後日譚 7 まだ分からないこと
翌朝、レオンハルトが天幕を出ると、仔馬はもう待っていた。
母親のそばで眠っているだろうと思い、早めに起きたつもりだった。
だが、黒白の仔は彼を見つけるなり耳を立て、首を伸ばしてきた。
〈歩こう〉
レオンハルトは笑って、その首へ手を置いた。
「おはよう、が先だよ」
〈おはよう。歩こう〉
昨日の約束を、ちゃんと覚えていたのだ。
それだけで、まだ少し眠かった頭が、すっかり冴えた。
歩き出すと、仔馬は彼の横から首を伸ばし、後ろで結んだ金髪へ鼻先を寄せた。
揺れる毛先に唇が触れる前に、レオンハルトは結び目を押さえた。
「今日は、食べないでくれよ」
仔馬は彼の手を嗅ぎ、今度は袖口へ鼻を寄せた。
髪を諦めただけで、何もかも確かめたい気持ちは変わらないらしい。
*
草地の上には、朝露が残っていた。
仔馬は地面へ鼻先を近づけ、濡れた草を嗅いだ。
少しかじり、もう一度深く鼻を突っ込んだところで、大きなくしゃみをした。
細かな水滴が、レオンハルトの袖へ飛んだ。
仔馬が顔を上げた。
〈濡れた〉
「私もだ」
答えた途端、湿った鼻先が腕へ押しつけられた。
仔馬はそのまま、袖に沿ってぐいっと顔を擦った。
レオンハルトは腕を浮かせたが、仔は気にせず、今度は胸元へ鼻先を寄せた。
上着にもう一筋、濃い濡れ跡がついた。
鼻を拭いている。
自分の服で。
レオンハルトは染みを見下ろした。
「……すっきりしたかい」
仔馬は満足そうに鼻を鳴らし、先へ歩き出した。
彼は濡れた服をつまみ、それから諦めた。
幼い天馬は、よく立ち止まった。
小石を見つけて嗅ぎ、草の間から飛び出した虫を追いかける。
少し離れてしまうと、すぐに戻ってきて、レオンハルトの腕へ鼻先を触れさせた。
遠くでは、朝食の支度が始まっていた。
火のそばで話していた家臣の声が届き、仔馬が耳を向けた。
「黒い部分が多いのだから、やはり強いのではないか」
もう一人が、こちらを眺めて答えた。
「だが、翼にも白が入っている。黒い天馬と同じというわけには……」
レオンハルトに気づくと、二人とも言葉を止め、頭を下げた。
「おはようございます、陛下」
「おはよう」
彼が挨拶を返しても、二人は顔を上げきれずにいた。
仔馬について話していたのを、咎められると思ったのかもしれない。
レオンハルトは傍らの首を撫でた。
「私にも、どんな力を持つのかは、まだ分からない」
片方の家臣が、ようやく顔を上げた。
「ノクスの仔ですから、期待せずにはいられません」
「ああ。どんなふうに育つのか、楽しみだね」
答えている間に、仔馬の鼻先が、家臣の腰へ近づいていた。
衣についた房飾りが、風に揺れている。
仔はそれを嗅ぐと、柔らかな唇を伸ばし、ぱくりと口に入れた。
家臣が、腰を引いた。
房を結んだ紐が、ぴんと張った。
レオンハルトは慌てて仔馬のそばへ回った。
「それも、食べ物ではないよ。離してあげて」
仔馬は房をくわえたまま、彼を見た。
〈草みたい〉
「草とは違う。ほら、その人が動けなくなっている」
仔が口を緩めると、家臣は素早く房を引き抜いた。
今度は口に届かないよう、衣の内側へ押し込む。
仔馬は、房の消えた辺りをじっと見ていた。
レオンハルトはその首を撫で、草地の方へ誘った。
「朝ご飯を食べる前に、皆の服を食べないでくれよ」
後ろで、房の持ち主が濡れた飾りを確かめ、同僚が笑いをこらえていた。
レオンハルトも、自分の服を見せて小さく肩をすくめた。
*
天幕の外に準備した朝食の席でも、仔馬の話になった。
エミールがパンを取り分けながら言った。
「昨夜、父へ出す手紙を書き直しました。初めは、ノクスの仔が生まれたとだけ書いたのですが、黒白の斑毛だと伝えなければ、会って驚くでしょうから」
イレーヌが笑った。
「書いてあっても、驚かれると思います」
「何と返ってくるか、今から気になります」
リゼリアは、少し離れた所にいる母仔を見ていた。
「どちらに似るか、皆で話してたのにね。両方の色になるなんて」
ヴァルデルが食事の手を止めた。
「記録を探し直してもよいだろう。今のところ、同じ毛色の天馬を記したものは思い当たらんが、まだ読んでいないものもある」
レオンハルトも頷いた。
「この仔のことも、新しく残しておく必要がありますね」
リュシエンヌが同意した。
「色だけでなく、育つ過程も。今後、同じような仔が生まれたときのために」
話を聞きながら、レオンハルトは母仔へ目を向けた。白い腹の下から、黒い斑のある背が見えている。
最も強い黒と、最も弱い白。
両方を持つのだから、力も中ほどなのだろうか。
それとも、父親と同じほど強くなるのか。
自分も、気になっていた。
幼いころから、天馬は色が濃いほど強いと教わってきた。
王家のノクスが黒いことを、誇らしく思っていた。
この仔と繋がった今も、その考えが消えたわけではない。
ロデリクが母仔を眺めて言った。
「強さが分かるのは、もっと育ってからでしょう。今は、乳を飲むのに忙しそうです」
皆がそちらを見ると、ちょうど仔馬が顔を上げた。
レオンハルトを見つけ、短い尻尾を振りながら真っ直ぐ歩いてくる。
レオンハルトはテーブルの縁にあった杯を奥へ寄せた。
隣で給仕をしていた家臣も、果汁の入った水差しを持ち上げ、さっと離れた。
昨日の様子を見ていたらしく、誰に言われるより先に動いていた。
仔馬はレオンハルトの椅子の横へ来た。
〈まだ食べる?〉
「もう少しだけ。そこで待っていてくれるか」
仔馬は待たなかった。
レオンハルトとアドリアンの間へ鼻先を突っ込み、そのまま首をぐいぐい押し入れてきた。
二人の肩が左右へ押され、アドリアンが慌てて椅子を引く。
レオンハルトも皿を持ち上げた。
そこへ仔の胸まで入ってきたので、椅子ごと後ろへ下がるしかなかった。
〈ここにいる〉
仔馬は、二人の間から顔を出した。
目の前にレオンハルトの皿があり、その向こうに皆がいる。ようやく自分も輪の中へ入れたのが嬉しいらしく、耳を前へ向け、満足そうに鼻を鳴らした。
アドリアンは体を斜めにして、自分の皿へ手を伸ばした。
「私の席が、半分になりました」
レオンハルトは仔馬の顔の横で皿を支えたまま答えた。
「私の席は、食事に届かない」
リゼリアが笑い出した。
仔馬は声のする方へ顔を向けたが、二人の間を出ていく気は少しもなさそうだった。
ヴァルデルだけは、真面目に並び具合を見ていた。
「城では、もっと間を空けて椅子を置けばよい」
レオンハルトが父を見た。
「食堂へ入れるつもりですか」
ヴァルデルは仔馬とテーブルを見比べ、少し考えた。
「……庭で食べればよい」
笑い声が、また大きくなった。
父は、毎日の食事にこの仔がいる前提で話している。
*
食後、レオンハルトはヴァルデルと仔馬を連れ、人々の輪を離れた。
ノクスのもとへ向かう途中で、仔馬が急に立ち止まった。
少し先の草に白い布が引っかかり、風で端を揺らしている。
仔馬は首を高く上げ、耳を立てた。
そっと一歩近づいたところで、布が風をはらんで跳ね上がった。
四本の脚が、いっぺんに地面を離れた。
仔馬は真横へ大きく飛び跳ね、下りた勢いのまま、もう一跳びした。
半開きの翼がばさばさと鳴り、レオンハルトも驚いて足を止める。
仔は彼の後ろへ駆け込み、ようやく止まった。
脚を踏ん張り、鼻息を荒くして、肩越しに布を睨んでいる。
〈跳んだ!〉
レオンハルトは、はみ出した首へ手を伸ばした。
「君も、ずいぶん跳んだよ。あれは布だ。風で動いただけ」
ヴァルデルが布を拾うと、仔馬はさらに首を反らした。
その大きな体を隠すには、レオンハルト一人では足りない。だが本人は隠れているつもりらしく、鼻先だけを彼の肩の横から出している。
ヴァルデルはその場で布を畳んだ。
「ほら。もう動かん」
レオンハルトは仔馬の首をゆっくり撫でた。
「近くで、見てみるか」
仔はすぐには出てこなかった。
父が動かずに待っていると、ようやく首を伸ばし、長く匂いを嗅いだ。
布の端へ唇が触れる。
逃げも跳ねもしないと分かると、今度はくわえて引っ張ろうとした。
〈これ、ちょうだい〉
「父上のものではない。持ち主に返さなければ」
仔馬は布と彼を交互に見た。
〈また跳ぶ?〉
「風に飛ばされれば、動くよ」
仔は口を離し、レオンハルトの後ろへ戻った。
やはり、まだ信用できないらしい。
ヴァルデルは頬を緩め、布を世話係へ預けた。
レオンハルトが小声で尋ねた。
「怖がりな所も、記録に残しますか」
「ノクスの幼い頃が、私には分からん。仔なら、こんなものかもしれんぞ」
父は息子の後ろを覗き込んだ。
「布は片づけた。もう出てきてよい」
仔馬は、父の両手が空なのを確かめてから、ようやく彼の隣へ戻った。
*
片づけの始まった天幕の間を抜け、レオンハルトは仔馬と歩いた。
虫は追いかけるのに、布は怖い。
人の髪や房飾りは、まず口に入れて確かめたい。
母親に呼ばれれば一目散に走っていく。
新しく知ったことが、一つずつ増えていた。
首へ手を置くと、仔馬は歩く速さを緩めた。
彼が止まれば止まり、手を離すと、また鼻先を寄せる。
〈もう少し、撫でて〉
レオンハルトは立ち止まり、首の下を掻くように撫でた。
仔馬の瞼が、とろんと下がった。
顎が少し上がり、鼻先がぐうっと前へ伸びていく。
唇がもごもご動いた。
撫でる場所を少し変えると、さらに鼻先を突き出し、何も食べていないのに、口元を忙しく動かした。
レオンハルトは笑いながら手を動かした。
「ここが、気持ちいいのか」
仔馬は答える代わりに、首をもっと伸ばした。
手が届きにくくなり、レオンハルトまで腕を伸ばす。
もう少し近くへ寄ってほしいと思ったが、この顔を見ていると、やめる気にはなれなかった。
強いのだろうか。
その答えは、まだ分からない。
そんな事は、どうでもいいほど大切に思っている。
ノクスほど強くならなくても、そばにいたい気持ちは変わらない。
黒い斑の上から、白い毛へ手を滑らせた。
どちらを撫でても、仔馬は同じように喜んだ。
*
少し先で、ヴァルデルがノクスの前に立っていた。
黒い天馬の顔を見上げたまま黙り込み、ときおり眉を寄せている。
レオンハルトが仔馬と近づくと、父は振り返った。
「ノクスは、この仔が進化した天馬なのではないかと考えている」
仔馬の首に置いていた手が止まった。
「これまでとは違う天馬に、なっているということですか」
ヴァルデルは頷き、またノクスを見た。
返ってくる言葉を聞いてから、ゆっくり伝えた。
「竜と遭遇したとき、死ぬかもしれんと思ったそうだ。その恐怖が、本能にまで刻み込まれたのではないかと」
ノクスの鼻先が、仔へ近づいた。
仔馬は父親を見つけ、嬉しそうに首を伸ばした。
ヴァルデルは二頭を眺めながら続けた。
「種の保存のために、もっと強い個体が増えるのを望んだ。その結果が、この仔なのかもしれんと、そう考えている」
レオンハルトは黒白の背へ目を落とした。
「ノクスにも、確かなことは分からないのですね」
「ああ。こんな毛色の仔が生まれたという話は、聞いたことがないそうだ。もっとも、野生の天馬すべてを知っているわけではない」
近くで話を聞いていたリゼリアが、ふと口を開いた。
「それなら、野生の天馬の中には、もういるかもしれませんね。オブシディオンは天馬を狩って食べるから、仲間が襲われたのを見た天馬たちも……」
言葉の途中で、周囲が静かになった。
アドリアンが彼女を見た。
エミールとイレーヌも、片づけていた荷から顔を上げている。
レオンハルトは聞き間違えたのかと思った。
「……天馬を、食べる?」
リゼリアは、皆の顔を見回した。
「あの……ご存じなかったですか」
誰も頷かなかった。
黒い炎に焼かれることは、皆が知っていた。
だが、あれほど大きく強い天馬を、食べ物として狩るとは思っていなかった。
ヴァルデルの顔から、笑みが消えた。
戦いでノクスが竜を恐れた姿を、忘れたことはない。
何度も退かされ、王としての誇りも砕かれた。
それでも今、天馬を食うと聞いた瞬間の怒りは、あのときとは違った。
……ノクスが狩られる。
この仔も、白い母親も、あの竜にとっては食い物なのか。
そう思うと、腹の底から怒りが込み上げた。
何も知らずに父親へ鼻を擦り寄せる仔を見て、ヴァルデルは思わず一歩前へ出た。
「この仔のそばへ、あの竜を近づけるものか」
今までで一番、オブシディオンを憎らしいと思った。
リゼリアが困ったように口を閉じた。
レオンハルトも返す言葉を探していたが、その前にノクスが首を下げた。
黒い天馬はヴァルデルを見つめた。
〈確かだとは言えない。だが、この子は、私たちにも想像のつかない天馬に育つはずだ〉
ヴァルデルは、しばらくノクスの顔を見ていた。
それから、聞いた言葉を皆へ伝えた。
人々の視線が、仔馬へ集まった。
レオンハルトには、その力も、ノクスの推測が正しいかどうかも分からなかった。
ただ、今は彼のすぐ隣にいて、また首を撫でてほしそうにしている。
そっと手を動かすと、仔馬の鼻先が伸び、唇がもごもごと動き始めた。
ヴァルデルの険しかった目元が、少しだけ緩んだ。




