後日譚 5 まだ見ぬ仔馬
王都へ戻った父を見て、レオンハルトは、まず日に焼けた顔に気づいた。
短く刈り込んだ銀に近い金髪が、褐色を帯びた額の上でいっそう明るく見える。太い眉の下には薄青の瞳があり、城を出る前よりも、目に力が戻っていた。
「長く、外で過ごされたのですね」
「天幕にいても、落ち着かんのでな」
そう答えたヴァルデルは、ノクスの鞍から下ろされる荷へ目を向けた。
持っていった記録も、戻ってきている。
だが、すぐに続きを読もうとはせず、父は黒い天馬の首へ手を伸ばした。
その夜、レオンハルトは久しぶりに父と食事を共にした。
飼育場では、どこへ天幕を張ったのか。
ほかの天馬は、近くまで来たのか。
尋ねると、父は思っていたよりよく話した。
明け方に翼の音で目が覚めたこと。
草を食む天馬を眺めているうち、読むつもりの記録を膝に置いたまま、日が傾いていたこと。
レオンハルトは、話が途切れるのを待って尋ねた。
「それで、ノクスの相手は見つかったのですか」
「ああ。紹介してもらった」
父の口元が緩んだ。
レオンハルトも、つられて微笑んだ。
「やはり、黒い天馬でしたか」
最も強いとされる黒い天馬のノクスが選ぶ相手だ。
黒い雌の天馬か、それに次ぐ濃灰の、立派な相手を思い浮かべていた。
ヴァルデルは杯を置いた。
「白だ」
レオンハルトは父を見た。
「…白い天馬、ですか?」
「そうだ」
色が濃いほど、天馬は大きくて能力も強い。
黒を頂点とする序列の中で、白は最も弱い色だった。
黒と白。大きさも違う…
並ぶ姿を想像しようとして、少し戸惑った。
「そういうことも、あるのですね……」
「私も驚いた。だが、ノクスの選んだ相手だ」
父には、何の不満もなさそうだった。
「そばへ来ると、あれも機嫌がよくてな」
鷲鼻の下で、男らしい口元がまた綻ぶ。
以前なら、このような顔をする父など、想像できなかった。
「来年には、仔馬が走っているだろう」
その声には、待ち遠しさが隠れていなかった。
レオンハルトはワインを口へ運び、笑いを収めた。
孫の誕生を心待ちにする祖父のようだと思った。
何であれ、父とノクスが幸せなら、それでよい。
「来年は、私たちも飼育場へ行くことになりました」
会議で決めたことを伝えると、父は顔を上げた。
「規模は小さくします。滞在も会食も、簡素なものに。それでも、天馬と出会い、繋がる機会は残していこうと」
「続けた方がよい」
ヴァルデルは頷いた。
「天馬は、豪奢な天幕に惹かれて来るわけではない」
*
父が戻ってからも、王としての日々が続いた。
一つ片づいたと思えば、次の知らせが届いた。
ポルフィラは、まだ帰らない。
夕食の席で、ふと話題になることがあった。
「今頃は、どんな所を飛んでいるのでしょうね?」
レオンハルトが言うと、父も窓の方へ目を向けた。
「あの竜の背なら、随分遠くまで行けるだろうな…」
それから、少し間を置いて続けた。
「…私も、見てみたいものだ」
レオンハルトは杯から顔を上げた。
「この国の外を、ですか」
「ああ。まだ知らぬ土地を」
父は食卓へ目を戻した。
「果たさねばならんことは、残っている。それを済ませたら、という話だ」
ヴァルデルは今も記録を読み、人々の暮らしを傷つけた自分の政治について調べていた。
外へ出る時間は増えたが、その仕事をやめたわけではない。
レオンハルトは頷いた。
「そのときは、旅先の話を聞かせてください」
父は少し意外そうに息子を見て、それから、ああ、と答えた。
*
年が明け、天馬の飼育場へ向かう日が来た。
参加者の調整に時間が掛かり、例年より二か月ほど遅い開催となった。
王と領主、あるいはその代理に加え、参加を希望した少数の者たちが集まる。
これまでは、招かれた家の人々が集まり、費用はすべて税で賄われていた。
今年は貴族たちへ広く呼びかけ、参加にあたって金を募る形へ変えた。
集めた金は、反乱で犠牲になった人々への補償に充てる。
寄付をしてでも参加したいという申し出が届いた。
領主の代理で来る者も、寄付を納めて参加する。
ここで自領から来た人々の取りまとめをしながら、天馬と出会う機会も得る。
その経験を子供たちに積ませようと、今回は代理を送った家もあった。
その顔ぶれを確かめ、人数を整え、ようやく今日を迎えたのだった。
飼育場に着くと、レオンハルトは馬車を降りて辺りを見渡した。
草地が遠くまで続いている。
なだらかな起伏の向こうに林があり、その上を天馬の影が横切った。
幼いころに見た景色だった。
だが、今年は幾重にも幕を巡らせた宴の場も、次々に料理を運ぶ大勢の使用人もいない。
必要な天幕を張る人々の間を、領主の家臣たちが行き来していた。
その一角で、ヴァルデルが参加者へ頭を下げていた。
「申し出に、感謝する」
相手は驚いたように姿勢を正し、慌てて礼を返した。
父は一人ずつ言葉を交わしている。
寄付を集めるこの場で、自分から礼を述べることも責任の一つだと、出発前に話していた。
レオンハルトもそちらへ向かい、参加者を迎える挨拶に加わった。
「父に代わり、参りました。エミール・ヴェルディアです」
クラウスの息子が、一礼した。
その隣には、レオノーラの娘イレーヌ・オランデルがいる。
「母から、陛下と皆様によろしくと。こちらでは、私がオランデル家の代理を務めます」
「二人とも、来てくれてありがとう。留守を任されていたときとは、少し違う仕事になるだろうけど…」
レオンハルトが言うと、エミールは頷いた。
「父を送り出す支度は何度もしましたが、自分が留守をするとなると、やり残した事が無いか気になって…」
「出発の直前まで、家臣に聞いていましたものね」
イレーヌに言われ、彼は苦笑した。
「あなたも、書類を離さなかったでしょう」
「ええ。母に私に任せてさっさと行きなさいと言われました」
二人のやりとりを聞いて、レオンハルトは微笑んだ。
リゼリアとともに来たコンラート・インディルも、挨拶に加わった。テオバルトの実子で、今はリゼリアを支えている。
「こちらにいる間も、領地の報告は届くようにしてあります」
コンラートが言うと、リゼリアは彼を見上げた。
「報告書は私に任せて、天馬を見る時間を優先してね。そのために来たんだから…」
「もちろん」
彼も寄付を納め、補佐の仕事と、天馬に出会う機会の両方を得るために参加していた。
「領地へ残す仕事が、皆、気になるようですね」
声を掛けたのは、ロデリクだった。
リュシエンヌも、そのそばへ来ている。
「陛下も、何かお持ちになったのでは?」
尋ねられ、レオンハルトは自分の天幕を見た。
「少しだけ。急ぎの書類を…」
「皆、同じですね」
リュシエンヌが笑った。
*
一通りの挨拶が終わると、ヴァルデルはノクスのもとへ歩いていった。
黒い天馬は草地の先を見ていた。
風に長いたてがみが流れ、畳んだ翼の表面を、光がゆっくり移っていく。
父が近づくと、大きな首が下がった。
しばらく、二人とも動かなかった。
やがて父が、勢いよく息子を振り返った。
「もう、生まれているはずだそうだ」
レオンハルトは、すぐに何の話か分かった。
「ノクスの仔ですか」
「天馬は、十一か月ほどで産むらしい。今頃は母親のそばで、ふらふら飛んでいる頃だと」
ヴァルデルは草地へ目を走らせた。
林の端から、遠くの空へ。
それから、またノクスを見る。
「ここにいる間に、母親が連れてくるだろうと言っている」
まだ、到着したばかりだった。
今からずっとそうして待つのだろうか。
レオンハルトは呆れながらも、頬が緩むのを感じた。
「父上。まず、荷を解きましょう」
「分かっている」
答えても、父の視線はまた空へ戻った。
背後で、誰かが小さく笑った。
振り返ると、アドリアンとリゼリアが来ていた。
肩より下で束ねたアドリアンの淡い金髪を、風が細くほどいている。
隣のリゼリアは、巻き毛を片手で押さえながら、目を丸くしてヴァルデルを見ていた。
「ノクスの仔に、会えるの?」
「滞在中に来てくれるいいんだけど…」
レオンハルトが答えると、リゼリアも草地の方へ顔を向け、背伸びをして遠くを探している。
待ちきれない者が、一人増えたようだ。
アドリアンが、その横顔を見て笑う。
「先に荷を解いてから、待てばいいだろう?」
「分かってるわ」
父と同じ返事だった。
レオンハルトはこらえきれずに笑った。
三人で天幕へ向かいながら、自然に村の話になった。
ポルフィラの村を初めて二人で訪ねた夜のことは、前の会議で、十分に聞かせてもらっている。
広場の宴も、トーマとリナの結婚の話も、ドランとミレアが温かく迎えてくれたことも。
それからも二人は、仕事の合間に時間を作っては訪ねているらしかった。
「この間は、ミレアさんに新しい料理を教わったの」
リゼリアが楽しそうに話した。
「帰るつもりでいたのに、味を見ていってと言われて。そのまま夕食まで」
「断れる誘いではないな」
アドリアンが言った。
「ドランさんも、仕事が増えて忙しそう。あの笑い声は、相変わらずだけど」
レオンハルトは二人の話を聞いた。
二人とも、気を張って訪ねる村ではなくなったのだろう。
ドラン達の家の事が、当たり前のようにでてくる。
娘がいない寂しさを、この二人が少しずつ埋めているのかもしれない…
そして、訪ねている二人の方も、あの家で何かを受け取っている。
自分にも、それができたら…
思わず浮かんだ気持ちを、レオンハルトは飲み込んだ。
自分は王として、安易に友人の家に遊びに行ったりはできない…
足を止めると、二人が振り返った。
「次に行くときは、私も皆に会いたがっていると伝えて欲しい」
アドリアンが頷いた。
「帰ったら、また報告するね」
リゼリアも微笑んだ。
レオンハルトは礼を言い、案内に来た家臣へ顔を向けた。
天幕の前では、荷を解き終えた人々が草地へ目を向けていた。
「今回、誰かが天馬と繋がれるといいけど」
レオンハルトが言うと、アドリアンも頷いた。
「皆、空に翼が見えるたび、顔を上げている…」
「私まで、見てしまう」
リゼリアが笑った。
三人で腰を下ろし、レオンハルトは父から聞いた話をもう少し詳しく伝えた。
ノクスの相手は白い天馬だったこと。
仔はすでに生まれ、今頃は母親について飛んでいるはずだということ。
「そんなに小さいうちから、飛べるの?」
リゼリアの目が輝いた。
「私、天馬の仔を見たことがないから」
「私も」
アドリアンも、草地の先へ目を向けた。
「ぜひ、会いたいな…」
夕食は、天幕の前に並べた食卓で取った。
「白い天馬ですか?」
ノクスの話を聞いたロデリクも、レオンハルトと同じように驚いた。
「私も、黒か濃灰の相手だろうと思っていました」
「ノクスには、ノクスの好みがあるのでしょう」
リュシエンヌが答えると、ヴァルデルは満足そうに頷いた。
「会えば、分かる」
「父上は、すっかり気に入っておられますね」
「おまえも見ればよい」
レオンハルトへそう返すヴァルデルの顔を見て、ロデリクの口元も緩んだ。
「仔馬は、どちらの色に似るのでしょうね」
イレーヌが空へ目を向けた。
「黒い仔でしょうか。それとも白い仔かしら」
「見つけやすいのは、白ですね。林の陰にいても分かりそうです」
エミールが言うと、コンラートは首を振った。
「私は、まず仔馬の大きさが想像できません」
「私もです」
リゼリアがすぐに同意し、アドリアンも頷いた。
仔の話をしている間は、誰も書状や領地の仕事へ目を戻さなかった。
食事が進むと、レオンハルトはイレーヌへ尋ねた。
「母君は、お元気か?」
「はい。任せたとおっしゃった仕事でも、すぐ様子を見に来ます」
「父もです」
エミールが言った。
「何か聞かれるのかと思っていると、困っていないか、と。それだけ言って戻られます」
リュシエンヌが言った。
「では、帰ったら、こちらで困っていなかったと伝えなければ」
「天馬と繋がれたという知らせも、持って帰れるとよいのですが」
エミールの言葉に、レオンハルトも頷いた。
空への期待を、今夜は気兼ねなく話せた。
その日の夕食では、誰もが翌日の空を楽しみにしていた。
*
毎日、天馬たちは天幕の上を飛んだ。
遠くで羽ばたいていたかと思うと、風に乗って近づき、大きな影が草地を横切る。
人々は話を止め、食事の手を休め、その姿を見送った。
だが、誰かの前へ降りてくる天馬はいなかった。
近くの丘へ下りた一頭を、若い参加者がじっと見つめていたこともあった。
天馬はしばらく草を食み、やがて翼を広げて飛び去った。
翌朝も、その若者は同じ丘の方を見ていた。
幼い自分を思い出し、レオンハルトは声を掛けずに通り過ぎた。
ヴァルデルも、折に触れて空を見上げていた。
ノクスのそばで何かを聞き、それからまた草地の先へ視線を送る。
まだ来ないのかと尋ねているのだろう。
レオンハルトは、少し離れた所から、その姿を眺めていた。
*
行事が明日で終わるという日の、昼食後だった。
ヴァルデルが、はっと顔を上げた。
すぐそばのノクスが首を伸ばし、空の一点を見ている。
「来たぞ」
父の声に、レオンハルトも振り返った。
遠くに、白い翼が見えた。
その脇に、もう一つ、小さな影がある。
大きな天馬のそばを、少し上がったり下がったりしながら飛んでいた。
母親が羽ばたくと、幼い方も懸命に翼を動かしてついてくる。
「ノクスの仔だ」
ヴァルデルが言った。
食器を片づけていた者まで、手を止めた。
天幕から人が出てくる。
リゼリアとアドリアンも、レオンハルトの隣へ並んだ。
皆、息を呑んで、二つの影が近づくのを待っていた。
母親は、人々から離れた草地へ下りた。
白い翼が大きく開き、風を受け止めて畳まれる。
仔は少し遅れてふらふらと着地した。
脚を踏み直し、体を揺らしてから、母親のそばに立つ。
ノクスが鳴いた。
仔の耳が、ぴんとこちらを向いた。
母親を一度見上げ、それから父親の方へ歩き出す。
「大きい……」
リゼリアが呟いた。
乳飲み仔だと聞いていても、普通の馬ほどはある。
それでも、そばにいる母親と比べれば、ひどく小さかった。
まだ短いたてがみは、つんつんと立っていた。
歩くたびに耳が動き、毛が伸びてないので、とうもろこしの様に見えるまだ短い尻尾を、せわしなく振っている。
誰かが、小さく笑みをこぼした。
リゼリアは両手を口元へ寄せている。
だが、仔が近づくにつれ、別のざわめきが広がった。
「あの色は……」
エミールが言いかけ、言葉を切った。
黒でも、白でもなかった。
一頭の体の上で、黒と白がくっきりと分かれている。
首から肩へ黒い模様が広がり、白い胴の上にも、墨を置いたような大きな斑があった。
歩くたび、畳まれた翼の縁にも二つの色が覗く。
黒白の斑毛。
こんな天馬を、レオンハルトは見たことがなかった。
「…記録にも、なかったはずだ」
誰かが言った。
ヴァルデルさえ、口を開きかけたまま仔を見ている。
古い記録を読み続けてきた父にも、思い当たるものがないらしかった。
色が濃いほど強い。
では、この仔はどうなのだろう。
黒い父と、白い母。
その両方の色を持つ天馬は、どんなふうに育つのか。
戸惑う声が重なった。
仔は父に辿り着き、ノクスへ鼻先を伸ばした。
父親が首を低くする。
二つの鼻先が触れ、仔の尻尾がまた勢いよく振られた。
ヴァルデルが、ノクスへ顔を向けた。
何かを聞いたように目を見開き、それから、ゆっくり頷く。
「特別な子になると、言っている」
その声に、皆が黒い天馬を見た。
仔馬には、そのとき、細い光が見えていた。
自分から伸びた光の線が、人々の中の一人へ繋がっている。
風が吹いても揺れず、淡く輝く先に、男が立っていた。
これは、何だろう?
仔馬は首を傾けた。
顔の向きを変えても、光の先は同じ男のところにあった。
その先へ行ってみたくなった。
父親のそばを離れ、一歩踏み出す。
少し足元を揺らしながら、光の線をたどって歩き始めた。
*
レオンハルトは、仔と目が合った気がした。
大きく見開かれた目が、こちらを見ている。
近づいてくる仔から目を離せず、彼はその場に立っていた。
アドリアンが息を呑んだ。
リゼリアの手が、口元で止まる。
二人には、分かった。
かつて自分たちが天馬と出会ったときと、同じことが起きている。
ヴァルデルも、息子へ目を移したまま動かなかった。
見間違えようがなかった。
ノクスと繋がった日のことを、今も覚えている。
ノクスもまた、仔とレオンハルトの間に何が起きたのかを知っていた。
呼び戻すことはせず、静かに息子を見守っている。
ざわめきが消えた。
レオンハルトには、皆が何に気づいたのか分からなかった。
ただ、黒白の仔馬が、迷わず自分へ向かってくる。
仔は、彼の前で足を止めた。
近くで見ると、思っていたより顔の位置が高い。
幼いたてがみが風に逆らって立ち、その下の目が、上から彼をじっと見つめていた。
レオンハルトも、その目を見返した。
仔馬は、光の先にいた男を不思議そうに眺めた。
何が起きたのかは、まだ分からない。
それでも、話しかけてみたかった。
〈僕の声聞こえる?〉




