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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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228/291

第228話 行ってきます

出発までの二か月、ポルフィラは何度もオブシディオンと飛んだ。

領主たちへ旅の予定を伝え、マティアスと食事をし、リゼリアと遠乗りをして帰った日もあった。

空から見ると、町にも村にも、暮らしへ戻っていく人々の姿があった。

竜を見上げる顔も、以前とは少しずつ違っていた。


そして、旅立つ朝が来た。


ポルフィラは、いつもの椅子で朝食を食べた。

ミレアがパンを切り、ドランが仕事の手を洗って席へつく。

昨夜まで、言っておきたいことが幾つもあったはずなのに、口から出たのは、今日はよく晴れたね、という言葉だった。


「飛ぶには、いい日だね」

母が窓の外を見た。


ポルフィラは頷き、最後の一口を食べた。


食器を片づけるとき、ミレアも隣に立った。

二人で拭いて棚へ戻す。

いつもと同じことを終え、母はしばらく空いた手を見ていた。

「忘れ物は、ない?」


「うん。昨日、一緒に見てもらったから」


母は少し笑った。

「そうだったね」


ポルフィラはその手を取り、両手で包んだ。

温かさを確かめるように握ると、母も握り返した。


「帰ったら、また食事の支度を手伝うね」


ミレアは目を伏せ、頷いた。

「そのときは、向こうで食べたものを教えて。家でも作れるものがあれば、作ってみよう…」


母の言葉を聞いて、この先どんなものを食べるのだろうと思った。

それを考えると、胸が少し弾んだ。

ポルフィラが微笑むのを見て、ミレアもようやく手を離した。


*


村の外では、オブシディオンが待っていた。

草地のそばにリナたちが集まり、ドランとミレアも一緒に歩いてきた。


「出かける前に、少しは緊張してるか?」

ガルが尋ねた。


ポルフィラは頷いた。

「してる。海の向こうで、ちゃんと人と話せるかなって」


「竜がいるからって、何でも分かるわけじゃないもんな」

トーマが言い、皆が笑った。


セラがポルフィラへ近づいた。

「手紙、待ってる」


「うん」


「帰る日が分かったら、教えてね」


ポルフィラが頷くと、セラは右手を握って、すぐに離した。


リナは隣で、言おうとしていたことを忘れたように、少し黙っていた。

「……何か、いっぱい言おうと思ってたんだけど」

目元を擦り、笑う。

「元気でね。それで、帰ってきたら会おう」


「うん。皆で集まろうね」


シオンが、オブシディオンを見上げた。

何か頼みたそうにしてから、ポルフィラの方へ目を戻す。

「無理をしたら、ちゃんと休めよ」


「分かってる」

返事をすると、ガルが首を傾げた。

「それが、いちばん心配なんだけどな…」


寂しさはあった。

だが、その場にいる皆が、戻ってきてからの話を続けていた。


ドランが、娘の背負った荷を確かめた。

重すぎないかと聞かれ、ポルフィラは肩を動かしてみせる。

「大丈夫」


「そうか」

父の手が、肩へ残った。


ポルフィラは振り向いて、その胸へ一度、顔を寄せた。

「見てくるね、父さん」


ドランは娘の背へ手を回した。

短く抱き締め、ゆっくり離す。

「ああ。帰ったら聞かせろ」


ミレアもそばへ来た。

頬に触れた手へ、ポルフィラは自分の手を重ねた。

「気をつけてね」


「うん」


それ以上話すと泣いてしまいそうで、母も娘も、しばらく顔を見合っていた。

先に笑ったのは、ミレアだった。


ポルフィラは、低くなった竜の頭へ近づいた。

角の根元をつかみ、鱗の足場を上がる。角の後ろへ腰を落ち着けると、体に馴染んだ首の動きが伝わってきた。


〈いいよ〉


オブシディオンが立ち上がった。

村の屋根が見え、父と母の顔が少し遠くなった。

ポルフィラは右手を高く上げた。

皆が両手を振っている。

翼が開いた。

草が一斉に倒れ、土の匂いを含んだ風が吹き抜ける。


ポルフィラは何度も振り返り、皆の姿が小さくなるまで、手を振り続けた。


*


オブシディオンは、西の森の上をゆっくり飛んだ。

ヴェルディアの畑に、竜の影が渡る。

農具を持った男が空を見上げ、そばの者へ何か言った。

二人はしばらく竜を眺め、また土へ目を戻した。


街道では、荷車の御者が帽子を押さえた。

隣に座る子どもが竜を指すと、御者は頷いた。

馬を止めて逃げようとはしない。

そのまま町へ向かっていく。


クラウスは館の窓から、その黒い翼を見つけた。

傍らのエミールも顔を上げた。

「出発したのですね…」


「…ああ」

クラウスは、机に広げていた領内の届けへ手を置いた。

帰ってきた彼女に、何を報告できるだろう。

竜の姿が森の向こうへ消えるまで見送ってから、息子とともに机へ戻った。


*


二人はゆっくり、国の空を巡った。

急いで海へ出ることはなかった。

降りて休み、見覚えのある土地を眺め、次の領へ向かった。


ヴィオレスタでは、牧草地にいた子どもたちが手を振った。

毛を刈った羊を囲む大人たちも顔を上げたが、すぐに仕事を再開した。


リュシエンヌのもとへ、竜が南へ向かったと知らせが届いた。

彼女は外へ出て、遠ざかる姿を見送った。

初めて竜を見たときには、息をすることさえ忘れた。

今はあの娘が、楽しい経験をできるよう願っている。

「…よい旅を」

届かないと知りながら、リュシエンヌはそう言った。


オランデルの果樹園の上では、籠を運んでいた女が額の汗を拭いながら空を見た。

道の向こうから来た別の女も立ち止まり、二人で竜の行く先を目で追った。


レオノーラは、庭のヴェスペラが顔を上げたことで気づいた。

空を見渡し、黒い翼を見つける。

〈…あの子たち、出かけるのね〉

ヴェスペラの首へ触れながら、彼女は微笑んだ。


アウレリスの麦畑を越えるころには、風が変わった。

ポルフィラが体を低くすると、オブシディオンも翼の角度を変える。

言葉を交わす前に、二人の動きが揃った。


〈あそこ、ソレインじゃない?〉


館の庭で、明るい灰色の天馬が翼を広げていた。

傍らにアドリアンがいる。

ポルフィラが手を振ると、彼も腕を上げた。

彼が村へ来たとき、今度はうちの領内へ泊まりに来いと言ってくれた。

いつかその約束は果たそう…


アドリアンは、竜がゆっくり向きを変えるまで見送った。

ソレインが、肩へ鼻先を寄せる。

「帰ってきたら、何を見たか聞こうな……」

天馬の頬を撫で、彼は寂しそうに微笑んだ。


*


王領の空にも、黒い翼が現れた。

王都の通りで、竜の民の職人が店先から顔を出した。

品を見ていた天馬の民の客も、同じ方を見る。

「…今日も飛んでいるな」

客が呟き、職人が頷いた。

ひととき空を眺めてから、二人は作業台の上の品へ目を戻した。


城では、レオンハルトが窓へ近づいた。

旅に出ると聞いていた。

それでも、実際に見送ると、胸の奥が少し痛んだ。

困ったとき、あの竜がいる方を見てしまうことが、まだあるのだ。

彼は、窓辺から空を見上げた。

ポルフィラがここへ戻るときには、暮らしやすくなった国を見て欲しい。

その思いを胸に、呼びに来た家臣へ頷いた。


城の庭では、前王がノクスの首へ手を置いていた。

黒い天馬も、上空を渡る竜を追っている。

〈遠くへ行くのだな…〉


ノクスの声に、彼は頷いた。

「…ああ。戻ったら、息子に話を聞かせに来るそうだ」


風に、黒い毛が揺れた。

前王はそれを撫で、竜が城壁の向こうへ消えるまで見送った。


*


インディルの山々には、谷を渡る風が吹いていた。

木材を運ぶ男たちが足を止めた。

茶緑の髪を結った女が、荷を下ろして空へ片手を上げる。


ポルフィラも手を振った。

その先に、テオバルトたちの館が見えた。

庭には、テオバルトとコンラートがいた。

マティアスも出てきて、竜を見上げた。

エステリアがその隣に並ぶ。


出発前にも会った。

帰ったら会いに行くと、もう一度約束した。

それでも、父の姿を見つけると、近くまで下りたくなった。


〈…少し、ゆっくり飛んで〉


翼が風を受け、館の上へ静かに影を落とした。

ポルフィラは角を片手で支え、もう一方の手を振った。


マティアスが腕を上げる。

娘が自分へ向けていると分かり、頬が緩んだ。

最後に呼ばれた「お父さん」という声が、また胸に蘇った。


エステリアも手を振っていた。

今度は戦の話ではなく、この子の土産話を楽しみに待てる。


灰色の翼が、館の庭から舞い上がった。

シルヴァとリゼリアだった。

竜の翼へ近づきすぎないところを飛び、しばらく同じ空を進んだ。


ポルフィラはリゼリアを見た。

向こうもこちらを見て、笑った。

帰ってきたら、また一緒に飛ぼう。

言葉にしなくても、二人の間で約束が交わされた。


山の尾根で、リゼリアが手を上げた。

ポルフィラが振り返すと、シルヴァはゆっくり旋回し、館の方へ戻っていった。


*


アズレインへ入ると、川の流れが海へ続いていた。

水路を行く舟の上から、人々が顔を上げる。

網を繕う手を止めた男が、竜の影を見て仲間を呼んだ。


港では、ロデリクが立っていた。

彼は海の方へ歩み出て、眩しさに目を細めた。

「本当に、行くのだな…」


隣の家臣が頷いた。


ロデリクは、飛び去ろうとする竜を見たまま、口元を緩めた。

あの背の娘が帰るころ、この港にはどんな品が並んでいるだろう。

竜の民の船乗りが、異国の話をする日も来るかもしれない。


岸の建物が低くなり、青い海が広がった。

ポルフィラは背後を振り返った。

遠くには山が連なり、その向こうに、自分の育った村がある。


父と母は、今日は何をしているだろう。

みんなは、もう仕事へ出ただろうか。

お父さんと叔母さんは、手紙を楽しみにしてくれているだろうか。

帰る前には知らせよう。

旅先で何か美味しいものを見つけたら、母へ書こう。


考えることが、幾つも浮かんだ。

ポルフィラは笑って、前を向いた。


目の前には、知らない海があった。

その先に何があるのかを、これから二人で見に行く。


〈行くか〉

オブシディオンの声が届いた。


角に置いた手へ、首の動きが伝わる。

ポルフィラが体を寄せると、彼は大きな翼で海の風を捉えた。


〈うん〉


潮の匂いが頬を撫でた。

ポルフィラは、背中の向こうにいる人々を思い浮かべた。

戻った自分を迎えてくれる、懐かしい顔を。

海へ向かう風の中で、声に出して告げた。


「行ってきます」

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