後日譚3 会議のあとの約束
〈明日なの〉
シルヴァは、鼻先を押しつけてくるリゼリアを見下ろした。
〈聞いた〉
〈分かっているけれど、言わずにいられないの〉
白に近い金髪が、頬の横でくるくると跳ねていた。
レオンハルトやアドリアンの髪より短く、首を振るたび、巻いた毛先が弾む。
灰青色の大きな瞳は、今にも泣き言が続きそうに丸く開かれていた。
長い睫毛と小ぶりな鼻、丸みを残す頬が、人懐っこい可愛らしさを作っている。
その顔を曇らせているのは、明日の会議だった。
半年前には、テオバルトが隣にいてくれた。
今回は一人で行くようにと言われている。
〈マティアスさんも来てくださらないのよ〉
〈ほかの者は行くのだろう〉
〈家宰の見習い。私と同じで、初めてなの〉
日々の仕事は、テオバルトとマティアスに教わっている。
テオバルトの長男も補佐につき、うっかりした判断をしないよう、しっかり見ていてくれた。
だが、その誰も明日の席にはいない。
〈アドリアンは、どうしてあんなに落ち着いているのかしら。同じ年なのに〉
彼も、領主になってまだ長くはない。
それなのに、人の話を聞いているときも、自分の意見を述べるときも、何を言うべきか分かっているように見えた。
シルヴァは少し首を傾けた。
〈聞いてみればいい〉
〈落ち着く方法を?〉
〈知りたいのだろう〉
リゼリアは相手を見上げ、それから笑った。
〈そうね。それも聞いてみようかしら〉
世話係が片づけた庭は、静かだった。
人の前でこんなに愚痴をこぼすことはできない。
シルヴァは、最後まで聞いてくれる。
リゼリアは両手で鼻面を撫でた。
〈ありがとう。もう戻って、報告を読み直すわ〉
先に発った見習い家宰と家臣の一行は、もう王都へ着いているはずだった。
自分ばかりが不安な顔をしていては、彼まで困らせてしまう。
小柄な体を伸ばし、最後にもう一度シルヴァの顔へ触れた。
〈明日は、よろしくね〉
*
翌日、王都が見えてくる頃には、リゼリアの気持ちはすっかり軽くなっていた。
シルヴァが翼を広げ、風に乗る。
灰色の羽の先がわずかに開き、体の傾きが変わった。
鞍上のリゼリアにも、その動きが伝わってくる。
領主の仕事を学び始めてから、ゆっくり飛ぶ時間が減った。
今日も王都へ行くための飛行だが、二人きりで空にいるのは久しぶりだった。
〈気持ちがいいね〉
〈ああ〉
シルヴァの羽ばたきも、弾んでいるように感じた。
王都を訪れるのは半年ぶりだ。
城壁へ近づくにつれ、街道を行く荷車や、門を出入りする人々が見えた。
町の外れから城の着地場へ向かいながら、下の通りへ目をやる。
店先に緑や茶色の髪が見えた。
籠を提げた二人連れが並べられた品を覗き、一人が何かを取り上げる。
隣の者が首を傾げると、また別の品へ手が伸びた。
竜の民が買い物をしている。
ごく普通に、何を買うか迷っているのだ。
リゼリアは、思わず笑顔になった。
ポルフィラが見たら、喜ぶだろう。
そう思った途端、会いたくなった。
親戚で、友達で、一緒に恐ろしい日々をくぐり抜けた相手だった。
すぐ隣で、あの店へ行ってみようと声を上げても、おかしくない気がした。
それなのに、ちっとも帰ってこない。
手紙さえ、よこさない。
〈よほど楽しいのでしょうね…〉
何の事かと、シルヴァが片耳を動かした。
〈ポルフィラのことよ〉
付け足して、頬を膨らませた。
自分はこんなに忙しくしているのに、彼女は見知らぬ土地で、毎日面白いものを見つけているのだろう。
そんなことを考えていると、城の庭が見えた。
ヴェスペラとソレインが、もう休んでいる。
リゼリアは背筋を伸ばした。
〈シルヴァ、下りよう。急いで〉
空を楽しみすぎた。
下で待っている家臣の顔を見つけたとき、ようやく、そのことに気づいた。
*
「遅くなりました!」
会議室へ入ると、皆がこちらを向いた。
クラウスとロデリクは少し呆れた顔をし、レオノーラは口元を押さえ笑いを隠していた。
厳粛なリュシエンヌの視線が、リゼリアの乱れた巻き毛を見つめる。
アドリアンは、促すように空いている椅子へ目を向けた。
その隣には、先に入室していた見習い家宰が、背を固くして座っている。
「お待たせして、申し訳ありません」
もう一度頭を下げ、急いで席に着いた。
レオンハルトが苦笑した。
肩へ落ちる濃い金髪を後ろへ払い、皆へ顔を向ける。
「では、始めよう」
最初の報告を聞くうち、リゼリアの呼吸は落ち着いていった。
それぞれの領地で、新しい決まりが根づき始めていた。
町へ来た竜の民が、商人や職人と仕事の相談をする。
村では生産した物を売り、その金で暮らしていく。
まだ暮らしに余裕はなくても、次に何をするか、自分たちで考えるようになっている。
「こちらでは、天馬の民が村へ移ると言い出しました」
ロデリクの話に、リゼリアは顔を上げた。
「畑仕事をしたいと。これまで竜の民に任せていた者が、自分でも育ててみたくなったらしい」
「教える方は、戸惑ったでしょうね」
レオノーラが言うと、ロデリクは頷いた。
アドリアンも自領のことを話した。
「私の領地では、まだ、役人が話しかけるだけで怯える人が多いのです。訴えを聞こうとしても、何もないと言われる」
他の領主たちも、それぞれに経験した事を話した。
自領でうまくいったことでも、他の領ではかえって民を困らせる結果になったことも。
リゼリアは聞きながら、手元の紙へ書き留めた。
自分の領地でも試せそうなことがある。
やがて報告の順が回ってきた。
見習い家宰が、必要な記録をそっと前へ寄せてくれた。
リゼリアは一度だけ彼を見て、それから顔を上げた。
途中で言葉に詰まっても、皆は静かに待ってくれた。
記録を見て分かることには答え、分からないことは、戻って調べて返事をすると答えた。
すべてを話し終えたとき、いつのまにか体の力が抜けていることに気づいた。
財政の苦しさは、どの領地にも残っていた。
それでも、締めつけを緩めたことで働く意欲が増し、町や村へ活気が戻っているという報告は共通していた。
ポルフィラに、聞かせたい。
リゼリアは、今日だけで何度そう思ったか分からなかった。
話し合うべきことが一通り済むと、クラウスがレオンハルトへ尋ねた。
「父君は、お変わりありませんか」
「今は、ノクスと天馬の飼育場へ行っています」
繁殖の相手を探したいというノクスに、ヴァルデルも同行した。
その説明を聞いて、リゼリアは窓の外へ顔を向けた。
シルヴァは、まだそういう話をしていない。
気になってアドリアンを見ると、彼も少し考えているようだった。
「来年は、集まり方を変えて、飼育場へ行ってはどうでしょう」
レオノーラの提案に、皆の視線が戻った。
「今年と同じように、見送らずに……天馬と出会う機会は、残したいと思います」
レオンハルトは頷いた。
「人数と滞在日数を減らし、会食も簡素にしましょう。どのくらいの費用になるか、先に調べさせます」
「民の理解を得られる形で、ですね」
クラウスが確かめ、皆も同意した。
その準備を進めることを決めて、会議は終わった。
*
庭へ出ると、リゼリアは大きく息を吐いた。
「そんなに緊張していたのか?」
レオンハルトに尋ねられ、深く頷く。
「昨日から、ずっと。今、ようやくお腹が空きました」
アドリアンが笑った。
鋭い目元が和らぐと、普段の近寄りがたい印象が薄れ、ハンサムで好感の持てる青年になる。
リゼリアは、いつもそうしていればいいのにと思った。
三人で、庭の小道をゆっくり歩いた。
少し先では、それぞれの家臣が距離を置いてついてきている。
「ポルフィラにも、今日の話を聞かせたいわ…」
リゼリアが言うと、二人とも頷いた。
「でも、便りもないんです。手紙を書くって言っていたのに」
「………出しようがないだろう」
アドリアンが呆れたように言い、リゼリアは立ち止まった。
「どうして?」
「誰に託せば、この国まで運んでもらえるんだ?」
レオンハルトが、笑いをこらえながら付け足す。
「そもそも、手紙という文化があるかも分からない…言葉が通じるのかも」
リゼリアは二人を交互に見た。
「……ほんとだ…」
ずっと、少しくらい手紙を書いてくれればと思っていた。
届ける者がいないことなど、一度も考えなかった。
「君とポルフィラはよく似ている」
レオンハルトが笑いを堪えた声で言った。
「どういう意味ですか?」
「ポルフィラも手紙書くね、と皆に言っていた…私はどうやって届けるのだろうと不思議に思ったんだ」
レオンハルトの言葉にアドリアンは堪えきれずに吹き出した。
二人もつられて笑い出し、三人の笑い声が庭に広がった。
花の咲く植え込みを過ぎた所で、アドリアンが村へ寄るつもりだと話した。
リゼリアの足が、また止まった。
「ずるい!」
アドリアンが振り返った。
「私も、ドランさんたちに会いたいです」
「では、テオバルト様へ尋ねてみては。ドランさんにも知らせて、どちらからもよいと返事が来たら、一緒に行けばいい」
リゼリアの顔が明るくなった。
その横で、レオンハルトも口を開く。
「私も――」
「陛下は、王都のお仕事があります」
アドリアンの返事は早かった。
リゼリアも、すぐに頷いた。
「一国の王が、私たちと一緒に寄り道しては困ります」
「……少しだけでも」
「一国の王が、おいそれと一市民の家を訪ねるものではありません」
アドリアンに諭され、レオンハルトは二人を見た。
「二人とも、急に厳しくなりましたね」
リゼリアは口元を押さえた。
さっきまで会議で困ったらどうしようと思っていた自分が、王を叱っている。
レオンハルトは名残惜しそうに庭の奥を見て、やがて諦めた。
「…では、皆がどうしていたか、帰ったら聞かせてください」
「はい。必ず」
今度は、リゼリアも真面目に答えた。
*
王都に滞在している間に、テオバルトから返事が来た。
予定を伝え、領へ戻る日を守ること。
村で世話になる方々へ、きちんと手土産を準備すること。
読み終えたリゼリアは、手紙を胸へ引き寄せた。
ドランからも、アドリアンを通じて知らせが届いた。
二人で来ればいい。ミレアも待っているとあった。
出発の朝、リゼリアはシルヴァの鞍へ上がった。
すぐ隣では、アドリアンがソレインの手綱を整えている。
「準備は?」
「できています」
今日は、返事をする声も弾んでいた。
見送りに来たレオンハルトへ、二人で頭を下げる。
彼はまだ少し羨ましそうだったが、笑って手を上げてくれた。
二頭の天馬が、間を空けて翼を広げた。
大きな羽ばたきに草が伏せ、庭の人々の衣がはためく。
先にソレインが浮かび、シルヴァが続いた。
王都へ来たときと同じ空へ上がりながら、リゼリアは、今度は村に下りるときのことを考えていた。
ドランたちは、どんな顔で迎えてくれるだろう。
その楽しみをシルヴァへ伝えると、灰色の翼が、もう一度大きく風を捉えた。




