第228話 行ってきます
出発までの二か月、ポルフィラは何度もオブシディオンと飛んだ。
領主たちへ旅の予定を伝え、マティアスと食事をし、リゼリアと遠乗りをして帰った日もあった。
空から見ると、町にも村にも、暮らしへ戻っていく人々の姿があった。
竜を見上げる顔も、以前とは少しずつ違っていた。
そして、旅立つ朝が来た。
ポルフィラは、いつもの椅子で朝食を食べた。
ミレアがパンを切り、ドランが仕事の手を洗って席へつく。
昨夜まで、言っておきたいことが幾つもあったはずなのに、口から出たのは、今日はよく晴れたね、という言葉だった。
「飛ぶには、いい日だね」
母が窓の外を見た。
ポルフィラは頷き、最後の一口を食べた。
食器を片づけるとき、ミレアも隣に立った。
二人で拭いて棚へ戻す。
いつもと同じことを終え、母はしばらく空いた手を見ていた。
「忘れ物は、ない?」
「うん。昨日、一緒に見てもらったから」
母は少し笑った。
「そうだったね」
ポルフィラはその手を取り、両手で包んだ。
温かさを確かめるように握ると、母も握り返した。
「帰ったら、また食事の支度を手伝うね」
ミレアは目を伏せ、頷いた。
「そのときは、向こうで食べたものを教えて。家でも作れるものがあれば、作ってみよう…」
母の言葉を聞いて、この先どんなものを食べるのだろうと思った。
それを考えると、胸が少し弾んだ。
ポルフィラが微笑むのを見て、ミレアもようやく手を離した。
*
村の外では、オブシディオンが待っていた。
草地のそばにリナたちが集まり、ドランとミレアも一緒に歩いてきた。
「出かける前に、少しは緊張してるか?」
ガルが尋ねた。
ポルフィラは頷いた。
「してる。海の向こうで、ちゃんと人と話せるかなって」
「竜がいるからって、何でも分かるわけじゃないもんな」
トーマが言い、皆が笑った。
セラがポルフィラへ近づいた。
「手紙、待ってる」
「うん」
「帰る日が分かったら、教えてね」
ポルフィラが頷くと、セラは右手を握って、すぐに離した。
リナは隣で、言おうとしていたことを忘れたように、少し黙っていた。
「……何か、いっぱい言おうと思ってたんだけど」
目元を擦り、笑う。
「元気でね。それで、帰ってきたら会おう」
「うん。皆で集まろうね」
シオンが、オブシディオンを見上げた。
何か頼みたそうにしてから、ポルフィラの方へ目を戻す。
「無理をしたら、ちゃんと休めよ」
「分かってる」
返事をすると、ガルが首を傾げた。
「それが、いちばん心配なんだけどな…」
寂しさはあった。
だが、その場にいる皆が、戻ってきてからの話を続けていた。
ドランが、娘の背負った荷を確かめた。
重すぎないかと聞かれ、ポルフィラは肩を動かしてみせる。
「大丈夫」
「そうか」
父の手が、肩へ残った。
ポルフィラは振り向いて、その胸へ一度、顔を寄せた。
「見てくるね、父さん」
ドランは娘の背へ手を回した。
短く抱き締め、ゆっくり離す。
「ああ。帰ったら聞かせろ」
ミレアもそばへ来た。
頬に触れた手へ、ポルフィラは自分の手を重ねた。
「気をつけてね」
「うん」
それ以上話すと泣いてしまいそうで、母も娘も、しばらく顔を見合っていた。
先に笑ったのは、ミレアだった。
ポルフィラは、低くなった竜の頭へ近づいた。
角の根元をつかみ、鱗の足場を上がる。角の後ろへ腰を落ち着けると、体に馴染んだ首の動きが伝わってきた。
〈いいよ〉
オブシディオンが立ち上がった。
村の屋根が見え、父と母の顔が少し遠くなった。
ポルフィラは右手を高く上げた。
皆が両手を振っている。
翼が開いた。
草が一斉に倒れ、土の匂いを含んだ風が吹き抜ける。
ポルフィラは何度も振り返り、皆の姿が小さくなるまで、手を振り続けた。
*
オブシディオンは、西の森の上をゆっくり飛んだ。
ヴェルディアの畑に、竜の影が渡る。
農具を持った男が空を見上げ、そばの者へ何か言った。
二人はしばらく竜を眺め、また土へ目を戻した。
街道では、荷車の御者が帽子を押さえた。
隣に座る子どもが竜を指すと、御者は頷いた。
馬を止めて逃げようとはしない。
そのまま町へ向かっていく。
クラウスは館の窓から、その黒い翼を見つけた。
傍らのエミールも顔を上げた。
「出発したのですね…」
「…ああ」
クラウスは、机に広げていた領内の届けへ手を置いた。
帰ってきた彼女に、何を報告できるだろう。
竜の姿が森の向こうへ消えるまで見送ってから、息子とともに机へ戻った。
*
二人はゆっくり、国の空を巡った。
急いで海へ出ることはなかった。
降りて休み、見覚えのある土地を眺め、次の領へ向かった。
ヴィオレスタでは、牧草地にいた子どもたちが手を振った。
毛を刈った羊を囲む大人たちも顔を上げたが、すぐに仕事を再開した。
リュシエンヌのもとへ、竜が南へ向かったと知らせが届いた。
彼女は外へ出て、遠ざかる姿を見送った。
初めて竜を見たときには、息をすることさえ忘れた。
今はあの娘が、楽しい経験をできるよう願っている。
「…よい旅を」
届かないと知りながら、リュシエンヌはそう言った。
オランデルの果樹園の上では、籠を運んでいた女が額の汗を拭いながら空を見た。
道の向こうから来た別の女も立ち止まり、二人で竜の行く先を目で追った。
レオノーラは、庭のヴェスペラが顔を上げたことで気づいた。
空を見渡し、黒い翼を見つける。
〈…あの子たち、出かけるのね〉
ヴェスペラの首へ触れながら、彼女は微笑んだ。
アウレリスの麦畑を越えるころには、風が変わった。
ポルフィラが体を低くすると、オブシディオンも翼の角度を変える。
言葉を交わす前に、二人の動きが揃った。
〈あそこ、ソレインじゃない?〉
館の庭で、明るい灰色の天馬が翼を広げていた。
傍らにアドリアンがいる。
ポルフィラが手を振ると、彼も腕を上げた。
彼が村へ来たとき、今度はうちの領内へ泊まりに来いと言ってくれた。
いつかその約束は果たそう…
アドリアンは、竜がゆっくり向きを変えるまで見送った。
ソレインが、肩へ鼻先を寄せる。
「帰ってきたら、何を見たか聞こうな……」
天馬の頬を撫で、彼は寂しそうに微笑んだ。
*
王領の空にも、黒い翼が現れた。
王都の通りで、竜の民の職人が店先から顔を出した。
品を見ていた天馬の民の客も、同じ方を見る。
「…今日も飛んでいるな」
客が呟き、職人が頷いた。
ひととき空を眺めてから、二人は作業台の上の品へ目を戻した。
城では、レオンハルトが窓へ近づいた。
旅に出ると聞いていた。
それでも、実際に見送ると、胸の奥が少し痛んだ。
困ったとき、あの竜がいる方を見てしまうことが、まだあるのだ。
彼は、窓辺から空を見上げた。
ポルフィラがここへ戻るときには、暮らしやすくなった国を見て欲しい。
その思いを胸に、呼びに来た家臣へ頷いた。
城の庭では、前王がノクスの首へ手を置いていた。
黒い天馬も、上空を渡る竜を追っている。
〈遠くへ行くのだな…〉
ノクスの声に、彼は頷いた。
「…ああ。戻ったら、息子に話を聞かせに来るそうだ」
風に、黒い毛が揺れた。
前王はそれを撫で、竜が城壁の向こうへ消えるまで見送った。
*
インディルの山々には、谷を渡る風が吹いていた。
木材を運ぶ男たちが足を止めた。
茶緑の髪を結った女が、荷を下ろして空へ片手を上げる。
ポルフィラも手を振った。
その先に、テオバルトたちの館が見えた。
庭には、テオバルトとコンラートがいた。
マティアスも出てきて、竜を見上げた。
エステリアがその隣に並ぶ。
出発前にも会った。
帰ったら会いに行くと、もう一度約束した。
それでも、父の姿を見つけると、近くまで下りたくなった。
〈…少し、ゆっくり飛んで〉
翼が風を受け、館の上へ静かに影を落とした。
ポルフィラは角を片手で支え、もう一方の手を振った。
マティアスが腕を上げる。
娘が自分へ向けていると分かり、頬が緩んだ。
最後に呼ばれた「お父さん」という声が、また胸に蘇った。
エステリアも手を振っていた。
今度は戦の話ではなく、この子の土産話を楽しみに待てる。
灰色の翼が、館の庭から舞い上がった。
シルヴァとリゼリアだった。
竜の翼へ近づきすぎないところを飛び、しばらく同じ空を進んだ。
ポルフィラはリゼリアを見た。
向こうもこちらを見て、笑った。
帰ってきたら、また一緒に飛ぼう。
言葉にしなくても、二人の間で約束が交わされた。
山の尾根で、リゼリアが手を上げた。
ポルフィラが振り返すと、シルヴァはゆっくり旋回し、館の方へ戻っていった。
*
アズレインへ入ると、川の流れが海へ続いていた。
水路を行く舟の上から、人々が顔を上げる。
網を繕う手を止めた男が、竜の影を見て仲間を呼んだ。
港では、ロデリクが立っていた。
彼は海の方へ歩み出て、眩しさに目を細めた。
「本当に、行くのだな…」
隣の家臣が頷いた。
ロデリクは、飛び去ろうとする竜を見たまま、口元を緩めた。
あの背の娘が帰るころ、この港にはどんな品が並んでいるだろう。
竜の民の船乗りが、異国の話をする日も来るかもしれない。
岸の建物が低くなり、青い海が広がった。
ポルフィラは背後を振り返った。
遠くには山が連なり、その向こうに、自分の育った村がある。
父と母は、今日は何をしているだろう。
みんなは、もう仕事へ出ただろうか。
お父さんと叔母さんは、手紙を楽しみにしてくれているだろうか。
帰る前には知らせよう。
旅先で何か美味しいものを見つけたら、母へ書こう。
考えることが、幾つも浮かんだ。
ポルフィラは笑って、前を向いた。
目の前には、知らない海があった。
その先に何があるのかを、これから二人で見に行く。
〈行くか〉
オブシディオンの声が届いた。
角に置いた手へ、首の動きが伝わる。
ポルフィラが体を寄せると、彼は大きな翼で海の風を捉えた。
〈うん〉
潮の匂いが頬を撫でた。
ポルフィラは、背中の向こうにいる人々を思い浮かべた。
戻った自分を迎えてくれる、懐かしい顔を。
海へ向かう風の中で、声に出して告げた。
「行ってきます」




