪をうなじで束ね、上衣の袖を肘までまくっている。
裸足で網をまたいだ男は、ポルフィラに気づくと顔を上げた。
茶色の丸い目が、くりっと動いた。
「こんにちは」
ポルフィラが声をかけると、男も挨拶を返した。
聞き慣れない響きだった。
それでも、何と言ったのか分かる。
「……言葉、通じるの?」
「通じてるだろ?」
男は不思議そうに答え、それからポルフィラの顔をのぞき込んだ。
「あんた、どこの人だ? 妙な話し方だな」
「妙?」
「言ってることは分かる。でも、ここの言葉とはちょっと違う」
ポルフィラも同じことを感じていた。
言葉の終わりや、音の上がり下がりが違う。
少し考えないと分からない言い方もあるが、こうして話ができている。
「海の向こうから来たの。旅をしていて。ここは何ていう国なの?」
「ここは、華蓮帝国だけど…海の向こう?」
男は立ち上がり、沖を見た。
「船は?」
「船じゃないんだけど……」
ポルフィラが来た方を振り返ると、男もそちらへ目を向けた。
浜の先に黒い小山のようなものを見つけ、丸い目をさらに大きくする。
「…あれ……もしかして、竜か?」
「うん。一緒に旅をしているの」
男はしばらく浜の向こうを眺めていたが、やがて大きな口を開けて笑った。
少し丸い鼻の下に、八重歯がのぞく。
「そりゃ親父が喜ぶ。なあ、その話、聞かせてやってくれよ」
怖くないのかと尋ねる間もなく、男は網の端をまとめ始めた。
「俺はレン。あんたは?」
「ポルフィラ」
「ポルフィラか。こっちだ」
名前を口の中で確かめるように繰り返し、レンは村へ向かって歩き出した。
*
村の家々の軒先には、縄や籠が吊るされていた。
日に干した網の間を子供が駆け抜け、魚を運んでいた女がレンに声をかける。
「その子は?」
「海の向こうから来たんだってさ」
「まあ、よく来たねえ」
女はポルフィラへ笑いかけ、そのまま籠を抱えて通り過ぎた。
レンの横を歩く間にも、次々と声が飛んできた。
初めて見る旅人に、誰も遠慮がない。
広場に面した家の前で、若い女が桶を洗っていた。
深い緑の髪を編み、頭の後ろにまとめている。
こちらを向いた目は一重で、目尻がすっと吊り上がっていた。
一瞬、厳しそうな人だと思った。
けれど、口元は今にも笑い出しそうに上がっている。
「網を置いて、どこへ行ったのかと思ったら」
「客を連れてきたんだ。ポルフィラ。こっちはメイ、俺の嫁さん」
「こんにちは」
「まあ、いらっしゃい。レンに捕まったの?」
メイが言うと、レンは笑いながら家の中を呼んだ。
「親父、いるか?」
戸口から出てきた男を見て、ポルフィラは思わず二人を見比べた。
白髪交じりの茶緑色の髪に、日に焼けた顔。
目元には深いしわがあったが、丸い目も鼻も、大きな口もレンによく似ていた。
レンが年を取ったら、こんな顔になるのだろう。
「何だ、騒々しい」
「この子、海を越えて旅をしてきたんだってさ。話を聞きたいだろ?」
男の目がポルフィラへ向いた。
「そりゃ、ぜひ聞きたいね。わしはガン。この村の村長をしている」
「ポルフィラです」
頭を下げると、ガンは広場の木陰を指した。
「まあ、座りなさい。どこから来たんだね」
ポルフィラは故郷の国の名を告げ、海を渡ってきたことを話した。
ガンは首を傾げたが、知らない国の名だからと話を遮ることはなかった。
「そんな遠くから、どんな船で?」
「船じゃないんだよ、親父。竜だ」
レンが先に答えると、桶を置いたメイも振り返った。
「竜に乗ってきたの?」
「はい。村から離れた浜で待ってもらっています」
ガンは膝へ置きかけた手を止めた。
「それなら、ほかの者にも聞かせてやってくれんか。海の向こうの話など、そうそう聞けるものじゃない」
「みんな呼んでくる。ちょうど戻っている人も多いから」
メイが立つと、レンも近くの家へ声をかけた。
*
いつの間にか、木陰には人が増えていた。
仕事の途中らしい男も、子供を連れた女も、ポルフィラのそばへ腰を下ろした。
海は荒れなかったか、途中で何を食べたのか。
尋ねる声に答えていると、別のところから次の質問が飛んでくる。
みんな、レンやメイと同じような髪や瞳をしていた。
故郷の村でも見慣れた色が、この遠い島にもある。
不思議に思いながら話していると、ガンの隣に座った老人が言った。
「竜に乗る者を見るのは久しぶりだなあ」
ポルフィラは話しかけていた口を閉じた。
「見たことがあるんですか?」
「あるとも。若い頃にな」
隣の老女もうなずいた。
「昔は、この国にもいたんだよ」
驚いて、ポルフィラは二人を見た。
……この国にも、竜と一緒に生きていた人がいた?
その人たちを覚えている者が、今、目の前に座っている。
「竜は、今も来るんですか?」
ガンが山のある方へ顔を向けた。
「わしが最後に見たのは、十年ほど前かね。遥か高いところを、山の向こうへ飛んでいった。あれでは、人が乗っていたかまでは分からん」
「あんたの竜は浜にいるんだろう?」
老人が、待ち切れないように身を乗り出した。
「ぜひ、お前さんの竜を見せてくれんか」
周りからも賛成する声が上がった。
子供たちまで立ち上がる。
ポルフィラは家々を見回した。
広場には木も、人も、干してある物も多い。
「ここには降りられないけど、村の外なら。みんな、少し離れていてもらえますか?」
レンが、家並みの切れる方を指した。
「あっちの浜なら広い。こっち側にいれば、みんな見えるよ」
*
ポルフィラはレンと一緒に浜へ出て、降りられそうな場所を確かめた。
船も網もない。
村人たちはガンやメイとともに、その手前で足を止めた。
〈オブシディオン。こっちへ来てくれる?〉
〈話は済んだのか〉
〈みんなが、あなたに会いたいって〉
浜の向こうで、黒い翼が持ち上がった。
大きく羽ばたく音が、波音を越えて届いた。
砂を蹴って浮き上がった巨体が、海の上へ出る。
ひと巡りしてこちらへ向き直ると、広げた翼の下に青い空が狭く残った。
村人たちの話し声が途切れた。
オブシディオンが近づくにつれ、浜を滑る影が大きくなった。
陽光を受けた黒い鱗に、深い紫が浮かぶ。
長い首の先には鋭い角が伸び、腹の下へ引きつけた脚には、太い爪が並んでいた。
レンが口を開けたまま空を見上げている。
その横で、メイが風にほどけた髪を押さえた。
黒い翼が起き上がった。
空気を押す低い音とともに、風が浜を駆け抜けた。
服の裾が激しくはためき、砂が地面すれすれに走る。
ポルフィラは腕で顔をかばいながら、降りてくる姿を見守った。
太い脚が砂を踏んだ。
重い体を受け止めた足元が沈み、爪の脇から砂が押し出される。
続いて長い尾が下り、翼がゆっくりと畳まれた。
翼を閉じても、そこには家々を見越すほどの背があった。
重なった鱗が首の動きに沿ってずれ、胸が一度、大きく膨らむ。
鼻先から吐かれた息が砂を払った。
長い顎の隙間には白い牙がのぞき、黒い頭が村人たちの方へ向いた。
前にいた子供が、隣の大人の手を握った。
大人もそれを握り返し、黙って竜を見上げていた。
「……あんなに大きかったのか」
レンの声に、ポルフィラは振り返った。
「さっきは、遠かったから」
「遠かったって……」
その先を言えずにいるレンの横を抜け、ポルフィラはオブシディオンへ駆け寄った。
低く下げられた鼻先へ手を添える。
自分の手は、鱗一枚にさえ届かない。
「紹介するね。オブシディオン。私の大切な、一緒に旅をしている相手です」
老人がゆっくり近づいてきた。
ガンもその隣に立ったが、二人とも首を反らさなければ竜の顔が見えなかった。
「竜を間近に見るのは初めてだ……」
ガンの視線が、頭から肩へ、それから畳まれた翼へ動いた。
「こんな立派に育った竜に乗る者は、初めて見た」
隣にいた老人は両腕を広げかけ、すぐに下ろした。
「昔見た竜は、背はもっと低かった。人を乗せていたが、ここまでで大きくはなかったよ……」
老女も、自分が覚えている竜の大きさを話してくれた。
ポルフィラはその話を聞きながら、故郷で見た黒い天馬を思い浮かべた。
ここにいた竜達は、ノクスよりも小さかったのかもしれない……
隣にいるオブシディオンを見上げた。
遠い海の向こうで、竜に乗って暮らす人がいた。
けれど、その人たちの竜と彼は、ずいぶん違うらしかった。
オブシディオンが、わずかに首を傾けた。
その動きを追って、村人たちの顔も一斉に上を向いた。




