後日譚 4 帰っておいで
「広場に食卓を出しませんか?」
セラが言うと、ドランは手にしていた槌を置いた。
「広場に?」
「来たい人に料理を持ってきてもらって、皆で食べるんです。ランプも吊るして」
リナが、隣で頷いた。
「パン屋さんも、焼いてくれるそうです。せっかくお二人が来るんだからって」
村へ移り住んできた天馬の民が、パンを焼いて売る店を始めていた。今では朝の道に焼きたての匂いが漂い、畑へ出る前に立ち寄る者もいる。
その店の主が、自由のために動いてくれた領主を村へ迎えられるのは嬉しいと言ったらしい。
ドランは腕を組んだ。
頭の中では、もう広場に明かりが灯っていた。
「いいな。それは、いい」
声が大きくなり、家から出てきたミレアが笑った。
「聞こえていますよ」
「おまえはどう思う」
「うちの料理だけでは、足りなくなりそうですね」
ドランが笑うと、セラとリナも顔を見合わせた。
ポルフィラが旅立って、一年になる。
仕事をしている間は、手を止めずにいられる。だが、ふと家へ戻ったとき、娘が顔を出すはずの戸口を見てしまうことがあった。
ミレアも、空を見上げて立っている日がある。声を掛けると振り返って微笑むが、その直前の寂しそうな横顔を、ドランは何度か見ていた。
娘は無事だ。
そう信じていた。
何かあれば、あの竜が連れて帰る。
どれほど遠くにいても、どんな事をしてでも、娘をここへ戻してくれるだろう。
それでも、声を聞きたくなる。
今度訪ねてくる二人は、ポルフィラではない。
だが、迎える日を数えているうちに、息子と娘が帰ってくるような気持ちになっていた。
「肉も、もう少し用意しましょう」
ミレアが指を折り始めた。
「町で買った香草が残っているわ。それを使って焼いて、野菜の煮込みと……甘いものも欲しいわね」
以前は、手に入る物で食事を整えるのが精いっぱいだった。
町で買い物をするようになり、知らなかった食材や味つけを覚えた。ドランへの仕事の依頼も増え、今は何を買うにも、諦める必要はなくなっている。
「今日は、たっぷり作ってくれ」
「そのつもりよ」
ミレアは楽しそうに答え、台所へ戻った。
*
昼を過ぎると、広場へ食卓と椅子が運び込まれた。
町から戻ったトーマが、手伝いに加わる。輸送の仕事は順調で、今は町に店も構えていた。
その仕事を手伝ってきたリナも、荷を解く手つきがすっかり慣れている。
「それは、こっちへ置こう」
「ここだと、人が通りにくくない?」
二人で食卓の位置を直していると、ガルが横から持ち上げた。
「来月からも、そうやって相談してくれよ」
リナが顔を赤くした。
二人は、来月結婚する。
仕事の相談をするうちに、互いがいなければ困る相手になっていた。
ガルは、領を守る職業兵士になった。
休みを合わせて戻ってきた今日は、制服ではなく、村にいた頃のような服を着ている。それでも荷を軽々と運ぶ体つきに、鍛錬の跡が見えた。
「仕送りはもう十分だと、また言われたよ」
親の話になり、ガルが苦笑する。
「自分のためにも使えってさ」
「心配なんだよ」
シオンが、ランプを置きながら答えた。
彼は町の医療機関で、薬を作る仕事に就いている。祖父と薬草を育ててきた知識が役に立ち、今では使う分の仕分けや調合を任されるようになっていた。
「今日は、仕事の話はあと。暗くなる前に終わらせよう」
セラに急かされ、皆が手を動かした。
広場の端では、彼女が乗ってきた馬が草を食んでいる。
セラは新しい教科書を作る仕事を希望し、町で雇われた。
昔の記述を確かめ、書き直す作業を手伝っている。
自分の馬を持てるようになり、それで町へ通っていた。
「ポルフィラがいたら、笑ってばかりいて、ちっとも手伝わないかもな」
ガルの言葉に、リナが笑った。
「手伝いながら笑ってるよ。ずっと」
ドランは家の前で、その声を聞いていた。
槌を振るっているときとは違う熱が、胸へ広がった。
*
二頭の天馬が村外れへ下りた頃、家々から料理の皿が広場へ運ばれていた。
鞍を下ろして天馬たちを休ませ、アドリアンとリゼリアはドランの家へ向かった。
戸口には、もうドランが立っていた。
「よく来てくれた」
その声を聞いた途端、アドリアンの肩から力が抜けた。
「お招きいただいて、ありがとうございます」
「私まで、ご一緒させていただいて」
リゼリアが頭を下げると、ドランは笑って手を振った。
「堅い挨拶は、あとにしよう。泊まるのは村長の家だ。うちより広いから、ゆっくり休める」
荷物を置く場所を教え、それから広場へ案内した。
二人は、道を曲がった所で足を止めた。
食卓が並び、ランプが吊るされている。
焼いた肉、煮込み、果物、切り分けたパン。
料理を置く場所を探す人の横で、子供が待ちきれずに皿を覗いていた。
「これを……私たちのために?」
リゼリアの声に、ドランが頷く。
「皆が、迎えたいと言ってな」
アドリアンは、何も言えなかった。
手を振る顔がある。
城へ来て膝をつくのでも、天馬を見て逃げるのでもなく、こちらへ来いと笑っている。
ミレアが、空けてあった席へ二人を導いた。
ドラン、アドリアン、リゼリア、ミレアの順に並んで座ると、前へ杯が置かれた。
皆の席が落ち着くのを待ち、ドランが立ち上がった。
「今日は、来てくれてありがとう」
広場が静かになった。
「俺たちは今、自分で仕事を選べる。町へ行って買い物もできる。ここを出て暮らすことも、ここに残ることも、自分で決められるようになった」
ドランは二人を見た。
「そうなるために、戦ってくれた。村の皆を代表して、礼を言わせてほしい。本当に、ありがとう」
ありがとう、と声が重なった。
近くからも、卓の向こうからも聞こえた。
リゼリアは杯を両手で包み、深く頭を下げた。
隣で、アドリアンも頭を下げていた。
ドランが腰を下ろし、彼へ少し身を寄せた。
「君には、つらいことも多かっただろう」
アドリアンの指が、杯の縁で止まった。
「それでも自分から、こっちへ来てくれた。そのことを、俺たちは忘れない」
父と弟の顔が浮かんだ。
今夜、ここで笑ってよいのだろうかと、一瞬思った。
その迷いまで見えたように、ドランの手が肩へ置かれた。
「君が来てくれて、嬉しいんだ」
アドリアンは顔を上げた。
ドランは少し照れたように笑う。
「君を、息子として迎えたかったよ…」
返事をしようとしたが、喉が詰まった。
何を言えばよいか分からず、ただ頷いた。
ミレアが二人の方へ顔を向けた。
「私たちは、お二人とも、自分たちの子供と同じように思っています」
リゼリアの大きな瞳が揺れた。
「だから、また帰ってきてください。ポルフィラがいなくても、遠慮しなくていいんですよ」
アドリアンは杯から手を離し、膝の上で握った。
「……ありがとうございます」
ようやく出た声は、思ったより小さかった。
ミレアは温かな料理を彼の皿へ取り分けた。
「さあ。冷めないうちに」
*
「今日は領主様じゃなくて、友達ですからね」
ガルが酒の瓶を持ってきた。
何度か顔を合わせている五人も、初めは少し遠慮していたが、食事が始まると、いつもの調子が戻ってきた。
「無礼講だって、ドランさんも言っていました」
「私の杯は、まだ空いていません」
リゼリアが守るように手を添えると、ガルはアドリアンの方を向いた。
「では、こちらから」
リナが笑いながら瓶を下げさせた。
「先に、食べてもらって。二人とも、まだ少ししか食べていないでしょう」
次々に料理を勧められ、話しかけられた。
アドリアンが何か答え終える前に、隣で別の話が始まる。
トーマとリナの結婚を知ると、リゼリアは椅子の上で身を乗り出した。
「いつ決まったんですか。私、まだ聞いていません」
「言おうと思っていたんです。会ったら」
リナが頬を赤くし、トーマは皆から同じ話をせがまれていた。
ドランの笑い声が広場へ響く。
誰かがつられ、その隣でも笑いが起きる。
アドリアンも笑った。
少し離れた卓の話までは聞こえなかったが、それでも楽しかった。
ランプの明かりが、リゼリアの巻き毛を白金色に縁取った。丸い頬は酒と笑いで赤くなり、人の話を聞くたび、灰青色の瞳がくるくると動く。
アドリアンの長い髪も、夜風に揺れていた。
いつも冷淡に見られがちな目元がほどけ、藍色を帯びた瞳に、向かいの灯りが小さく映っている。
料理を運んできたミレアは、その顔を見て微笑んだ。
空になった皿を下げると、今度は甘いものを置いていった。
夜は更けても、席を立つ人は少なかった。
*
宴が終わったあと、二人は村長の家へ向かって歩いた。
道の後ろでは、まだ片づけをする音がする。
手伝おうとしたが、今日は客だからと、ドランに追い立てられた。
「楽しかったね…」
リゼリアが言った。
「ああ」
アドリアンの返事は、いつもより柔らかかった。
しばらく並んで歩いたあと、リゼリアは横顔を見上げた。
「ポルフィラがいたら、もっと賑やかだったでしょうね」
アドリアンは少し黙り、頷いた。
「…きっと、君とリナの話へ割り込んでいた」
「それで、二人とも聞きたいことが違って、トーマが困るのよね」
二人で笑った。
だが、アドリアンはそのあと、広場の方を振り返った。
リゼリアは、その顔を見てしまった。
夕食の席でドランと話していた時も、彼は同じような顔をした。
嬉しそうなのに、どこか痛みをこらえているような…
「あなた、ポルフィラのことが好きなのね…」
言ってから、声を落とすべきだったと思った。
アドリアンは立ち止まらず、前を向きながら言った。
「今、気づいたのか」
その答えが静かで、リゼリアは胸が痛んだ。
ポルフィラは、帰ってくるだろう。
けれど、それがいつかは、自分にも分からない。
帰ってきた彼女が、何を望むのかも。
何か明るいことを言いたかった。
でも、待っていれば大丈夫とも言えなかった。
アドリアンが、こちらを見た。
「そんな顔をするな。君に困って欲しいわけじゃない」
「困っているんじゃなくて……」
言葉が続かなかった。
リゼリアは少し考え、それから肩をすくめた。
「あなたたち、お似合いなんだけど…」
アドリアンが軽く肘鉄をした。
「余計なことを」
リゼリアが笑うと、彼も笑った。
村長の家の戸口には、迎えの明かりが灯っていた。
*
翌朝、ドランとミレアは、村外れまで見送りに来てくれた。
シルヴァとソレインが首を低くし、二人が背へ上がるのを待つ。
リゼリアは鞍へ手を掛ける前に、ミレアのもとへ戻った。
「また、来てもいいですか」
「もちろん。待っています」
ミレアが両手を取ってくれた。
アドリアンは、ドランへ頭を下げた。
「お世話になりました」
「帰るときまで、そんな挨拶か?」
笑われて、アドリアンも口元を緩めた。
「また、来ます」
「ああ。いつでも」
二頭の天馬が、朝の空へ上がった。
下で振られる手を、リゼリアは家々が小さくなるまで見ていた。
城へ戻れば、仕事が山積みだ。
アドリアンにも、領地で向き合わなければならない仕事があった。
風を受けながら、彼は一度だけ村を振り返った。
昨日、あの広場で笑っていた人々の顔を思い出す。
〈戻ろう、ソレイン〉
手綱を支え直すと、天馬が翼を打った。




