後日譚 6 王様を知らない仔馬
〈僕の声聞こえる?〉
レオンハルトは、返事を忘れて仔馬を見つめていた。
声が聞こえた。
だが、耳のどちらから聞こえたのか分からない。
目の前の黒白の顔は、彼の返事を待つように、少し横へ傾いている。
「……聞こえる」
ようやく答えると、仔馬の耳が前へ揃った。
〈よかった〉
短い尻尾が、ぱたぱたと振られた。
レオンハルトは父を見た。
ヴァルデルは唇を開きかけ、言葉が出るより先に、大きく頷いた。
「繋がったのだ」
父の声が、少し掠れていた。
幼いころ、何度もこの草地を歩いた。
空に翼が見えるたび、自分の前へ来てくれないかと願った。ほかの誰かに天馬が近づくと、祝う気持ちの陰で、胸を痛めたこともあった。
その願いが、今、かなったらしい。
レオンハルトが手を伸ばすと、仔馬は自分から首を寄せた。黒い毛と白い毛の境に、指が触れる。
どちらも柔らかく、温かかった。
「君と……」
何と言えばよいのか分からないまま、もう片方の手も添えた。
そのとき、仔馬の鼻先が、頬へ近づいてきた。
〈それ、何?〉
柔らかな唇が、肩に落ちていた金髪を挟んだ。
「髪だ。待って、これは――」
顔を戻そうとして、頭が横へ引かれた。
髪を咥えて引っ張るので、レオンハルトは首を傾けたまま動けなくなった。
人々が、揃って息を止めていた。
先ほどまで厳粛に二人を見守っていたイレーヌの肩が、小さく震えた。
隣のエミールは唇を固く結び、なぜか空を見上げている。
「食べ物ではないよ。離してくれないか」
言い聞かせるレオンハルトの横へ、父が素早く回り込んだ。
「引くな。そのままだ」
仔馬の鼻面へそっと手を当て、もう片方の手で息子の髪を支える。
唇が緩んだ隙に髪を抜き取り、ヴァルデルは満足そうに頷いた。
「下ろしているから、気になるのだ。束ねた方がよい」
繋がって、最初に父から授けられた助言は、それだった。
「……ありがとうございます」
礼を言うと、リゼリアがとうとう吹き出した。
慌てて両手で口を覆ったが、もう遅かった。
アドリアンまで顔を伏せ、エミールの我慢もそこで尽きた。
レオンハルトは乱れた髪を肩の後ろへ払い、仔馬を見た。
仔は不思議そうに、髪を追って鼻先を動かしている。
〈食べないの?〉
「食べない。これは、私に生えているものだから」
仔馬は少し考え、自分の首を見ようとした。
短いたてがみが逆立った首が大きく曲がり、レオンハルトの胸へ鼻先がぶつかる。
彼は受け止めながら、笑った。
王になってから、人前でこんなふうに笑ったことは、あまりなかった。
*
祝いの言葉が次々に掛けられた。
レオンハルトは礼を返しながら、片手を仔馬の首に添えていた。
手を離したくなかった。
こちらを見てくれるたび、本当にこの仔の声が聞こえるのかと、まだ信じきれない気持ちになる。
仔馬は、大勢が喋るのを耳を動かして聞いていたが、やがて彼へ顔を寄せた。
〈みんな、君と話すの?〉
「そうだね。私に、お祝いを言ってくれている」
〈じゃあ、僕は君といつ話せるの?〉
レオンハルトは、次の挨拶を受けようとしていた口を閉じた。
こちらを見る目には、不満も遠慮もない。
ただ、順番を尋ねている。
「今、聞くよ。何を話そうか」
仔馬が嬉しそうに首を寄せた、そのときだった。
遠くで母親が鳴いた。
耳がそちらへ向き、首が回った。
次の瞬間、レオンハルトの手の下から、温かな体が抜けていった。
仔馬は母親へ一直線に走った。
尻尾を振り、白い腹の下へ鼻先を差し入れる。
乳を飲む姿を見て、レオンハルトはゆっくり手を下ろした。
「お母さんには、かないませんね」
仔馬を見送るレオンハルトに、アドリアンが言った。
「ようやく話せたと思ったのですが…」
伸ばした手を下ろす姿が寂しそうで、リゼリアは笑ってしまった。
「そんなお顔をなさらなくても。お腹がいっぱいになったら、また来てくれますよ」
ヴァルデルは、母親の腹の下で乳を飲む仔馬を眺めていた。
「戻ってくるまでに、髪を結んでおけ。また食われるぞ」
レオンハルトが慌てて髪を押さえると、今度はアドリアンも声を立てて笑った。
*
午後の打ち合わせが始まってからも、レオンハルトの耳は外の音を拾っていた。
明日は行事の最終日だ。
片づけと帰路の手配を確かめ、寄付の記録も照合しておかなければならない。
家臣の説明を聞き、書類へ目を落とす。
だが、天幕の外で草が鳴れば、つい入口へ顔が向いた。
三度目にそれをしたとき、向かいの家臣が説明を止めた。
「陛下」
「はい」
「馬車は、天幕の中には参りません」
レオンハルトは書類を見た。
今、馬車の手配について聞いていたのだった。
「……失礼しました。続けてください」
家臣は説明を再開しかけたが、緩んだ口元を手で覆った。
仔馬が気になって仕事に集中できない王が、おかしかったのだろう。
レオンハルトは少し気恥ずかしくなり、書類へ目を落とした。
「……今度こそ、きちんと聞きます」
家臣は咳払いを一つして、説明を続けた。
そのあと、ついに蹄の音が近づいてきた。
入口の布が持ち上がり、黒白の鼻先が現れた。
〈いた〉
思わず腰が浮いた。
仔馬は顔を入れ、そのまま肩まで入ろうとして、翼を幕へ擦った。
外の護衛が布を大きく持ち上げ、入口が急に広くなる。
「待って。今、そちらへ――」
言い終わる前に、長い脚が一本、天幕の中へ入った。
続いてもう一本。
仔馬は卓を見つけると、紙の上へ鼻先を伸ばした。
家臣が書類を持ち上げた。
レオンハルトはインク壺を取った。
二人の手が動いた間を、仔馬がゆっくり嗅ぎ回る。
次に何を片づければよいか、レオンハルトが卓を見渡したところへ、父の声が飛んできた。
「天幕の中へ入れるな。翼を広げたら、卓ごと倒れるぞ」
ヴァルデルは仔馬の横へ回り、入口の外を示した。
「ほら、こちらだ」
仔馬は父を見た。
それから、レオンハルトを見た。
〈走ろう〉
レオンハルトはインク壺を持ったまま、答えた。
「今は、仕事をしているんだ」
〈それを持って走るの?〉
「……これは置いていく」
仔馬は、もう一緒に走ってもらえるつもりらしかった。
レオンハルトは慌てて付け足した。
「でも、まだ行けない」
仔馬には、仕事が何なのか分からなかった。
レオンハルトは目の前にいるのに、一緒に来てくれない。
さっきから、卓の上のものばかり見ている。
こちらを見てほしくて、胸へ鼻先を押しつけた。
〈ねえ、僕と遊ぼうよ〉
レオンハルトが首を撫でると、仔馬はもう一歩近づいた。
今度こそ、一緒に外へ出てくれると思ったのだ。
甘えるように擦り寄られ、レオンハルトは仔馬と書類を交互に見た。
すぐにでも遊んでやりたい。
だが、家臣を待たせたまま、仕事を放り出すわけにはいかなかった。
「仕事が終わったら、一緒に歩こう。少し、待っていてくれるか」
レオンハルトがまだ来てくれないと分かると、仔馬は天幕を出た。
けれど、離れたくはなかった。
入口のすぐ前で前脚を折り、後ろ脚も畳んで、草の上に腹をつけた。
〈じゃあ、ここで待ってる。終わったら遊ぼうね〉
出入口が、ほとんど塞がった。
ヴァルデルは、入口に寝そべった仔馬を見てから、天幕の中へ顔を向けた。
「しばらく、出入りする者はいないな。このまま寝かせてやろう」
レオンハルトは、書類を抱えた家臣と顔を見合わせた。
父はもう、仔馬を動かすつもりがないらしい。
家臣は入口と仔馬を見比べ、静かに椅子を引き直した。
「では、続きは座ったままで」
父は満足したように頷き、仔馬の翼の収まりを確かめていた。
*
打ち合わせが終わる頃には、入口から規則正しい寝息が聞こえていた。
レオンハルトと家臣は、眠る仔馬を起こさないよう、横を一人ずつ抜けた。
先に出た家臣が無言で幕を持ち上げ、王は衣の裾をたくし上げ、仔馬の長い脚を慎重に跨いだ。
すぐ外に、ヴァルデルが座っていた。
脇には世話係が立ち、腕に清潔な布を抱えている。
「風が出てきた。これを掛けた方がよいか」
父が尋ねると、世話係は空と仔馬を見た。
「今は、必要ないかと」
「そうか。では、枕は」
「起こしてしまうのでは?」
ヴァルデルは顎を引いた。
いかにも了承した顔をしているが、仔馬の頬の下に折れた草が見つかると、そっと指先でよけた。
レオンハルトは、その横へ腰を下ろした。
「父上も、お休みになっては」
「休んでいる」
父の目は仔馬から動かなかった。
そのとき、眠る仔の脚がぴくりと跳ねた。
同じようにビクリとしたヴァルデルが心配そうに言った。
「どうした?具合が悪いのか?」
「…熟睡しているだけだと思います」
レオンハルトが答えると、そばの世話係も頷いた。
父はゆっくり手を下ろした。
「分かっている」
通りかかったアドリアンとリゼリアが地面に並んで座った王と前王、入口を塞いで眠る仔馬を見た。
リゼリアは笑いそうになり、唇を結んだ。
「こちらにいらしたのですね」
「ああ。この仔がここで眠ってしまったから…」
レオンハルトは答えたが、リゼリアは彼の隣を見ていた。
ヴァルデルは仔馬が少し鼻を鳴らすと、また心配そうに身を屈めた。
仔がまた静かな寝息を立て始めると、ほっとして肩を下ろす。
だが、短い尻尾が動けば、また顔を近づけた。
かつては、その険しい顔を向けられるだけで、誰もが言葉を呑み込んだ。
それが今は、仔馬がよく眠れているかどうかで、一喜一憂している。
リゼリアは笑いをこらえ、アドリアンの袖をつまんだ。
彼も同じ姿を見ていたらしい。
口元を隠しながら、わずかに頷いた。
そのとき、仔馬がふうっと大きく息を吐いた。
ヴァルデルが振り返り、唇へ人差し指を当てた。
「静かに。起きる」
大きな声を出したのは父だったが、レオンハルトは黙って頷いた。
*
母親は、少し先でノクスと草を食んでいた。
白い首がときおり上がり、こちらを確かめる。
その姿を見て、レオンハルトは小声で尋ねた。
「この仔も、王都へ来られるでしょうか」
父はようやく、息子へ目を向けた。
「まだ、母親から離せん」
「はい。ただ、城へ戻れば、そう簡単には会いに来られませんから」
今日出会ったばかりなのに、もう、この仔を残して帰るのが寂しかった。
王都の執務室では、入口から顔を覗かせてはくれない。
書類を読んでいても、今頃は何をしているだろうと考え、窓の外ばかり見てしまいそうだった。
眠っている仔馬の首を、そっと撫でた。
次にこの温かさに触れられるのは、いつになるのだろう。
父は、しばらく彼を見ていた。
それからノクスへ顔を向け、少し黙った。
「母親がどうしたいかも、聞いてもらおう」
レオンハルトは頷いた。
「それと、城の世話係には、仔のことを知らせておく。寝る場所も、母親が来るなら二頭分……いや、ノクスと近い方がよいか」
「父上。まだ、来るとは」
「来ると決まってからでは、遅い」
ヴァルデルは世話係を呼びつけ、眠っている仔馬を見て声を落とした。
「成長すれば、今の広さでは足りんだろう。翼を広げて歩けるだけの場所も要るな。鞍についても――」
「まだ、乳を飲んでいるとおっしゃったばかりです」
ヴァルデルは、寝ている仔馬を見た。
それから、何事もなかったように言い直した。
「鞍は、あとでよい」
「はい。ずっとあとでよいと思います」
レオンハルトが念を押すと、リゼリアが小さく吹き出した。慌ててアドリアンの肩の後ろへ隠れたが、彼も笑っていたので、隠れる意味はほとんどなかった。
父が二人を見た。
リゼリアは背筋を伸ばし、アドリアンも口元を引き締めた。
「……何か、おかしいか」
「いえ。まだ来ると決まっていないのに、もう鞍まで……」
アドリアンは言い終える前に、声が震えだし、また顔を背けて笑いを堪えている。
ヴァルデルは一度口を結び、それから世話係へ向き直った。
「では、先に母親の寝る場所から考えよう」
準備をやめるつもりは、少しもないらしい。
レオンハルトまで笑うと、父も困ったように口元を緩めた。
「何もせずに、待ってもいられんだろう」
その顔を見て、レオンハルトは胸が温かくなった。
昔なら、父の言葉に口を挟むだけでも緊張した。
だが今は、先走る父を皆でからかい、父自身も笑っている。こうして親子で冗談を交わせることが、嬉しかった。
「ノクスの仔なのに、私より父上の方がお忙しそうですね」
「おまえは、仕事があるだろう」
返事は即座だった。
その言い方に、レオンハルトはまた笑ってしまった。
*
仔馬は、目を開けた途端、レオンハルトを探した。
すぐそばにいると分かると、脚を伸ばして起き上がる。
ヴァルデルも同時に腰を浮かせ、支えようとした手を、仔が自分で立つのを見て引っ込めた。
〈終わった?〉
「ああ。待たせたね」
仔馬の鼻先が、どんと胸へ押しつけられた。
踏ん張り損ねたレオンハルトがよろめくと、父の手が、今度は息子の背へ回った。
「足を開け。そうだ。もう少し腰を落とせ」
父の声につられ、レオンハルトは幼いころの剣の稽古のように、足を踏み開いた。
「ここで、よいですか」
「よし。そのまま受け止めろ」
仔馬がもう一度、胸へ頭ごと突っ込んできた。
今度は動かずに支えられたので、ヴァルデルが満足そうに頷く。
「できたな」
……国王になってから、仔馬の頭突きを受け止めたことを父に褒められるとは思わなかった。
リゼリアが、とうとう声を上げて笑った。
レオンハルトも笑いながら、仔馬の首を抱くように支えた。
〈どうしたの?〉
「君を迎えるために、私も稽古が必要らしい」
仔馬はよく分からないまま、もう一度鼻先を擦り寄せた。
約束どおり、一緒に歩き始めた。
初めは並んでいたが、仔馬の歩幅は大きい。
先へ出ては振り返り、レオンハルトが追いつくと、また進む。
少し駆けてみせると、仔は嬉しそうについてきた。
〈もっと速く〉
「これでも、かなり急いでいる」
息を弾ませて答える彼を置いて、仔馬はふわりと浮いた。
黒白の翼が夕日を受け、草の上を短く飛んでから下りてくる。
〈君は飛ばないの?〉
「飛べないんだ」
仔馬は彼の背へ回った。
そこに何もないのを確かめ、顔を戻す。
〈翼がないね〉
「そうだね」
少し離れた所を、ヴァルデルとノクスがついてきていた。
「走りすぎるな。おまえが転べば、仔が驚く」
父の声に、レオンハルトは振り返った。
「今は、歩いています」
「さっきは走っていただろう」
どう答えても、父の助言は減らないらしい。
レオンハルトは諦めて頷き、額の汗を拭った。
仔馬はしばらく翼を半開きにしていた。
それから畳み直し、彼の隣へ戻ってきた。
今度は少し進むごとにこちらを見て、歩く速さを確かめている。
レオンハルトは息を整え、その首へ手を置いた。
いつか、この背で空を飛ぶ日が来るだろうか。
思い描くより先に、仔の鼻先が、彼の袖を押した。
〈このくらいなら、歩ける?〉
こちらへ向ける目は、真剣だった。
レオンハルトは、しばらく答えられなかった。
あれほど待ち望んだ天馬が、今は自分を置いていかないよう、歩く速さを気にしてくれている。
「ああ。ちょうどいい」
そう答えて、並んで歩いた。
後ろから、父の声がした。
「日が落ちる前に戻れ。冷えてくる」
レオンハルトが返事をしようとすると、仔馬が先に振り返った。
父親のノクスを見つけ、短い尻尾を振る。
ヴァルデルはそれを自分への返事のように受け取り、満足そうに頷いた。
レオンハルトは、笑いながら歩き続けた。




