後日譚 10 土産話が始まらない
ポルフィラは、スープを一口飲んで動かなくなった。
ミレアの手が、パンを切る途中で止まる。
「どうしたの?」
娘はもう一口飲んだ。今度はゆっくり飲み込み、目を細めた。
「母さんの味だ」
ミレアは娘の顔を見て、それから、厚く切りすぎたパンへ目を落とした。
久しぶりなのだから、たくさん食べさせたい。
その気持ちが、包丁にも出ていたらしい。
ドランが横から覗いた。
「俺の分も、それくらい頼む」
「あなたは毎日食べているでしょう」
「毎日ありがたいと思ってるぞ。俺のパンも厚く切ってくれ」
ミレアは笑いながら、薄い方を夫の皿へ置いた。
庭の食事の席へ戻ると、ポルフィラは旅装のまま椅子へ腰掛けた。
青緑の上衣の裾を左右へ払い、黒い脚衣に包まれた長い脚をテーブルの下へ収める。
褐色の腕が伸び、パンを取った。
ドランはその腕を、つい目で追った。
娘の肩は、記憶よりしっかりしていた。
手首は細いが、物を持つと前腕の筋が浮く。
日に焼けた顔の中で、黒い瞳と笑ったときの歯が鮮やかだった。
ポルフィラが口を動かしながら父を見た。
「何?」
「いや。昔は俺が、おまえを抱えて運んでいたと思ってな」
「今でも運べるでしょう」
「運べるとも。ただ、今なら俺も運んでもらえるかと…」
ポルフィラはパンを置き、椅子を引いた。
「やってみる?」
ドランは慌てて両手を上げた。
「今じゃない。俺にも、担がれる心の支度がある」
レオンハルトは杯を口へ運びかけ、笑ってしまった。
長く伸びた濃い金髪が肩から滑り落ちる。
ゆるく波打つ髪を背へ払いながら、彼はようやく尋ねた。
「それで、最初はどちらへ向かったんだ?」
「海を越えてね――あ!」
ポルフィラが立ち上がった。
三人が顔を上げる。
「お土産、下ろしていなかった」
*
オブシディオンは、村外れの草地で休んでいた。
たたんだ翼の縁に、午後の日が当たっている。
大きな鱗の一枚一枚が黒から紫へ光を変え、ゆっくり膨らむ胴の下では、草が押し伏せられていた。
ポルフィラが近づくと、黒紫の目が開いた。
〈忘れていたのか〉
〈うん。ごめん〉
〈母の食事に夢中だったか〉
〈うん。おいしかった〉
竜はそれ以上何も言わず、長い首を地面へ寄せた。
ドランが荷車を引いて来たときには、娘はもう角のそばを通り、首の付け根へ上がっていた。
体を低くして鱗の間へ足を置く。
黒髪を背へ流し、ためらうことなく高い所へ登っていく姿に、ドランは荷車の柄を握り直した。
あの娘は、小さい頃から高い所へ登りたがった。
だが、叱るために追いかけられる高さでは、なくなってしまった。
頭上から声が降ってきた。
「父さん、下、空いてる?」
「空いてるぞ。おまえは飛び下りるなよ。父さんの腰は、昔のままじゃない」
「荷物を下ろすんだよ!」
長い縄の先に、大きな包みが下がってきた。
ドランが両腕で受け止め、荷車へ積む。
次は、細長い木箱だった。
その次は籠。
さらに、油を引いた布で何重にも包んだ丸い物。
ミレアが受け取った品を数え、レオンハルトが箱を並べ直した。
チェスは少し離れた所から、竜と荷物を交互に見ていた。
その脇で、護衛の一人が落ち着かない顔をした。
「陛下、そちらは私が」
レオンハルトは手元の箱を護衛へ渡した。
「では、これを頼む。底を持った方がよさそうだ」
差し出された箱を受け取ると、今度は上から籠が下りてきた。
もう一人が受け、二人とも両手がふさがる。
その間に、護衛するはずの王が次の包みへ手を伸ばしていた。
荷車のそばを通りかかった旅人が足を止めた。
護衛の装いを見て、腕まくりした男を見直す。
「……あちらで箱を運んでいるのは、国王陛下ですか?」
「そうですよ。ドランさんを訪問されておられるんです」
村人の返事に、旅人は帽子を取りかけたまま動かなくなった。
その目の前で、ドランが王へ声を掛けた。
「そっちは重いので、腰を落として持ってくださいよ」
ぎょっとして、護衛が箱から顔を上げた。
王に荷運びを手伝わせるなんて……
五つ、六つと下ろしたところで、ドランは上を向いた。
「まだあるのか?」
「あるよ」
大きな袋が、もう一つ下がってきた。
地上からは竜の背を見渡せない。
初めは旅に使った荷物を下ろしているのだと思ったが、荷車はすでに半分埋まっていた。
「ポルフィラ。おまえ、よその国で引っ越し屋を始めたのか?」
「お土産だってば。飛んでいるときに動かないように、小さく分けて結んであるの」
さらに下りてきた包みを受け、ドランは荷車を見た。
「よし。俺は、これを家まで運ぶために、明日から体を鍛えよう」
ミレアが夫の肘を軽く叩いた。
「今日、運んでちょうだい」
レオンハルトは荷車の空きを確かめた。
「一度では積みきれませんね。二度に分けて運びましょう」
上でポルフィラが振り返った。
背に敷いた厚い当て布の上に、まだ木箱が二つ残っている。翼の動きを妨げない位置へ、幾重もの縄で固定してあった。
オブシディオンの声が届いた。
〈反対側にもある〉
〈分かってる〉
〈今度は置いていくなよ〉
ポルフィラは下を覗いた。
「三度になるかも!」
ドランは荷車の柄へ額をつけた。
「娘が帰ってきた。嬉しい。嬉しいんだが、腕が先に泣きそうだ」
*
帰還の知らせは、荷下ろしより速く広がった。
宿屋で働く村人が町へ向かう荷馬車に言づけを頼み、ドランも友人たちの勤め先へ知らせを出した。
レオンハルトは護衛の一人に王都への伝言を託し、滞在を延ばせるよう手配した。
翌朝、最初に駆け込んできたのはリゼリアだった。
供を連れず、一人で天馬に乗ってきたのだ。
村外れへ下りると、出迎えた王の護衛に手綱を預けた。
「ごめんなさい。少しだけお願い」
護衛が返事をする間に、もう走り出していた。
白金色の巻き毛を弾ませ、庭へ入ってくるなり声を上げる。
「ポルフィラ!」
振り返った娘を見て、その足が止まった。
小柄なリゼリアは背の高い親族を、下から上まで見直した。
大きな灰青色の目が、日に焼けた顔、筋肉質な体つき、異国の服へと移る。
「……あなた、向こうで何をしてきたの?」
「いろいろ!」
答えたポルフィラの方から抱きついた。
リゼリアの両足が、一瞬地面から浮いた。
「待って! 今、私、持ち上がった!」
慌てて下ろしたポルフィラに、リゼリアは両手を腰へ当てた。
文句はたくさん用意していた。
こんなに長く帰らないなんて…
だが、目の前の黒い瞳が嬉しそうに自分を見ていると、どこから叱ればよいのか分からなくなった。
結局、もう一度自分から抱きついた。
「本当に、帰ってきたのね」
「うん。ただいま」
少しあとに着いたアドリアンも、供は連れていなかった。
自分の天馬をリゼリアの天馬のそばへ繋ぎ、足早に庭へ来た。
二人が離れるのを待ち、歩み寄ろうとして足が止まった。
記憶の中のポルフィラとは、ずいぶん違っていた。
日に焼けた肌に、青緑の異国の服がよく似合っている。
肩も腕もしっかりとして、リゼリアを抱き上げた動きには、彼の知らない力強さがあった。
アドリアンは、腕に掛けていた上着を握り直した。
帰ってきたら、まず何を話そうか。
ここへ来る間も考えていたのに、彼女を前にすると、その言葉が出てこない。
ポルフィラが彼に気づき、顔を輝かせた。
「アドリアン!」
駆け寄ってくる笑顔には、覚えがあった。
けれど、風に黒髪をなびかせて自分の前に立つ彼女は、思い描いていた姿より、ずっと眩しかった。
「……お帰り」
「ただいま。どうしたの?」
見つめすぎたと気づき、アドリアンは咳払いをした。
「驚いたんだ。ずいぶん、たくましくなったね」
「リゼリアにも言われた。そんなに違う?」
「ああ。旅先で、何をしてきたのかと思って」
「毎日、いろんなことをしたよ。ほら」
ポルフィラは袖を上げ、腕に力を入れて見せた。
アドリアンは笑いかけ、その腕に残る薄い傷跡に気づいた。
「怪我もしたのか」
「少しね。でも、もう治ってるよ」
「そうか。無事でよかった」
声にすると、ようやく安堵がこみ上げた。
旅立ってから、何度この声を聞きたいと思っただろう。
無事に帰ってくる、それだけでいいと思っていた。
だが、目の前で笑う彼女を見ていると、もっと話を聞きたいと思った。
知らない土地で何を見て、何に笑い、こんなふうに変わってきたのか。
できることなら、ずっと話していたい。
庭へ出てきたレオンハルトが、少し離れた所で足を止めた。
アドリアンは、来たときからずっと微笑んでいた。
いつもの近寄り難い雰囲気をまるで感じさせず、彼女が笑うたび、その表情がまた柔らかくなる。
レオンハルトは、彼がなぜ知らせを受けてすぐ飛んできたのか、ようやく分かった。
ポルフィラは、その眼差しに込められたものには気づかず、思い出したように言った。
「父さんと母さんのところへ来てくれていたんだってね。ありがとう」
「私の方が、ご両親に世話になっているよ」
留守の間もこの家を訪ねたのは、二人の顔を見たかったからだ。
「これからも来てね。父さんたち、喜ぶから」
「……ああ。また来る」
ポルフィラは安心したように笑った。
アドリアンは、彼女がまた旅立つつもりなのだと、気づいてしまった。
ドランが窓から顔を出した。
「アドリアンが来るとな、母さんが張り切って料理を作るんだ。俺までごちそうにありついてる」
ミレアの声が、家の中からした。
「あなたも、朝から張り切って仕事をしていたでしょう」
ドランは聞こえなかった顔で、窓を拭き始めた。
手に持っているのは、皿を拭く布だった。
庭の外では、宿の主人が三頭の天馬を見比べていた。
王が滞在しているだけでも、宿屋は大変な騒ぎになっていた。
そこへ、ほかの領主が二人も来た。
通りの旅人が、小声で尋ねた。
「国王陛下と領主様方が揃って、何か大事な話し合いでもあるんですか?」
宿の主人は首を振った。
「鍛冶屋の娘さんが、旅から帰ってきたんですよ。皆さん、会いにいらしたんです」
「それで、陛下まであの家に?」
主人が頷くと、旅人は、開いた戸口と立派な天馬を何度も見比べた。
*
昼を過ぎると、トーマの荷馬車が村へ入ってきた。
御者台からリナが身を乗り出し、庭にいるポルフィラを見つけた。
「いた!」
馬車が止まるのを待ちかねて下りる。
その後ろから、トーマも手綱を預けて走ってきた。
二人の顔を見た途端、今度はポルフィラが声を上げた。
「結婚したって、本当?」
リナは一瞬立ち止まり、隣を見た。
トーマが照れくさそうに笑う。
「本当だよ。おまえ、祝いに帰ってくるかと思っていたのに」
「知らなかったもの!」
ポルフィラは二人の手を取り、繋がせた。
顔を見比べるうち、自分までにやけてくる。
「そうなんだ。二人が。そっかあ!」
リナが赤くなった。
「そんなに眺めないでよ。あなたの方こそ、何、その腕!」
つかまれた腕へ、ポルフィラが力を入れる。
リナは指の下で硬くなった筋肉に目を丸くした。
セラは馬を預けると、鞄を肩へ掛けたままやってきた。
ポルフィラへ駆け寄りかけ、その服を見て足を緩める。
「ちょっと待って。その留め方、どうなってるの?」
斜めに並ぶ飾り結びへ手を伸ばし、それから、はっと顔を上げた。
「違う。先に、お帰り!」
「ただいま。これね、ここを外すの」
二人はすぐ服の話を始めた。
レオンハルトは隣のアドリアンへ声を落とした。
「私も昨日、帰ってきた彼女と、ろくに挨拶できなかったよ」
「……え?」
「チェスが先に駆け寄ってしまってね。私の話す番が来なかった」
アドリアンの口元が緩んだ。
シオンは仕事を終えてから来た。
手には、勤め先で分けてもらった傷薬の小さな包みがある。
ポルフィラはそれを受け取り、掌の中で大切そうに持った。
「ありがとう。怪我に効くから助かるわ」
シオンは、彼女の腕に残る傷跡を見た。
「旅の間も、また怪我したんだね」
「でも、ちゃんと治ってるでしょう?」
「うん。その薬は、次に怪我したときに使って。深い傷なら、薬だけで済ませないでよ」
シオンの念押しに、ポルフィラは素直に頷いた。
そこへ、最後の一人が来た。
ガルは勤務を終え、着替えを済ませて駆けつけたのだという。
歩く姿に以前より無駄がなく、ポルフィラは思わず背筋を伸ばしてみせた。
「兵士さんだ」
ガルは足を止めた。
褐色の肌と、しっかり筋肉のついた腕を見て、眉を上げる。
「おまえの方が、そう見えるぞ」
ポルフィラが笑い、ガルも笑った。
差し出された手を握る。
懐かしい手が、記憶より厚くなっていた。
ガルが、庭の奥へ目を向けた。
リゼリアとアドリアンは、この家を何度も訪ねている。
五人とも、二人の顔を見ても驚かなくなっていた。
いつものように挨拶しかけ、その隣にいる男を見て、ガルの踵が揃った。
「へ、陛下。ご挨拶が遅れました」
その声で、セラの手がポルフィラの服から離れた。
リナも慌てて姿勢を正し、トーマは帽子を握り直した。
シオンまで、空になった両手の置き場を探している。
「今はポルフィラの帰還を祝う私的な時間だ。だからどうか、そのままで」
レオンハルトは穏やかに言った。
五人は頷いたが、誰もすぐには動けなかった。
ポルフィラが振り返る。
「みんな、さっきまで普通に話してたのに」
リナが彼女の腕を引いた。
「王様がいるんだよ。私たちは、あなたみたいに気軽に話せないの」
声は小さかったが、レオンハルトには聞こえたらしい。
彼は笑いをこらえながら、少し離れた椅子へ腰を下ろした。
ようやく、五人の肩が下がる。
五人、全員いる。
ポルフィラは一人ずつ顔を見た。
村にいた頃より、みなさらに大人びている。
自分が知らない毎日を、みんなも過ごしていたのだ。
リナが肩へ腕を回してきた。
「何、急に黙ってるの」
「みんなに会えたなと思って」
リナの腕へ、少し力がこもった。
セラが反対側から寄り添い、トーマが、家から運び出されている包みの山を見た。
「……あれ、全部、おまえの荷物?」
ドランがすぐに振り向いた。
「みんな、あの包みを庭へ運ぶのを手伝ってくれ。娘の土産を運んで、もう腕が上がらん」
*
夕方には庭へ長いテーブルが二つ並び、ランプが吊るされた。
宿屋から借りた椅子に皆が腰掛け、ミレアの料理と、友人たちが持ってきた食べ物が並ぶ。
パンを焼いている天馬の民も、帰還祝いだと言って、大きな籠を届けてくれた。
道の向こうでは旅人たちが宿へ向かっている。
ただ、庭へ目を向けるたび、何事かと歩く速さが落ちた。
パンを届けた男も、レオンハルトに礼を言われると、籠を抱えたまま深く頭を下げた。
隣にアドリアンとリゼリアがいると気づき、もう一度下げる。
ミレアが籠を受け取るまで、なかなか顔を上げられなかった。
食卓でも、五人はまだ落ち着かなかった。
ガルは背筋を伸ばしたまま、膝に両手を置いている。
セラはパンを取ろうとして、向かいの王がまだ皿に手をつけていないことに気づき、そっと手を戻した。
レオンハルトはそれを見て、自分のパンを取った。
「冷める前にいただこう。私も、昨日から楽しみにしていたんだ」
五人がようやく食べ始めると、リナの隣でトーマが息をついた。
だが、次の瞬間には王から声が掛かった。
「水差しを、こちらへ回してもらえるかな」
「はいっ」
勢いよく立ち上がりかけ、膝をテーブルにぶつけた。
皿が鳴った。
「す、すみません」
「ありがとう。座ったままで届くよ」
トーマは両手で水差しを渡した。
ポルフィラも空の杯を持ち上げた。
「トーマ、私にも――」
リナが彼女の袖を引いた。
「自分で注いであげなよ。トーマは陛下に渡すだけで精いっぱいなんだから」
ポルフィラはトーマの赤い顔を見て、水差しへ手を伸ばした。
「ごめん。トーマの分も注ぐね」
セラが下を向いて笑った。
ガルの口元も、緩んだ。
庭の端では、護衛が交代で周囲と道へ目を配っていた。
その一人が食器を運ぶミレアに気づき、空いた手で盆を受け取る。
別の一人は、戻ってきたドランから土産の木箱を頼まれた。
そこへ、草地からチェスが顔を出した。
リゼリアの天馬とアドリアンの天馬まで首を伸ばし、パンの籠を見ていた。
「そちらへは、入らないで」
護衛が両腕を広げる。
チェスはその腕の上から庭を覗いた。
横をすり抜けようとする天馬へ向き直ると、今度は反対側から大きな鼻先が出てくる。
箱を運んでいた護衛が足を速めた。
まず箱を下ろさなければ、手綱も取れない。
「陛下。チェスをお呼びいただけますか」
「チェス、こっちへ――いや、来なくていい」
王が椅子ごと身を引いた。
護衛は慌てて、天馬と食卓の間へ入る。
リゼリアとアドリアンも席を立ち、それぞれの天馬を草地へ戻した。
「一人で来たのだから、世話も自分でするつもりだったのに。ごめんなさい」
リゼリアに言われ、護衛は少し乱れた襟を直した。
「いえ。どうか、お食事を」
そう答えた途端、チェスが王の方へまた首を伸ばした。
護衛は直したばかりの襟を気にする間もなく、そちらへ戻った。
みんな唖然として、その姿を目で追っている。
レオンハルトが気づいて苦笑する。
「私が休暇を取ると、彼らには災難だね…」
「……忙しそうです。別の意味で」
ガルが答えると、今度は五人とも笑った。
ポルフィラは、道を行く旅人や、忙しく働く宿の人々をしばらく見ていた。
「本当に、いろんな所からたくさんの人が来てるんだね…」
トーマが頷いた。
「前は、町まで行けたらすごいと思ってたのにな」
「今はもっと遠くまで荷物を運んでいるんでしょう?」
「仕事だからな。道を間違えると、喜んでいられないけど」
リナが隣で笑った。
「でも帰ってくると、見てきたものを全部話すの。荷物の勘定は、そのあと」
セラは新しい教科書のことを話した。
シオンは薬を作る仕事を、ガルは初めて親へ賃金を届けたときのことを話す。
ポルフィラは何度も頷き、ときには身を乗り出して尋ねた。
やがて、彼女はレオンハルトを静かに見つめた。
「私が旅をしている間も、みんなが平等に暮らせるように、国を変え続けてくれていたんだね。大変だったでしょう」
彼は杯を置いた。
「今も、大変だよ。決まりを変えただけでは、怖いと思う気持ちまでは、すぐに変わらないからね」
アドリアンが静かに頷いた。
リゼリアも、普段より少し真面目な顔をしている。
レオンハルトは、宿屋の明かりへ目を向けた。
「でも、こうして旅をする人がいる。ここで働こうと、よその領から来た人もいる。君が見たこの村の変化は、ほかの土地でも、少しずつ起きているんだ」
ポルフィラは、その横顔を見つめた。
「うん。帰ってきて、びっくりした」
言葉を探すように、一度口を閉じる。
そして、微笑んだ。
「……嬉しかった。すごく……本当にありがとう」
その一言で、レオンハルトは、彼女へ報告したかった数々のことを、今夜すべて並べなくてもよい気がした。
まず、この村を見てもらえた。
それだけで、十分に伝わったことがある。
彼の肩へ、濡れた鼻先が押しつけられた。
護衛から逃れたチェスだった。
ぐい、と鼻を擦りつけ、反対側へも動かす。
レオンハルトはゆっくり振り返った。
「……今、私で拭いたね?」
〈僕の鼻が濡れていた〉
「……私の服が、今そうなった」
ポルフィラが吹き出した。
真面目な話をしていた食卓が、また笑い声に包まれた。
アドリアンは、笑うポルフィラを見ていた。
できることなら、この夜を終わらせたくない……
ふと目を上げると、レオンハルトと視線が合った。
王はただ静かに微笑んでから、チェスへ向き直った。
アドリアンは、王は気づいているのだと思い、杯へ目を落とした。
「アドリアン、どうしたの? 疲れた?」
ポルフィラが顔を覗き込んできた。
彼は一度だけ息を整え、微笑んだ。
「いや。君の話を、もっと聞きたいと思っていたんだ」
「じゃあ、今日はたくさん話さないとね」
彼女は嬉しそうに、積み上げてある土産を指差した。
*
食事が落ち着くと、ポルフィラは包みを開き始めた。
ミレアには、薄くても丈夫な織物と、小さな蓋つきの容器。リナとトーマには二人で使える器を出し、包んでいた布まで広げて見せる。
セラには異国の文字が並ぶ薄い本と、旅先で覚えた文字を書きつけた紙を添えた。
シオンへは、乾かした香り草を、買った店と用途を説明して渡す。
ガルが受け取ったのは、細く編まれた丈夫な革紐だった。
引いても伸びず、結び目を作っても緩みにくい。
彼はその技術に感心した。
「レオンハルトとアドリアンとリゼリアにはね…」
ポルフィラが大きな包みを三つ取り出す。
旅先の話はなかなか始まりそうにない。
ドランを見た娘が、包みを持ってきて足元へ置いた。
鈍い音がする。
ドランは目を見開いた。
包みの中には、黒ずんだ金属の塊があった。
欠けた断面だけが、銀色とも青ともつかない光を返している。
ドランはしゃがみ込み、両手で持ち上げた。
腕へ、ずしりと重さが掛かる。
「父さんなら、何か作れるかなと思って」
ドランは娘を見た。
次に金属を見た。
もう一度、娘を見た。
「母さん」
ミレアが、すでに諦めた顔をした。
「何?」
「明日の朝、鍛冶場へ朝飯を――」
「家で食べてから行ってください」
ドランは金属を抱えたまま、娘の方へ体を寄せる。
「これを鍛えるところは見せてもらったか? どれくらい熱してから打つんだ?」
「見せてもらったよ。最初にね――」
「………待って」
レオンハルトが、とうとう手を上げた。
昨日から、旅の話を聞こうとしていた。
海を越えたことまでは聞いた。
その先へ、まだ一歩も進んでいない。
「……その鍛冶屋の話も聞きたいけれど、まずは旅の初めから頼む。私は昨日から、海を渡ったところまでしか聞けていないんだ」
ポルフィラは笑いながら頷いた。
「そうだったね。どこから話そうかな」
ドランは、抱えていた金属を慎重に足元へ下ろした。
椅子を引き寄せ、両膝へ手を置く。
「よし。今度は途中で口を挟まんぞ」
ミレアが夫を見た。
「覚えておいてね。今、そう言ったの」
リゼリアも椅子を寄せ、アドリアンはポルフィラの方へ向き直った。
ポルフィラは皆の顔を見回した。
母がいて、父がいる。
五人の友達と、久しぶりに顔を揃えた三人もいる。
チェスまで、テーブルの端から鼻先を突き出していた。
村外れでは、オブシディオンが草地へ顎を下ろした。
ポルフィラは心の中で呼び掛ける。
〈みんな、やっと旅の話を聞けるって〉
〈おまえが何度も脱線するからだ〉
〈お土産も渡したかったんだもの〉
彼女は小さく笑い、椅子へ座り直した。
異国の飾りが鳴り、日に焼けた頬へ庭の明かりが当たる。
「じゃあ、旅の初めから話すね」




