後日譚 9 ただいまと黒い翼
ミレアが料理を取り分けようとしたとき、チェスの耳が動いた。
レオンハルトの皿を覗き込んでいた顔が、すっと上がる。
口の端には、まだ草がついていた。
宿屋の前でも、旅人たちが空を見上げ始めていた。
これから産屋の地下へ案内される一団が、道の途中で足を止めている。
レオンハルトも空を見た。
青空の遠くに、黒い点があった。
鳥にしては、翼を打つ間が長い。
一度羽ばたくたび、体が大きく前へ進む。
その輪郭がはっきりするにつれ、彼は椅子から立ち上がった。
チェスが一歩、後ろへ下がった。
〈大きい〉
黒い点は、もう点ではなかった。
左右へ広がる翼が、空をゆっくりと押し分けていた。
強く打ち下ろされた次の瞬間には、竜は翼を伸ばしたまま滑り、長い尾がその後ろへ流れた。
首に沿って並ぶ硬い鱗が、日の光を細く跳ね返す。
黒一色に見えた巨体は、角度が変わると深い紫を帯び、また黒へ沈んだ。
竜は村の上を回り、翼を傾けた。
大きな影が畑を渡り、木々を越えてくる。
地上から見上げる二本の角は、空に刻まれた黒い刃のようだった。
オブシディオン。
「……竜だ」
道で、誰かが言った。
一人が宿屋へ走り込み、休んでいた旅人たちが戸口へ顔を出す。
自由をもたらした竜の話を聞くために来た村へ、その竜が本当に帰ってきたのだ。
レオンハルトが何か言うより先に、隣で椅子が倒れた。
ドランは、もう走り出していた。
ミレアは皿を置いたまま、動かない。
レオンハルトが彼女を見ると、穏やかな緑の目が、空を追って大きく開かれていた。
唇が震え、前掛けを握る指へ力がこもる。
やがて、ミレアも歩き出した。
最初の数歩はゆっくりで、そのあと、ドランを追う足が速くなり、最後は走り出した。
レオンハルトの背へ、重いものが押しつけられた。
チェスだった。
首を高く上げ、彼を盾にするように体を寄せている。
〈来る?〉
レオンハルトは押されながら、首へ手を伸ばした。
「大丈夫。あれは、私の知っている竜だ」
〈父さんより、大きい……僕を隠して…〉
隠れる場所として頼りないと、気づいたらしい。
レオンハルトはチェスの胸へ押され、一歩前へ出た。
「それは、どうにもできないんだ…」
*
村外れの草地へ、竜が下りた。
増えた家々や宿屋からは十分に離れた、昔からの空き地だった。
後脚が地面を捉え、大きく広がった翼が最後の風を受け止める。
草がいっせいに伏せ、木々の葉が裏返った。
竜が身を低くすると、翼の先の爪が地へ触れた。
長い尾がゆるく曲がり、その巨体がようやく静まる。
ただ、そこにいるだけで、辺りの景色が違って見えた。
木も人も小さくなり、黒い鱗の重なりと、呼吸する喉の動きばかりが目に入る。
その頭が、ゆっくりと下がった。
角の根元から、一人の娘が下りてきた。
ドランは、足を止めた。
娘が下りてくるのは分かっていた。
それなのに、目の前の姿を、記憶の中のポルフィラへ重ねられなかった。
日に焼けた肌。
短い袖から出た肩と二の腕には、はっきりと筋肉の起伏がある。
腰は引き締まり、深く割れた裾の下で、黒い脚衣に包まれた脚が力強く地を踏んだ。
竜の頭から下りる段差を、彼女は身軽に跳んだ。
片脚で着地し、わずかに膝を曲げただけで体を支える。
そのまま迷いなく立ち上がる動きは、岩場を駆ける獣のようだった。
ミレアも、ドランの隣で立ち止まった。
艶やかな黒髪は、変わらず背へまっすぐ流れている。
だが、その下の顔は旅立ったときより精悍に引き締まり、褐色の顔の中で、黒目がちな大きな瞳が鮮やかだった。
弓なりの黒い眉、すっと通った鼻筋、口角の上がった形のよい唇。
見覚えのある一つ一つを確かめて、ようやく自分たちの娘だと思えた。
きれいになった、というだけではなかった。
強い日差しと風をまとい、知らない土地を自分の力で渡ってきた、野性味のある美しさだった。
服も、この国のものではない。
生成りの下衣へ長衣を重ねるミレアや、帯を締めたチュニック姿の村人たちの中で、娘の旅装はひときわ目を引いた。
青緑の上衣は、小さな立ち襟から右の胸へ斜めに合わされ、赤銅色の縁取りに沿って、紐の飾り結びが並んでいた。
胴に沿う仕立てで、膝下までの裾は両脇から太腿近くまで深く開いている。
その下には、腰から足首まで脚にぴったり沿う黒い脚衣。
短い革靴はよく履き込まれ、腰の臙脂色の飾り紐に、小さな金属片が幾つも揺れていた。
娘は両親を見つけた。
大きな目が明るくなり、光を受けた黒い瞳の中に深い紫が覗く。
「……ポルフィラ?」
ミレアの口から、確かめるような声が漏れた。
旅立ってから、約二年八ヶ月。
帰ってきた娘は、両親が一瞬名を呼ぶのをためらうほど変わっていた。
その顔が、次の瞬間、くしゃりと笑った。
「ただいま!」
駆け出した娘を、ミレアが抱き締めた。
深く割れた上衣の裾が後ろへひるがえり、腰の飾りが一度、大きく鳴った。
ポルフィラも母の背へ腕を回す。
何か言おうとして顔を上げたが、母の顔を見た途端、自分の目からも涙がこぼれた。
「母さん。帰ってきたよ」
ミレアは頷いた。
声を出せず、娘の頬へ手を添え、もう一度抱き寄せる。
ドランはその横で、腕を上げかけたまま立っていた。
いつもなら誰より先に口が動くのに、喉の奥で言葉がつかえ、何も出てこない。
ポルフィラが母の肩越しに手を伸ばした。
「父さんも」
ドランの顔が歪んだ。
大きな腕が二人をまとめて抱き寄せた。
異国の布の匂いに混じって、娘の懐かしい匂いがした。
しばらくして、ようやく声が出た。
「おまえ、帰ってきたなら、先にそう言え」
ポルフィラは涙のついた顔を上げた。
「言ったよ。ただいまって」
「……そうだったな」
ドランが笑った。
涙声のまま、いつもの大きな声で笑い、もう一度娘の背を叩いた。
*
少し離れた所で、レオンハルトは立ち止まっていた。
三人が抱き合っている。
ミレアの指は、何度も娘の髪や肩へ触れていた。
ドランは笑っているのに、なかなか腕を離さない。
声を掛けるのは、もう少しあとでよい。
そう思って待っていると、背中から鼻先が出てきた。
〈あの大きいの、こっち見てる…〉
オブシディオンは首を低くし、こちらを見ていた。
黒紫の大きな目の下で、鼻から吐かれた息が草を揺らす。
チェスは、さっと首を引っ込めた。
体は相変わらず、レオンハルトから大きくはみ出している。
ポルフィラがこちらに気づき、目を見開く。
「…………うそ……レオンハルト……なの?……やっぱりそうだ!ただいま!」
彼は背筋を伸ばした。
「お帰り。長い旅だったね。元気にして――」
「何、この子!」
彼女の目は、もう彼の後ろへ移っていた。
両親の腕を抜けて近づき、チェスの顔を見上げている。
「黒と白? 天馬だよね。まだ子供?」
レオンハルトは、言いかけた挨拶を口の中へ戻した。
長い不在の末の思いがけない再会に、彼は感極まりながらも、きちんと帰郷を喜ぶ挨拶をしたかった……
それが彼女の方は、昨日ちょっと隣の村へ出掛けて帰ってきたかのような顔で「ただいま」と言っただけで、もう天馬を見ている。
彼女の見た目は、ずいぶん変わった。
でも面白いものを見つけて、そちらに夢中になってしまう所だけは、そのままだった。
「ああ。チェスというんだ。私と繋がった天馬だよ」
彼女の足が、そこで止まった。
もう一度レオンハルトを見た顔には、今度は、はっきりとした喜びがあった。
「繋がれたんだ。よかったね!」
その心から喜んでくれている声が、レオンハルトの胸に響いた。
その後で、彼女に話したかったことが幾つも浮かんだ。
彼女が旅立つ前に約束した、その後の国の事を聞いて欲しい…
そう思いながら、ポルフィラの言葉に返事をした。
「君が帰ったら、紹介したいと思っていたんだ」
ポルフィラはレオンハルトを見ずに、チェスへ顔を向けていた。
「こんにちは、チェス」
レオンハルトは呆れて彼女を見た。
「………私への挨拶は、もう終わりかい?」
ポルフィラはレオンハルトを見て微笑んだ。
「ただいまって、言ったよ?」
悪びれない顔だった。
ドランが横で吹き出し、レオンハルトは額へ手を当てた。
「……ああ。確かに、聞いたね…」
チェスは、彼女の後ろを見ていた。
竜が動いていないか、確かめているらしい。
ポルフィラを見てから、レオンハルトへ心細い声が届いた。
〈この子、あそこから飛び下りてきた…〉
「そうだね」
〈食べられそうだったの?〉
レオンハルトは、答える前に一度息を吸った。
その様子を見て、ポルフィラは面白そうに彼の顔を覗き込んだ。
「何て?」
彼は少し迷い、そのまま伝えた。
ポルフィラはチェスを見て、それから竜を見た。
「オブシディオンから逃げて来たと思ったんだ」
彼女の笑い声に、ドランもこちらへ来た。
「何だ。もう面白いことがあったのか?」
チェスはレオンハルトの肩越しに、ポルフィラとドランを見て、もう一度尋ねた。
〈この子、ここにいて大丈夫?あの大きいの追いかけてこない?〉
レオンハルトは笑いをこらえ、頷いた。
「大丈夫。彼女と、あの竜は友達だ」
ポルフィラは、その言葉を聞いて柔らかく笑った。
頬へ一筋かかった涙を拭い、竜へ顔を向ける。
〈オブシディオン。レオンハルトの天馬だって。まだ子供なんだね〉
竜の目が、黒白の仔へ向いた。
〈変わった色だ〉
〈触ってみたいけど、今は怖がっているから〉
〈私をか?〉
ポルフィラは竜を見上げた。
〈……うん。少し〉
レオンハルトの後ろで、チェスがさらに後退した。
少し、ではなさそうだった。
*
家へ戻ることにすると、ポルフィラは竜の鼻先まで駆けていった。
脇に切れ込みの入った青緑の裾が風をはらみ、黒い脚衣に包まれた脚が軽やかに動く。
腰では赤銅色の飾りが鳴っていた。
黒い体へ置かれた手は、その巨体と比べると、ひどく小さかった。
彼女が額を寄せると、竜は目を細めた。
村人たちが、その姿を見守っていた。
あの竜を、娘は少しも怖がらない。
そのことに慣れていた者たちも、こうして改めて見ると、声をひそめずにはいられなかった。
ポルフィラは、しばらくそこで話してから戻ってきた。
「ここで休んで待っているって」
それから、ようやく村の方へ目を向けた。
見覚えのない大きな屋根が、家々の向こうに立っている。
道には知らない顔が並び、一人の旅人が、胸の前で両手を握り締めて彼女を見ていた。
「……あれ、うちの村、こんなに大きかった?」
ミレアが頷いた。
「宿屋を作ったの。泊まりに来る方も、ここで働く方も増えてね」
「宿屋?」
ポルフィラは大きな建物と、人々を見比べた。
ドランがそちらを指した。
「おまえと竜の話を聞きに来るんだ。産屋の地下を見て、それから、うちへ来る」
「うちに、何があるの?」
「俺がいる」
ドランが胸を張った。
ポルフィラは父を見た。
少し考え、肩を震わせ始めた。
「……父さんを見に来るの?」
「おまえの父親が、どんな男か見たいらしい。俺も、もう少し立派な顔で槌を振った方がよいかと、初めは悩んだぞ」
ポルフィラが笑いだした。
それを見て道にいた村人たちも、ようやく懐かしい娘が帰ってきたのだと実感した。
宿で案内をしていた村人が、旅人たちへそっと声を掛けた。
今日は家族の再会の時間だから、話はまたあとで。
人々は名残惜しそうに娘と竜を見てから、宿の方へ戻っていった。
ドランは娘の荷物を受け取ろうと手を伸ばした。
そこで、袖口の模様へ目が留まった。
「それは、向こうの服か」
「そう。暑い所で買ったの。布が軽くて、乾くのも早くてね。ほら、ここ、縫ってあるんじゃなくて、織るときに模様を――」
さっきまで泣いていたのが嘘のように、言葉が次々に出てきた。
ミレアは刺繍のように見える模様を指でなぞり、娘へ微笑んだ。
「よく似合っているわ」
ポルフィラは嬉しそうに一回りした。
体に沿う上衣の裾だけが左右へひらりと開き、腰の飾りが、しゃらりと鳴った。
チェスの耳が立った。
レオンハルトは、その目の向いた先を見た。
「ポルフィラ。その飾り、少し押さえていてくれるか?」
「これ?」
彼女が一枚つまみ上げる。
小さな金属片が光った。
チェスが、レオンハルトの後ろから一歩出た。
〈あれ、光った…〉
恐怖より、好奇心が勝ちかけている。
レオンハルトが首へ手を置いたが、ポルフィラは目を輝かせた。
「気になる? 音もするんだよ」
「見せるだけにしてくれ。チェスが――」
言い終える前に、チェスが鼻先を伸ばした。
ポルフィラは飾りを引き、チェスはもう一歩進む。
彼女が横へ動くと、仔もついていく。
ドランは、嬉しそうに両手を打った。
「おお、よかったな。遊んでくれる人が増えたぞ」
レオンハルトは、ドランを見た。
「私が、止める方になるだけではありませんか」
ポルフィラが笑った。
「大丈夫。取られないようにするから」
チェスの鼻先が、彼女の腰へ届いた。
彼女はひょいと身をひねり、上衣の裾を押さえて横へ跳んだ。
引き締まった脚が軽く地を蹴り、日に焼けた腕が、鳴る飾りを素早く引き上げる。
大きな天馬を相手に、驚く程の軽やかな身のこなしだった。
チェスは、彼女の動きが面白いらしく、もう竜を気にしていなかった。
ドランがレオンハルトの肩を、ぽんと叩いた。
「娘はしばらく、ああやって遊んでますよ」
心得たような顔だった。
レオンハルトは、ようやく分かった。
娘が何でも面白がって飛び込んでいくのは、旅で身につけたものではない。
目の前に、同じように目を細め、何でも楽しもうと笑っている父親がいる。
*
家へ向かう道でも、ポルフィラの話は止まらなかった。
新しい家の前で立ち止まり、畑にいた見知らぬ天馬の民へも挨拶する。
宿で働きたくて他領から来たという若者に話しかけられると、今度はその人の故郷について尋ね始めた。
レオンハルトは、久しぶりの帰郷を迎えた娘が村の変化を受け止めるまで、少しは静かに歩くかと思っていた。
だが、そんな心配は必要なかったようだ。
村への公式訪問を終えた後に、ドラン達と久しぶりにゆっくり語らうつもりだった…
だが今は、右でポルフィラが異国の食べ物を説明し、左でチェスが、腰の飾りは食べられるのかと尋ねている……
「甘いのに、塩も入っていてねーー」
ポルフィラが両手で何かの形を作った。
〈ーー食べられる?〉
チェスはまだ、飾りを見ている。
「それは食べられない」
レオンハルトが答えると、ポルフィラが驚いた。
「食べられるよ。ちゃんと食べてきたもの」
ドランが立ち止まった。
二人を見て、肩を震わせ始める。
レオンハルトは片手を上げた。
「いや、君ではなく、チェスに」
ポルフィラも仔を見た。
それから自分の飾りへ目を落とし、ようやく気づいた。
「ああ、そっち!」
笑い声が重なった。
ミレアは目尻を拭き、ドランは娘の荷物を持ったまま笑いすぎて、しばらく歩けなくなった。
遠くで、オブシディオンが頭を上げた。
村へ響く笑い声を聞き、道の向こうへ顔を向ける。
黒い翼をわずかに動かすと、午後の光が鱗の縁を紫に照らした。
ポルフィラは振り返り、彼へ大きく手を振った。
〈帰ってきたね〉
〈ああ〉
短い返事を聞いて、彼女はまた前を向いた。
父と母がいる。久しぶりの友人がいて、新しく知り合った天馬がいる。
そしてミレアの腕へ自分の腕を絡めて言った。
「母さん。お腹、空いた」
ミレアが笑って頷くより先に、ドランが大きく胸を張った。
「よし。今日は、お客様の分もたっぷり――」
そこで村外れの竜を見た。
少し考え、娘へ顔を戻す。
「……あっちは、食べてきたんだろうな?」
レオンハルトは思わず、チェスの首へ手を回した。
ポルフィラだけが、明るく頷いた。
「うん。大丈夫!」




