後日譚 1 父の旅支度
最後の書類に署名を終えたとき、庭の木々は夕日に染まっていた。
レオンハルトは筆を置き、窓辺へ立った。肩の下まで伸びた濃い金髪が、頬にかかる。母譲りの髪にはゆるい癖があり、耳へ掛けても、しばらくすると同じ一房が落ちてきた。
真っ直ぐな眉の下で、大きな青い瞳が細められる。鍛錬で引き締まった肩を後ろへ引くと、長く机に向かっていた背が強張っていた。
ポルフィラが旅立って、およそ一年になる。
エクシェリア王国では、竜の民が住む場所と仕事を自分で選べるようになった。望む者には移住や新しい仕事を勧め、そのための手続きも進めている。税法も改め、どちらの民かというだけで負担に差がつかないようにした。
それでも、今日の書類には、竜の民に家を貸したくないという訴えがあった。
仕事の条件を尋ねることさえ怖がり、役人に付き添われてようやく雇い主と話せた者の報告もあった。
レオンハルトは、その報告をもう一度手に取った。
最後には、賃金と休む日を確かめ、働くことを決めたと記されている。
明日の朝、担当した役人へ、その後も困っていないか確かめさせよう。
紙を机へ戻すと、その下から今年の催事を見送る通達が見えた。
例年なら、そろそろ天馬の飼育場へ向かう支度が始まる頃だった。
王家と各領主が親族を伴って集まり、広大な飼育場に天幕を張る。一週間ほどの滞在中、夜ごと会食が開かれ、年頃の男女が引き合わされる。その席をきっかけに結ばれた婚姻も、少なくなかった。
だが、誰もが最も心待ちにしていたのは、食事でも紹介でもない。
天馬と出会い、繋がることだった。
幼いレオンハルトも、毎年のように草地を歩いた。
空に翼が見えるたび顔を上げ、遠くでいななきが響けば、会話の途中でもそちらを見た。
あの日、空から下りてきた天馬も、自分の前へ来たのではなかった。
翼の影の下に、幼いリゼリアがいた。
近づく巨体を見上げる彼女を、少し年上の自分は離れた所から見ていた。
羨ましかった。
祝うべきことだと分かっていても、胸が痛むのを止められなかった。
今年、その催事はない。
戦いで傷んだ家も道も、まだ直し終えていない。働き手を失った家族への支えも必要だった。そのさなかに王家や領主たちが贅を凝らして集まれば、人々はどう思うだろう。
見送りを決めたことに、後悔はなかった。
ただ、窓の向こうを鳥が横切ったとき、目で追ってしまった。
ポルフィラは、今どこにいるのだろう。
あれほど恐ろしかった竜の背に、自分も乗ったことがある。
空へ上がると、建物も道も小さくなった。地上で人を分けている境も、見えなくなった。
風の音の中で、どこまでも行けそうな気がした。
あのまま飛んでいたいとさえ思った。
今なら、彼女が旅立った気持ちを、少しは分かる気がする。
自分と繋がった天馬と飛ぶのは、どんな心地なのだろう。
言葉を交わしながら、行きたい方へ翼を向けてもらうのは。
レオンハルトは窓から離れた。
日が落ちる前に、父の所へ寄ることにした。
*
ヴァルデルは、ノクスの首の横に掛けた梯子に上がっていた。
黒い天馬は、体を動かさずに立っている。
アフリカゾウの雄ほどもある巨体は、近くで見ると、首を持ち上げるだけでも人を圧倒した。畳まれた翼には幾重にも羽が重なり、外側の長い風切羽が、黒い体に沿って収まっている。
夕日を受けた毛並みに、細い光が走った。
逞しい首から流れるたてがみへ、父は少しずつ櫛を通していた。絡んだ所に当たると手を止め、指でほぐしてから、もう一度梳く。
銀に近い金髪は、以前と同じく短く刈り込まれていた。
太い眉と、頑固そうな顎。鷲鼻の作る横顔には、遠目にも父と分かる強さがある。鍛錬で厚くなった胸や腕は、王位を退いた今も衰えてはいなかった。
ただ、ややつり上がった目の眼差しは、レオンハルトの知るものと違っていた。
色がないように見えるほど薄い青の瞳を、ノクスへ穏やかに向けている。
父の手が止まった。
天馬がわずかに耳を動かすと、父の口元が緩んだ。
何を話しているのかは聞こえない。
それでも、今、二人の間で言葉が交わされたことだけは分かった。
父が、こんな顔をする。
レオンハルトは声を掛けそびれたまま、しばらく立っていた。
やがて、ノクスが先にこちらへ鼻先を向けた。
ヴァルデルも振り返る。
「来ていたのか」
「はい。お邪魔でしたか」
「もう終わる」
父は櫛を脇の袋へ入れ、梯子を下りてきた。
並んで立つと、レオンハルトも決して細い体ではないのに、父の肩と胸の厚みが際立った。母に似た息子の整った顔立ちと、野性味の残る父の顔を、似ていると言う者は少ない。
ヴァルデルはノクスの前脚へ一度手を触れ、息子へ向き直った。
「おまえに話しておきたいことがある」
「夕食をご一緒しませんか。そのときに、ゆっくり」
父は少し考えてから、頷いた。
*
食事が運ばれ、給仕が下がると、ヴァルデルはワインの杯を持ち上げた。
「ノクスが、飼育場へ行くと言っている」
パンを取ろうとしていたレオンハルトは、手を止めた。
「天馬たちの所へ、ですか」
「繁殖の相手を探したいそうだ」
父は杯を置いた。
「十分に成熟した天馬には、そういう時期があるらしい。私に声が届かぬあいだは、伝えようがなかったと」
長いあいだ、父はノクスと繋がっていながら、その言葉を聞けずにいた。
そばにいても知らなかったことが、まだあるのだ。
「ノクスほど強い天馬なら、その血を残すことも大切でしょう」
「あれも、そう言っていた。相手を探すには、天馬の集まる地へ行かねばならん」
「父上もご一緒に?」
ヴァルデルは、指先で杯の脚を回した。
「来ないかと言われた」
レオンハルトは父を見た。
「天幕で過ごして、ほかの天馬を見るのもよいのではないかと。人に囲われた土地ではあるが、あそこでは自分たちで暮らしている。城にいるときとは違う姿を見られるそうだ」
「よいと思います」
すぐに答えると、父はわずかに眉を動かした。
「少し、記録から離れる時間があっても」
父の部屋には、王家が代々保管してきた記録が積まれている。
各領主家にも古い記録を求め、届くたびに読み比べていた。幼いころから教えられ、疑いもせず息子へ教えた歴史を、一つずつ確かめるためだった。
レオンハルトが訪ねても、紙へ目を落としたまま、しばらく返事がない日がある。
数日前には、読みかけの頁へ手を置き、こう言った。
――私は、これを知らずに、自分が正しいと信じていた……
そのとき、息子には返す言葉がなかった。
今、卓を挟んでいる父の顔にも、疲れが見えた。
ノクスのそばで見せた柔らかな表情が消えると、以前より目元の陰が深くなる。かつての、誰に向かっても揺るがぬ精悍さは薄れていた。
「読めば済むとは、思っておらん」
ヴァルデルが低く言った。
「だが、知らぬままにもしておけん。腹が立つこともある。書き残した者にか、それを信じた私自身にか、分からなくなる」
レオンハルトは黙って聞いた。
父が杯へ伸ばしかけた手を、卓へ戻した。
「同じ所を、何度も読んでしまう」
「でしたら、なおさら出掛けてください。ノクスと過ごして、戻ってから続きを読めばよいでしょう」
窓の外は、もう暗くなっていた。
しばらくして、父は息を吐いた。
「持っていけるものは、持っていく」
レオンハルトは口元を緩めた。
「運ぶ者を困らせない量にしてください」
「それほどは持たん」
父はそう答えたが、目はすでに、どれを選ぶか考えているようだった。
「護衛と、身の回りを世話する者を付けます。天幕の支度もさせましょう」
「大勢は要らん」
「分かっています」
レオンハルトは、冷めかけた料理へ手を戻した。
今、天馬と繋がっている者は少ない。
だからこそ、天馬たちが子を育て、数を増やしていけるようにする必要がある。その先で、また誰かが出会うかもしれない。
幼いころ、自分が待ち続けたような出会いを。
「よい相手が見つかるといいですね」
父は頷いた。
その口元が、ノクスのそばにいたときのように、ほんの少し緩んだ。
*
父たちの出発は、各領主が会議のため王都へ集まる頃になりそうだった。
前に皆と顔を合わせたのは、半年前だ。
その後も書面の報告は受け取っているが、直接聞きたいことは多かった。
食事を終えて執務室へ戻ると、机には明朝のための書類が置かれていた。
レオンハルトは椅子へ座り、領主たちに尋ねることを書き留めた。
移り住んだ人々は、その土地で暮らしていけているだろうか。
仕事を断ったために、また脅されてはいないだろうか。
問いを書き足してから、昼間読んだ報告を手元へ寄せた。
賃金と休む日を確かめ、自分で働くと決めた人がいる。
会議でも、こうした知らせを多く聞ければいい。
レオンハルトは灯りを近づけ、次の書類を開いた。




