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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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233/291

後日譚 5 まだ見ぬ仔馬

王都へ戻った父を見て、レオンハルトは、まず日に焼けた顔に気づいた。


短く刈り込んだ銀に近い金髪が、褐色を帯びた額の上でいっそう明るく見える。太い眉の下には薄青の瞳があり、城を出る前よりも、目に力が戻っていた。


「長く、外で過ごされたのですね」


「天幕にいても、落ち着かんのでな」

そう答えたヴァルデルは、ノクスの鞍から下ろされる荷へ目を向けた。

持っていった記録も、戻ってきている。

だが、すぐに続きを読もうとはせず、父は黒い天馬の首へ手を伸ばした。


その夜、レオンハルトは久しぶりに父と食事を共にした。


飼育場では、どこへ天幕を張ったのか。

ほかの天馬は、近くまで来たのか。

尋ねると、父は思っていたよりよく話した。


明け方に翼の音で目が覚めたこと。

草を食む天馬を眺めているうち、読むつもりの記録を膝に置いたまま、日が傾いていたこと。


レオンハルトは、話が途切れるのを待って尋ねた。

「それで、ノクスの相手は見つかったのですか」


「ああ。紹介してもらった」

父の口元が緩んだ。


レオンハルトも、つられて微笑んだ。

「やはり、黒い天馬でしたか」


最も強いとされる黒い天馬のノクスが選ぶ相手だ。

黒い雌の天馬か、それに次ぐ濃灰の、立派な相手を思い浮かべていた。


ヴァルデルは杯を置いた。

「白だ」


レオンハルトは父を見た。

「…白い天馬、ですか?」


「そうだ」


色が濃いほど、天馬は大きくて能力も強い。

黒を頂点とする序列の中で、白は最も弱い色だった。

黒と白。大きさも違う…

並ぶ姿を想像しようとして、少し戸惑った。

「そういうことも、あるのですね……」


「私も驚いた。だが、ノクスの選んだ相手だ」

父には、何の不満もなさそうだった。

「そばへ来ると、あれも機嫌がよくてな」

鷲鼻の下で、男らしい口元がまた綻ぶ。

以前なら、このような顔をする父など、想像できなかった。


「来年には、仔馬が走っているだろう」

その声には、待ち遠しさが隠れていなかった。


レオンハルトはワインを口へ運び、笑いを収めた。

孫の誕生を心待ちにする祖父のようだと思った。

何であれ、父とノクスが幸せなら、それでよい。

「来年は、私たちも飼育場へ行くことになりました」


会議で決めたことを伝えると、父は顔を上げた。


「規模は小さくします。滞在も会食も、簡素なものに。それでも、天馬と出会い、繋がる機会は残していこうと」


「続けた方がよい」

ヴァルデルは頷いた。

「天馬は、豪奢な天幕に惹かれて来るわけではない」


*


父が戻ってからも、王としての日々が続いた。

一つ片づいたと思えば、次の知らせが届いた。


ポルフィラは、まだ帰らない。


夕食の席で、ふと話題になることがあった。

「今頃は、どんな所を飛んでいるのでしょうね?」

レオンハルトが言うと、父も窓の方へ目を向けた。


「あの竜の背なら、随分遠くまで行けるだろうな…」

それから、少し間を置いて続けた。

「…私も、見てみたいものだ」


レオンハルトは杯から顔を上げた。

「この国の外を、ですか」


「ああ。まだ知らぬ土地を」

父は食卓へ目を戻した。

「果たさねばならんことは、残っている。それを済ませたら、という話だ」


ヴァルデルは今も記録を読み、人々の暮らしを傷つけた自分の政治について調べていた。

外へ出る時間は増えたが、その仕事をやめたわけではない。


レオンハルトは頷いた。

「そのときは、旅先の話を聞かせてください」


父は少し意外そうに息子を見て、それから、ああ、と答えた。


*


年が明け、天馬の飼育場へ向かう日が来た。


参加者の調整に時間が掛かり、例年より二か月ほど遅い開催となった。

王と領主、あるいはその代理に加え、参加を希望した少数の者たちが集まる。


これまでは、招かれた家の人々が集まり、費用はすべて税で賄われていた。

今年は貴族たちへ広く呼びかけ、参加にあたって金を募る形へ変えた。

集めた金は、反乱で犠牲になった人々への補償に充てる。

寄付をしてでも参加したいという申し出が届いた。

領主の代理で来る者も、寄付を納めて参加する。

ここで自領から来た人々の取りまとめをしながら、天馬と出会う機会も得る。

その経験を子供たちに積ませようと、今回は代理を送った家もあった。

その顔ぶれを確かめ、人数を整え、ようやく今日を迎えたのだった。


飼育場に着くと、レオンハルトは馬車を降りて辺りを見渡した。

草地が遠くまで続いている。

なだらかな起伏の向こうに林があり、その上を天馬の影が横切った。

幼いころに見た景色だった。

だが、今年は幾重にも幕を巡らせた宴の場も、次々に料理を運ぶ大勢の使用人もいない。

必要な天幕を張る人々の間を、領主の家臣たちが行き来していた。


その一角で、ヴァルデルが参加者へ頭を下げていた。

「申し出に、感謝する」


相手は驚いたように姿勢を正し、慌てて礼を返した。


父は一人ずつ言葉を交わしている。

寄付を集めるこの場で、自分から礼を述べることも責任の一つだと、出発前に話していた。


レオンハルトもそちらへ向かい、参加者を迎える挨拶に加わった。


「父に代わり、参りました。エミール・ヴェルディアです」

クラウスの息子が、一礼した。


その隣には、レオノーラの娘イレーヌ・オランデルがいる。

「母から、陛下と皆様によろしくと。こちらでは、私がオランデル家の代理を務めます」


「二人とも、来てくれてありがとう。留守を任されていたときとは、少し違う仕事になるだろうけど…」

レオンハルトが言うと、エミールは頷いた。


「父を送り出す支度は何度もしましたが、自分が留守をするとなると、やり残した事が無いか気になって…」


「出発の直前まで、家臣に聞いていましたものね」

イレーヌに言われ、彼は苦笑した。


「あなたも、書類を離さなかったでしょう」


「ええ。母に私に任せてさっさと行きなさいと言われました」


二人のやりとりを聞いて、レオンハルトは微笑んだ。


リゼリアとともに来たコンラート・インディルも、挨拶に加わった。テオバルトの実子で、今はリゼリアを支えている。

「こちらにいる間も、領地の報告は届くようにしてあります」


コンラートが言うと、リゼリアは彼を見上げた。

「報告書は私に任せて、天馬を見る時間を優先してね。そのために来たんだから…」


「もちろん」

彼も寄付を納め、補佐の仕事と、天馬に出会う機会の両方を得るために参加していた。


「領地へ残す仕事が、皆、気になるようですね」

声を掛けたのは、ロデリクだった。


リュシエンヌも、そのそばへ来ている。

「陛下も、何かお持ちになったのでは?」


尋ねられ、レオンハルトは自分の天幕を見た。

「少しだけ。急ぎの書類を…」


「皆、同じですね」

リュシエンヌが笑った。


*


一通りの挨拶が終わると、ヴァルデルはノクスのもとへ歩いていった。


黒い天馬は草地の先を見ていた。

風に長いたてがみが流れ、畳んだ翼の表面を、光がゆっくり移っていく。

父が近づくと、大きな首が下がった。

しばらく、二人とも動かなかった。


やがて父が、勢いよく息子を振り返った。

「もう、生まれているはずだそうだ」


レオンハルトは、すぐに何の話か分かった。

「ノクスの仔ですか」


「天馬は、十一か月ほどで産むらしい。今頃は母親のそばで、ふらふら飛んでいる頃だと」

ヴァルデルは草地へ目を走らせた。

林の端から、遠くの空へ。

それから、またノクスを見る。

「ここにいる間に、母親が連れてくるだろうと言っている」


まだ、到着したばかりだった。

今からずっとそうして待つのだろうか。

レオンハルトは呆れながらも、頬が緩むのを感じた。

「父上。まず、荷を解きましょう」


「分かっている」

答えても、父の視線はまた空へ戻った。


背後で、誰かが小さく笑った。

振り返ると、アドリアンとリゼリアが来ていた。

肩より下で束ねたアドリアンの淡い金髪を、風が細くほどいている。

隣のリゼリアは、巻き毛を片手で押さえながら、目を丸くしてヴァルデルを見ていた。

「ノクスの仔に、会えるの?」


「滞在中に来てくれるいいんだけど…」

レオンハルトが答えると、リゼリアも草地の方へ顔を向け、背伸びをして遠くを探している。

待ちきれない者が、一人増えたようだ。


アドリアンが、その横顔を見て笑う。

「先に荷を解いてから、待てばいいだろう?」


「分かってるわ」


父と同じ返事だった。

レオンハルトはこらえきれずに笑った。


三人で天幕へ向かいながら、自然に村の話になった。

ポルフィラの村を初めて二人で訪ねた夜のことは、前の会議で、十分に聞かせてもらっている。

広場の宴も、トーマとリナの結婚の話も、ドランとミレアが温かく迎えてくれたことも。


それからも二人は、仕事の合間に時間を作っては訪ねているらしかった。


「この間は、ミレアさんに新しい料理を教わったの」

リゼリアが楽しそうに話した。

「帰るつもりでいたのに、味を見ていってと言われて。そのまま夕食まで」


「断れる誘いではないな」

アドリアンが言った。


「ドランさんも、仕事が増えて忙しそう。あの笑い声は、相変わらずだけど」


レオンハルトは二人の話を聞いた。

二人とも、気を張って訪ねる村ではなくなったのだろう。

ドラン達の家の事が、当たり前のようにでてくる。

娘がいない寂しさを、この二人が少しずつ埋めているのかもしれない…

そして、訪ねている二人の方も、あの家で何かを受け取っている。

自分にも、それができたら…

思わず浮かんだ気持ちを、レオンハルトは飲み込んだ。

自分は王として、安易に友人の家に遊びに行ったりはできない…


足を止めると、二人が振り返った。

「次に行くときは、私も皆に会いたがっていると伝えて欲しい」


アドリアンが頷いた。


「帰ったら、また報告するね」

リゼリアも微笑んだ。


レオンハルトは礼を言い、案内に来た家臣へ顔を向けた。

天幕の前では、荷を解き終えた人々が草地へ目を向けていた。

「今回、誰かが天馬と繋がれるといいけど」

レオンハルトが言うと、アドリアンも頷いた。


「皆、空に翼が見えるたび、顔を上げている…」


「私まで、見てしまう」

リゼリアが笑った。


三人で腰を下ろし、レオンハルトは父から聞いた話をもう少し詳しく伝えた。

ノクスの相手は白い天馬だったこと。

仔はすでに生まれ、今頃は母親について飛んでいるはずだということ。


「そんなに小さいうちから、飛べるの?」

リゼリアの目が輝いた。

「私、天馬の仔を見たことがないから」


「私も」

アドリアンも、草地の先へ目を向けた。

「ぜひ、会いたいな…」


夕食は、天幕の前に並べた食卓で取った。


「白い天馬ですか?」

ノクスの話を聞いたロデリクも、レオンハルトと同じように驚いた。


「私も、黒か濃灰の相手だろうと思っていました」


「ノクスには、ノクスの好みがあるのでしょう」

リュシエンヌが答えると、ヴァルデルは満足そうに頷いた。


「会えば、分かる」


「父上は、すっかり気に入っておられますね」


「おまえも見ればよい」


レオンハルトへそう返すヴァルデルの顔を見て、ロデリクの口元も緩んだ。


「仔馬は、どちらの色に似るのでしょうね」

イレーヌが空へ目を向けた。

「黒い仔でしょうか。それとも白い仔かしら」


「見つけやすいのは、白ですね。林の陰にいても分かりそうです」

エミールが言うと、コンラートは首を振った。


「私は、まず仔馬の大きさが想像できません」


「私もです」

リゼリアがすぐに同意し、アドリアンも頷いた。

仔の話をしている間は、誰も書状や領地の仕事へ目を戻さなかった。


食事が進むと、レオンハルトはイレーヌへ尋ねた。

「母君は、お元気か?」


「はい。任せたとおっしゃった仕事でも、すぐ様子を見に来ます」


「父もです」

エミールが言った。

「何か聞かれるのかと思っていると、困っていないか、と。それだけ言って戻られます」


リュシエンヌが言った。

「では、帰ったら、こちらで困っていなかったと伝えなければ」


「天馬と繋がれたという知らせも、持って帰れるとよいのですが」

エミールの言葉に、レオンハルトも頷いた。


空への期待を、今夜は気兼ねなく話せた。

その日の夕食では、誰もが翌日の空を楽しみにしていた。


*


毎日、天馬たちは天幕の上を飛んだ。

遠くで羽ばたいていたかと思うと、風に乗って近づき、大きな影が草地を横切る。

人々は話を止め、食事の手を休め、その姿を見送った。


だが、誰かの前へ降りてくる天馬はいなかった。


近くの丘へ下りた一頭を、若い参加者がじっと見つめていたこともあった。

天馬はしばらく草を食み、やがて翼を広げて飛び去った。

翌朝も、その若者は同じ丘の方を見ていた。

幼い自分を思い出し、レオンハルトは声を掛けずに通り過ぎた。


ヴァルデルも、折に触れて空を見上げていた。

ノクスのそばで何かを聞き、それからまた草地の先へ視線を送る。

まだ来ないのかと尋ねているのだろう。

レオンハルトは、少し離れた所から、その姿を眺めていた。


*


行事が明日で終わるという日の、昼食後だった。


ヴァルデルが、はっと顔を上げた。

すぐそばのノクスが首を伸ばし、空の一点を見ている。

「来たぞ」

父の声に、レオンハルトも振り返った。


遠くに、白い翼が見えた。

その脇に、もう一つ、小さな影がある。

大きな天馬のそばを、少し上がったり下がったりしながら飛んでいた。

母親が羽ばたくと、幼い方も懸命に翼を動かしてついてくる。


「ノクスの仔だ」

ヴァルデルが言った。


食器を片づけていた者まで、手を止めた。

天幕から人が出てくる。

リゼリアとアドリアンも、レオンハルトの隣へ並んだ。

皆、息を呑んで、二つの影が近づくのを待っていた。


母親は、人々から離れた草地へ下りた。

白い翼が大きく開き、風を受け止めて畳まれる。

仔は少し遅れてふらふらと着地した。

脚を踏み直し、体を揺らしてから、母親のそばに立つ。


ノクスが鳴いた。


仔の耳が、ぴんとこちらを向いた。

母親を一度見上げ、それから父親の方へ歩き出す。


「大きい……」

リゼリアが呟いた。


乳飲み仔だと聞いていても、普通の馬ほどはある。

それでも、そばにいる母親と比べれば、ひどく小さかった。

まだ短いたてがみは、つんつんと立っていた。

歩くたびに耳が動き、毛が伸びてないので、とうもろこしの様に見えるまだ短い尻尾を、せわしなく振っている。


誰かが、小さく笑みをこぼした。

リゼリアは両手を口元へ寄せている。


だが、仔が近づくにつれ、別のざわめきが広がった。


「あの色は……」

エミールが言いかけ、言葉を切った。


黒でも、白でもなかった。


一頭の体の上で、黒と白がくっきりと分かれている。

首から肩へ黒い模様が広がり、白い胴の上にも、墨を置いたような大きな斑があった。

歩くたび、畳まれた翼の縁にも二つの色が覗く。


黒白の斑毛。

こんな天馬を、レオンハルトは見たことがなかった。


「…記録にも、なかったはずだ」

誰かが言った。


ヴァルデルさえ、口を開きかけたまま仔を見ている。

古い記録を読み続けてきた父にも、思い当たるものがないらしかった。


色が濃いほど強い。

では、この仔はどうなのだろう。

黒い父と、白い母。

その両方の色を持つ天馬は、どんなふうに育つのか。

戸惑う声が重なった。


仔は父に辿り着き、ノクスへ鼻先を伸ばした。

父親が首を低くする。

二つの鼻先が触れ、仔の尻尾がまた勢いよく振られた。


ヴァルデルが、ノクスへ顔を向けた。

何かを聞いたように目を見開き、それから、ゆっくり頷く。

「特別な子になると、言っている」


その声に、皆が黒い天馬を見た。


仔馬には、そのとき、細い光が見えていた。

自分から伸びた光の線が、人々の中の一人へ繋がっている。

風が吹いても揺れず、淡く輝く先に、男が立っていた。

これは、何だろう?

仔馬は首を傾けた。

顔の向きを変えても、光の先は同じ男のところにあった。

その先へ行ってみたくなった。

父親のそばを離れ、一歩踏み出す。

少し足元を揺らしながら、光の線をたどって歩き始めた。


*


レオンハルトは、仔と目が合った気がした。

大きく見開かれた目が、こちらを見ている。

近づいてくる仔から目を離せず、彼はその場に立っていた。


アドリアンが息を呑んだ。

リゼリアの手が、口元で止まる。

二人には、分かった。

かつて自分たちが天馬と出会ったときと、同じことが起きている。

ヴァルデルも、息子へ目を移したまま動かなかった。

見間違えようがなかった。

ノクスと繋がった日のことを、今も覚えている。

ノクスもまた、仔とレオンハルトの間に何が起きたのかを知っていた。

呼び戻すことはせず、静かに息子を見守っている。


ざわめきが消えた。


レオンハルトには、皆が何に気づいたのか分からなかった。

ただ、黒白の仔馬が、迷わず自分へ向かってくる。


仔は、彼の前で足を止めた。

近くで見ると、思っていたより顔の位置が高い。

幼いたてがみが風に逆らって立ち、その下の目が、上から彼をじっと見つめていた。


レオンハルトも、その目を見返した。


仔馬は、光の先にいた男を不思議そうに眺めた。

何が起きたのかは、まだ分からない。

それでも、話しかけてみたかった。

〈僕の声聞こえる?〉

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