後日譚2 帰りたい場所
アドリアンが庭の奥へ来ると、ソレインは草の上に伏せていた。
近づく足音に、長い首がこちらを向く。
夕日を浴びた薄灰色の毛並みが、背の高い草の向こうで淡く光っていた。
彼は鼻先へ手を添えた。
〈少し、ここにいてもいいか〉
〈いい〉
上着を脱いで畳み、草の上へ置いた。
それを枕に横たわると、ソレインの大きな腹がすぐそばにあった。
呼吸に合わせ、薄灰色の毛がゆっくり上下している。
束ねた髪が首の下へ入り込み、結び目を少しずらした。
肩より下まである淡い金髪は、癖のない細い直毛で、指を通すとさらさらと草へ落ちた。
藍色がかった青い瞳を、暮れていく空へ向ける。
一重の切れ長な目は、黙っていると冷淡に見られやすい。
細く整った顔立ちと、すらりと高い背も、人を近づきやすくはしないらしかった。
今日も、向かいに座った男は、最後まで顔を強張らせていた。
父の代から仕えてきた家臣の一人だった。
竜の民が住む土地も仕事も選べることに、どうしても納得しなかった。
父を失ってから、何度も同じ話をした。
今の王が何を変えようとしているのか。
領主である自分も、その方針で領地を治めるつもりであること。
この先も考えを変えなければ、新しい国では暮らしづらくなるだろうとまで言った。
男は、先代ならお許しにならなかったと答えた。
今日、暇を取らせた。
これで何人目だろう。
父に心酔していた家臣の大多数は、すでに竜の炎の中へ消えている。
残った者たちとも、全員と折り合いをつけられたわけではなかった。
父の考えをそのまま守ることが忠義だというのなら、自分のそばには置けない。
そう決めていても、長く城で見てきた顔を送り出すたび、疲れが残った。
〈また、来なくなる者がいるのか〉
ソレインが尋ねた。
アドリアンは空を見たまま頷いた。
〈ああ。それも今日で最後だ〉
大きな翼の縁が、わずかに動いた。
畳まれた羽が擦れる音がして、また静かになった。
救いは、代わりに仕事を任せられる者がいたことだった。
父のもとでは意見を聞かれず、目立たない仕事ばかりしていた者たち。
話を聞いてみれば、領内の暮らしをよく知り、どう変えるかも考えていた。
そうした者を新しく取り立て、残ってくれた家臣とも仕事を分けた。
一人で何もかも背負うつもりでいた頃より、城の仕事は滞らずに進んでいる。
父の最後の暴挙を覚えている天馬の民も、多くはアドリアンの方針に好意的だった。
あのまま続けてはならないという思いを、分かち合える者がいる。
それに、どれほど救われたか分からない。
だが、竜の民の恐れは、まだ深かった。
役人が訪ねただけで、仕事を放り出して膝をつく人がいる。
困っていることはないかと尋ねても、何もないと繰り返す。あとになって、食べる物にさえ困っていたと分かることもあった。
父がおこなった無慈悲なやり方は、そう簡単に人々の心から消えなかった。
明日は王都へ向かう。
レオンハルトには、このことを聞いてもらおう。
他の領主たちは、どうしているのだろう。
直接会って尋ねたかった。
草を渡る風が、ほどけた髪を頬へ運んだ。
指で払おうとしたとき、空の端に黒い影が見えた。
アドリアンは、はっと身を起こした。
影は翼を打ち、木々の上を横切っていく。
鳥だった。
彼は片手を草について、しばらくその行方を追った。
〈違ったな〉
ソレインの声に、息を吐いた。
〈ああ〉
自分が何を思ったのか、この天馬は分かっている。
ポルフィラは、どうしているだろう。
旅立ってから、もう一年以上が過ぎた。
手紙を出すと言っていた。
その顔を思い出すと、少し笑えた。
どこに人が住み、どんな道があるのかも分からない土地から、どうやって届けるつもりだったのだろう。
そもそも、ほかに国があったとして、言葉が通じるのかさえ分からない。
彼女なら、出会った相手に身振りを交えて、何とか話そうとするのかもしれない。
想像すると、今度は本当に口元が緩んだ。
旅立つ前、何度か食事を共にした。
ポルフィラはアドリアンを見ると、どこか憂いを含んだ目をした。
自分たちの間には、父と弟の死がある。
二人を失った悲しみは、今も消えていない。
何気ないときに弟の声を思い出す。
父ならこう言っただろうと考え、その言葉に腹が立ったあとで、もう聞くことはないのだと気づく。
それでも、二人が自ら選んだ道の先に、あの最期があったとも思っている。
ポルフィラに会うたび、その話になったわけではない。
けれど彼女も、アドリアンの顔を見ると、思い出さずにいられなかったのだろう。
家族やリゼリア、村の友達といるときの彼女は、違った。
何か面白いことを見つければ、目に笑みをたたえて顔を上げる。
黒く見えていた大きな瞳に光が差し、深い紫が覗いた。
誰かと話に夢中になると、こちらは置き去りだ。
笑うときには明るい声が響き渡り、つられて隣の者まで笑い出した。
自分は、ああいう明るい性格ではない。
それでも、その声を聞いているだけで心が軽くなった。
…会っているとき、もっと話せばよかった。
次に何を面白がって笑いだすのか、そばで見ていたかった…
アドリアンは膝を立て、暮れ残る空を見上げた。
……会いたい
その思いを、胸の痛みを、素直に受け止めた。
彼女が好きだ…
ソレインの鼻先が、肩へそっと触れた。
顔を向けると、心配そうな大きな目が自分を見ていた。
〈……何でもない〉
言いかけて、やめた。
代わりに手を伸ばし、鼻面の短い毛を撫でた。
*
日が沈むと、草の匂いが濃くなった。
アドリアンは畳んだ上着を取り、膝の上で草を払った。
明日の支度は、もう家臣に任せてある。
会議を終えたら領地へ戻り、また報告を受け、領内をまとめていかなければならない。
王都の帰りに、少し寄り道をしてはどうだろう。
〈ポルフィラの村へ行こうか〉
口にすると、その考えが急にはっきりした。
彼女がいなくても、訪ねてよいはずだ。
あの村の人々がどう暮らしているか、自分も知りたかった。
ドランは、変わらず鍛冶場で働いているだろうか。
顔を見せれば、あの大きな声で迎えてくれるだろうか。
ドランが笑うと、そばにいる者まで陽気になった。
ポルフィラの笑い方は、あの父によく似ている。
顔立ちが似ていなくても、二人が親子なのはすぐに分かった。
ミレアは、少し困ったように夫を見てから、こちらにも笑いかけてくれる。
あの、母親らしい慈愛のこもった笑顔も見たかった。
アドリアンの母は、彼が幼いころに亡くなっていた。
育ててくれた乳母への感謝はある。
だが、母がいてくれたらと思う。
父も弟もいなくなった今、城へ戻っても、家族は待っていない。
ポルフィラの家を訪ねたとき、帰り際にもう少し座っていたいと思ったことがある。
話は途切れていた。
ドランが道具を片づけ、ミレアが食事の器を運び、ポルフィラが母を手伝っていた。
ただ、その中にいるのが心地よかった。
あそこへ行けば、家に帰ったような気持ちになるかもしれない。
〈先に、訪ねてもよいか知らせを出しておこう。急に行けば、困らせるかもしれないからな〉
ソレインが、低く鼻を鳴らした。
〈行こう〉
アドリアンは頷き、立ち上がった。
草に寝ていた上着を羽織ると、背へ落ちた金髪を手で外へ出す。
ほどけかけた結び目を直していると、ソレインも前脚を伸ばした。
巨体が持ち上がり、畳んでいた翼が一度、ゆっくり開かれた。
重なった薄灰色の羽の間を、夕暮れの風が通り抜ける。
アドリアンはそのそばで、翼が収まるのを待った。
城へ戻ったら、短い手紙を書こうと思った。




