後日譚 8王様と仔馬の里帰り
黒白の仔馬は、チェスと名づけられた。
村へ向かう朝、レオンハルトはチェスに三度、同じことを確かめた。
「チェス。今日は、訪ねていく家がある。とても大切な人たちのところなんだ。だから勝手に離れないで、一緒にいてくれるね」
チェスは鞍を載せてもらいながら、素直に頷いた。
白い胴へ大きな黒い斑が広がり、首から肩にも黒い模様が続いている。
まだ短いたてがみはところどころ立ち、長い脚の上に載った体には、幼さが残っていた。
〈一緒にいる〉
返事に、嘘はない。
ただ、この仔の考える「一緒」と、人間の考えるそれが、いつも同じとは限らなかった。
生まれて半年を過ぎ、乳離れをした。
自分で草を食べて暮らせるようになる頃には、人を乗せて飛ぶ力もついていた。
出会ったときより体は一回り大きくなり、レオンハルトが背に乗っても、軽々と空へ上がる。
天馬の体が育ちきるのは、五歳ほどだという。
だが、気持ちや振る舞いまで成熟するのは、十歳頃になるらしい。
その違いを、レオンハルトは日々思い知らされていた。
レオンハルトは後ろで束ねた濃い金髪を、襟の外へ出した。母譲りのゆるい癖が、結んだ先でも柔らかく波打っている。整った顔立ちには王子然とした品があったが、今朝はその目が、もっぱらチェスの口元を追っていた。
鞍の留め具を確かめるため、世話係が横へ回った。
その腰から下がる布へ、チェスの鼻先が伸びる。
「それは、食べない」
レオンハルトが言うと、チェスは唇を閉じた。
世話係が布を外し、手の届かない所へ置くと、今度はそれを目で追っている。
彼は息を吐き、首を撫でた。
「村でも、それを覚えていてくれ」
*
飛行は、順調だった。
黒白の翼が左右へ広がり、風を捉える。
肩の動きが鞍へ伝わるたび、レオンハルトも体を合わせた。
〈揺れた?〉
少し風が変わったところで、声が届いた。
「大丈夫。そのままでいい」
嬉しそうに耳が動いた。
レオンハルトは手綱を支え、下に広がる畑を眺めた。
ずっと、来たかった。
アドリアンやリゼリアから村の話を聞くたび、自分もドランたちと、食事をしてみたいと思っていた。
今回は前もって訪問を知らせ、城の仕事も調整した。
護衛たちは先に村へ入り、迎える側の負担にならないよう、人数も絞っている。
王として話すべきことはある。
それでも、そのあとのひとときくらいは、少し気を緩めてもよいのではないか。
村が見えてくると、レオンハルトは鞍の上で少し身を起こした。
報告には、家が増えたとあった。
空から見れば、それが小さな変化ではないことが分かった。
畑の縁に新しい屋根が並び、道には荷車が行き来している。村の入口近くには、ほかの家よりずっと大きな、二階建ての建物があった。
村人たちが力を合わせて建てた宿屋だった。
暮らしに少し余裕の出た竜の民が、自分の領地の外を旅するようになった。
その中で、自由のために戦った竜と、その背に乗る天馬の民の娘が育ったこの村を、訪ねたいという人々が増えたのだ。
一度は、自分の足であの場所を歩いてみたい。
そう願って来る者が大勢いた。
人によっては、聖地を訪れるような思いなのだろう。
ポルフィラが旅立ってから、約二年八か月。
彼女の知らない屋根が、村には幾つも増えていた。
チェスが首を少し下げた。
〈あそこ?〉
「ああ。広場の外へ下りよう。人のいない所だ」
前もって空けてもらった草地には、護衛が待っていた。
通りかかった旅人が二人、空を見上げている。
遠くの竜の話を聞きに来て、本物の天馬まで見ることになるとは、思わなかっただろう。
指示した場所へ向かい、翼を広げて速度を落とす。
着地も、うまくいった。
レオンハルトが地面へ下りるまでは。
*
「陛下。ようこそおいでくださいました」
迎えに出たドランが、頭を下げた。
大柄な体に広い肩、袖をまくった腕には、槌を振るってきた太い筋肉がついている。
くすんだ緑色の髪を整え、今日は鍛冶の前掛けも外していた。
同じ緑を帯びた瞳には、客を待ちかねていた陽気な光が隠せない。
隣に立つミレアは、夫とは対照的に細身だった。
長い緑髪を後ろでまとめ、頬へ落ちた一筋を耳へ掛けている。
穏やかな緑の目を細めた微笑みを向けられると、レオンハルトも自然に肩の力が抜けた。
村長と、その後ろに集まった村人たちも、二人を迎えて頭を下げた。
レオンハルトも姿勢を正した。
「今日は、時間を取っていただき――」
背中を、ぐいっと押された。
思わず前へよろめき、続けるはずの言葉が途切れた。
チェスが、彼の頭の上から顔を出していた。
ドランを見て、耳を前へ向ける。
〈この人?〉
レオンハルトは小声で答えた。
「そうだ。でも、今は挨拶を」
チェスはレオンハルト越しに鼻先を伸ばした。
ドランの胸元を嗅ぎ、服へ残った鍛冶場の匂いが気になったのか、さらに顔を近づける。
「おお。こっちも、挨拶に来たのか」
ドランが笑うと、チェスは鼻面を彼の胸へ押しつけた。
逞しい体が、半歩だけ後ろへ動いた。
護衛が前へ出かけたが、ドランは手を上げて止めた。
「大丈夫です。服は洗ってきましたから、今は鍛冶屋の匂いが少しするだけで」
チェスがもう一度、鼻を寄せた。
ドランはわざと胸を張り、品定めを受けるように顎を上げた。
「どうだ。お客に出しても恥ずかしくない匂いか」
ミレアが夫の背へ手を当てた。
「あなた、場をわきまえて…」
村人たちから笑いが漏れた。
レオンハルトも唇を緩めたが、チェスは真剣にドランの服を嗅いでいた。
レオンハルトはチェスの首へ手を置いた。
「チェスといいます。申し訳ありません。まだ、子供なので」
ドランはチェスを見上げ、それから王を見た。
「これで、まだ子供ですか」
「はい。体の成長だけでも、あと何年かは」
ドランはチェスの背を見上げ、自分の頭の上に手をかざした。
「まだ大きくなるのか。次に来る頃には、挨拶に梯子が要りますな」
「そこまで急には……」
レオンハルトが答えかけると、ドランは自分の首を叩いた。
「先に、首を上へ向ける稽古をしておきます」
ミレアが笑いながら夫の袖を引いた。
細い手で引かれても、ドランの大きな体はほとんど動かなかったが、その顔だけは素直に妻へ向いた。
「あなた。陛下を、いつまで広場へ立たせておくの」
レオンハルトは気を取り直し、頭を下げた。
「今日は、どうか普段どおりに。皆さんの暮らしを、聞かせていただければ」
隣でチェスが、ドランの袖口を唇でつまんだ。
ドランは通りでこちらを見ている旅人たちへ、片手を上げた。
「今日の見学は遠慮してくれ。俺は、大切なお客様を迎えているところだ」
一人が遠慮がちに尋ねた。
「では、あなたがポルフィラさんのお父様で……」
ドランは自分の胸へ親指を向けた。
「本人だ。今日は天馬に、服の味を確かめられている」
旅人たちが笑った。
レオンハルトへ少し困ったように微笑んだ。
ミレアが夫の乱れた服を整え言った。
「うちの家まで見学に来る人も多いんです…」
*
家へ向かう途中、宿屋の前を通った。
戸口では、村の女が旅人へ部屋の鍵を渡していた。
食堂からは焼いたパンの匂いがし、荷を運ぶ若者が、ドランへ会釈して通り過ぎる。
ミレアが小声で教えた。
「あの人は、別の領地から来て、ここで働いているんですよ」
もとから村にいた者も、生産を続ける者と、宿で料理や掃除、客の案内をする者に分かれていった。
畑や果樹園には、作物を育てる仕事をしてみたいという天馬の民も移り住んできた。
入口の板には、竜の民の解放に繋がった産屋とその地下の見学時刻が書かれていた。
「始まりの産屋の補修も、済んだのですね」
レオンハルトが尋ねると、村長が頷いた。
「はい。壁と屋根を直し、地下へ下りる階段も安全に通れるようにしました。案内をつけて、人数を区切って見てもらっています。『始まりの産屋』なんて名前までついちまって……」
石板に残る記録を、自分の目で確かめたいという者は多かった。
かつて隠していた場所へ、今は旅してきた人々を案内している。
レオンハルトは見学の時刻を待つ一団を眺め、しばらく何も言わなかった。
ドランが、その肩越しに案内板を覗いた。
「産屋と石板の次は、うちです。ついでに俺も見られる」
「お困りではありませんか」
レオンハルトが尋ねると、ドランは大げさに頷いた。
「最初は、鎌を打っていても、水を飲んでいても、あちらが父親ですと言われましてな。俺は一日中、父親の顔をしておらねばならんのかと…」
ミレアがあきれたように笑った。
今は、鍛冶場の見学は仕事を妨げない所から。
家の中へは勝手に入らないこと。
宿の案内役も、客へそう伝えてくれる。
「慣れましたよ。どこから来たか聞くのも、面白い。俺が行ったこともない土地から、ここへ来てくれるんですから」
ドランは宿の入口へ、また手を振った。
「ただ、朝飯を食っている顔まで見に来られるのは、勘弁してもらいました。俺も、口へ物を入れたまま愛想よくできませんからな」
レオンハルトは笑い、それから家の方へ目を向けた。
この戸口へポルフィラが帰ってくるのを、二人は待っているのだろう。
鞍を外してもらう間、チェスはじっとしていた。
だが、レオンハルトが家へ向かって歩き出すと、すぐにあとを追った。
ドランの家の戸口には、入れなかった。
顔を差し入れたところで耳が上枠へ近づき、両肩が左右の柱につかえそうになる。
チェスは、一度顔を引いた。
首を斜めにして、もう一度試した。
レオンハルトは慌てて戻った。
「無理だよ。君には、狭すぎる」
〈君は入った〉
「私は、君より小さい」
チェスは彼の肩から足元までを眺めた。
納得できないのか、戸口の向こうへ鼻を伸ばす。
ドランは戸口の横へ立ち、自分の肩と柱の間を見比べた。
「すまんな、チェス。うちを建てたときは、翼のある客まで来るとは思わなくてな」
チェスがもう一度、顔を斜めにした。
ドランも同じ方へ首を傾け、真似をした。仔が反対へ傾けると、彼も反対へ傾く。
すぐそばで見ていたミレアが、笑いながら窓を指した。
ドランは大きく頷き、そちらへ回った。
「おお、こっちなら顔が入るぞ。顔だけのお客は初めてだが、どうぞ」
窓を開け、内側から恭しく手を差し出した。
チェスはすぐにそちらへ回った。
窓から顔を出し、部屋の中を見渡す。
ミレアが食器を運べば、その動きを追って首が動いた。
レオンハルトが椅子へ座ると、ぴたりと目が合った。
チェスは、満足そうに鼻を鳴らした。
〈いた〉
「ずっと、ここにいるよ」
ようやく落ち着いた。
レオンハルトが息をついたとき、ミレアが窓辺のパン籠へ目を向けた。
次の瞬間、素早く籠を抱き上げる。
チェスの唇が、籠のあった場所を空振りした。
「こちらも、届かない所へ置きましょうね」
ミレアは動じず、奥へ運んでいった。
チェスは鼻先を窓枠へ載せ、パンの行方を惜しそうに見ている。
レオンハルトは、もう一度立ち上がった。
「外で、話を伺いましょうか」
ドランは窓から覗く顔を見て、真面目くさって頷いた。
「それがよさそうです。窓の顔にパンを取られたら、たまりません」
ミレアがパン籠を抱えて笑った。
レオンハルトもとうとう声を立てて笑い、チェスは皆の顔を順に見て、嬉しそうに耳を動かした。
*
庭に椅子を出すと、チェスはようやく安心した。
レオンハルトのすぐ横で草を食べ始める。
ミレアが運んできた飲み物を受け取り、彼も腰を下ろした。
村長から、宿で働く者と生産を担う者の間で、仕事を相談している話を聞いた。
旅人が増えれば食材も要る。
畑の忙しい時期には、宿の者が手伝いに行くこともあるという。
ドランからは、宿からの仕事も増え、町の職人とも仕事の取引をするようになったことを聞いた。
二つの民の間に、戸惑いは残っている。
それでも、暮らしを共にしていく中で、以前は話しもしなかった相手と取引をするようになっていた。
レオンハルトは、顔を上げて話を聞いた。
書面では分からなかった声の調子や、皆の表情が見える。
城を出てよかったと、心から思った。
「ドランさんの仕事も、増えたんですね」
「おかげさまで…」
話しているドランの肩へ、チェスの鼻先が伸びた。
草を食べ終えたのかと思ったが、その唇が狙ったのは、肩に掛けていた手拭いだった。
ミレアが気づいたときには、もうチェスの口にくわえられていた。
ドランが振り返る。
手拭いが、するすると肩から抜けた。
〈取れた〉
チェスが嬉しそうに顔を上げた。
レオンハルトは杯を置き、すぐに立ち上がった。
「チェス、返そう。それはドランさんのものだ」
彼が一歩近づくと、チェスは一歩下がった。
手拭いが揺れた。
面白くなったらしく、仔は首を振り、今度は横へ跳ねた。
「…大人しくして」
言ったときには、もう黒白の体が庭を駆けていた。
畑へ入らないよう回り込んだ護衛の横を抜け、椅子の置かれていない方へ走っていく。
レオンハルトも追った。
ドランは椅子から立ち上がり、膝を叩いて笑っていた。
「おおい、チェス! そいつは十年働いた手拭いだ。もう少し、ゆっくり休ませてやってくれ!」
レオンハルトは追いかけながら振り向いた。
「笑っていないで、呼んでいただけませんか!」
「ほら、おいで。こっちだ」
ドランが太い腕を大きく広げた。
日に焼けた手のひらを向け、緑の目を悪戯っぽく細める。
チェスは楽しそうな声に振り返り、今度は彼へ向かって駆けてくる。
ドランは膝を曲げ、踏ん張った。
「よし、来い。鍛冶屋の腕を――」
レオンハルトが叫んだ。
「そのまま受け止めないでください。重いですから!」
思わずドランは横へ飛び退いた。
チェスは彼の前で大きく向きを変え、手拭いを揺らして走り過ぎた。
ミレアが家の前から声を掛けた。
「あなた、悪ふざけをしていたら、危ないわよ」
ドランは妻へ両手を上げた。
「分かった。俺が担がれるハメになる事はやめとくよ」
非協力的な二人の会話に、護衛の一人が顔を伏せる。
肩を震わせ笑っているのが見え、レオンハルトは手を貸してくれる人を、また一人失った気持ちになった。
チェスの声が、レオンハルトへ届いた。
〈早くおいでよ!〉
*
ドランは、ミレアから別の手拭いを借りた。
それを頭へかぶり、両端を顎の下でつまむ。
追いかけていたレオンハルトが、足を止めた。
「……何をなさっているんですか」
「こっちを見せた方が、早そうでして」
ドランが顔の横で布の端を揺らすと、チェスが立ち止まった。
男の顔を囲んでいた布が、今度は頭の上へ持ち上がる。
下には、待ち構えたドランの笑顔があった。
「どうだ。こっちにもあるぞ」
チェスはくわえていた手拭いを垂らしたまま近づいてきた。
レオンハルトはその首へそっと手を置き、遊びが再開する前に声を掛けた。
「チェス。それを離そう」
ドランがもう一枚を背へ隠すと、仔はなくなった布を探して口を開けた。
その隙に、レオンハルトが一枚目を受け取った。
チェスはドランの顔を嗅ぎ、頭の後ろまで確かめようとしている。
ドランは両手を開いて見せた。
「残念。今日はもう、品切れだ」
レオンハルトは息を切らし、膝へ両手をついた。
結び目からこぼれた金髪が頬へ張りつき、普段は涼やかな青い瞳が、今ばかりは恨めしそうにチェスを追っている。
上着の裾には草がつき、王都を発った朝の隙のない姿は、すっかり崩れていた。
「……申し訳、ありません」
ドランは濡れた手拭いを広げた。
「洗えば済みますよ。いやあ、久しぶりに、腹の底から笑いました」
「私は、久しぶりに全力で走りました」
額の汗を拭うと、ミレアが水を差し出してくれた。
彼は礼を言い、半分ほど一気に飲んだ。
そのそばで、チェスがこちらを見ている。
〈楽しかったね〉
レオンハルトは水を飲む手を止めた。
仔の耳は前を向き、目には何の後ろめたさもない。
彼は、できるだけ真面目な顔をした。
「人のものを取るのは、いけない。追いかけるのも、大変なんだ」
チェスはしばらく彼を見た。
〈じゃあ、取らないで走る?〉
レオンハルトは目を閉じた。
ドランが顔を覗き込む。
「何と?」
そのまま伝えると、ドランは大きく頷いた。
「ほう。手拭いなしで、陛下が追いかければいいと思ったわけですな」
「追いかけるさせること自体を、少しやめて欲しいのですが…」
レオンハルトは真剣だった。
その顔を見て、ドランは堪えきれず、濡れた手拭いを持った手で自分の額を拭いた。
すぐに動きが止まった。
冷たかったらしい。
ミレアが新しい布を差し出した。
「それは、チェスがずっとくわえていた方でしょう」
ドランは手元を見た。
「おかげで、すっかり目が覚めた」
ミレアは呆れて、夫の手から濡れた方を取り上げた。
「あなたが面白がるから、この仔も、皆が喜んでいると思うのよ」
ドランは、ぴんと耳を立てたチェスと、息の整わない王を見比べた。
「陛下には、少し笑う余裕を残して走ってもらわんとな」
「まず、走らずに済む方法を考えてください」
答えてから、レオンハルトも、もう真面目な顔を保てなくなり笑ってしまった。
王としての立派な姿を見せるつもりが、濡れた上着で庭を走り回り、天馬に次は何して遊ぶ?と相談されている。
*
チェスが庭の草へ戻ると、ミレアは昼食を運んできた。
今度は最初から、籠も皿も、仔の鼻先が届かない側へ置いた。
レオンハルトは、ドランと向かい合って座った。
庭にはさっきまで走り回った蹄の跡が残っている。
その向こうで、チェスが何事もなかったように草を食べていた。
「あの仔と暮らすのは、賑やかでしょうな」
ドランに言われ、レオンハルトは頷いた。
「毎日、何かあります。まだ半年ですから、これから少しずつ……」
そこで言葉が止まった。
心が成熟するのは、十歳頃だと聞いている。
ドランは、王の顔を見て首を傾げた。
「まだ、長いんですか」
レオンハルトは杯を持ち、ゆっくり頷いた。
「ええ。まだ、しばらくは」
ドランはチェスへ顔を向け、それから自分の家の窓を見た。
「それじゃあ、しばらくは、頭だけのお客用にパン籠を片づけておきます」
「毎回、ああなるとは限りません」
「そうですな。先に俺の手拭いを片づけるべきですね」
ドランは真面目くさって言った。
「次は、何もぶら下げずにお迎えします」
彼は、どこまでも楽しむつもりらしい。
レオンハルトは笑い、今度は少しだけ、素直な気持ちを口にした。
「私も、また来たいと思っていました」
ドランは、驚いたようにこちらを見た。
「今日は、もう帰りたいかと思いましたよ」
レオンハルトは首を振った。
「いいえ。あの仔が騒がしくても、こうして迎えていただけて、嬉しいです」
ミレアが、彼の皿へ料理を取り分けた。
前掛けをつけ直し、袖を肘まで上げた姿は、訪ねてくる客を迎えるときよりも、家族に食事を勧める母親のようだった。
「また、いらしてください。今度は手拭いも籠も、しまっておきますから」
庭の外を通った旅人が、笑い声につられて顔を向けた。
案内していた村人が足を止めかけると、ドランは小さく手を振った。
「父親は、ただいま昼休みだ」
皆が笑って通り過ぎた。
その声を聞いて、チェスが顔を上げた。
口の端に草をつけたまま、こちらへ歩いてくる。
レオンハルトは、反射的に杯を持ち上げた。
ドランも、自分の手拭いを服の内側へ押し込んだ。
二人の動きが同時だったので、ミレアが声を立てて笑った。




