第227話 帰る場所を残して
村へ帰ってから、半年余りが過ぎた。
ポルフィラは朝、ミレアと食事を作り、ときには友達と町へ出た。
オブシディオンと飛ぶ日は、戻ってから畑や森の向こうに何が見えたかを話した。
左腕をかばう癖も、いつの間にか薄れていた。
その日、ポルフィラは町の外で竜の背を下りた。
レオンハルトがヴェルディア領を訪れ、戦いで家族を失った人々の話を聞いていた。
会場は、町の外れにある集会所だった。
オブシディオンは窓から姿が見える草地へ伏せ、ポルフィラは広く開けられた戸口のそばに座った。
クラウスと向かい合っていた竜の民の女が、膝の上で紙を握っていた。
「夫の名が、届けにありませんでした。遺族への援助を頼んでも、戦いで死んだと確かめられないと言われて……」
女は紙を広げた。何度も持ち歩いたらしく、折り目が擦り切れていた。
そばにいた村の男が、自分もその場にいたと話し始める。
王と領主が聞いている前で、声を上げるのは怖いのだろう。途中で何度も息を継いだ。
ポルフィラは口を挟もうかと、思わず腰を浮かせた。
だが、レオンハルトが先に椅子を寄せ、優しく言った。
「急がなくて構いません。覚えていることを、聞かせてください」
クラウスも家臣を呼び、なぜ名が記されなかったのか調べるよう命じた。
話を終えた女は、まだ不安そうだった。
だが、王と領主が女に寄り添い、安心するよう声をかけていた。
ポルフィラは椅子へ座り直した。
みんなは確実に天馬の民と、分け隔てなく暮らしていけるよう歩み続けている。
*
聞き取りが終わると、レオンハルトが草地へ来た。
オブシディオンへ近づきすぎないところで足を止め、ポルフィラに声をかける。
「待たせましたね」
「いいえ。あの人がちゃんと希望を伝えられてよかった…」
王は集会所を振り返った。
クラウスはまだ中で、家臣と話していた。
「国の決まりを変えても、希望を届けてもらえない人がいる。あの女性は、何度も足を運んだそうです」
悔しそうな声だった。
ポルフィラは、自分の話を聞いてくれる人を探していたころを思い出した。
あのころ、王の口からこんな言葉を聞けるとは思わなかった。
「……旅へ、出ようかと思っているんです」
レオンハルトが顔を向けた。
口にしてから、ポルフィラは少し緊張した。
「オブシディオンと、この国の外を見に行こうと思ってます。でも、まだ困っている人がいるのに、離れてもいいのか、ずっと考えていました…」
王は黙って聞いていた。
やがて、彼女の背後の竜を見上げた。
「私が即位したときに、あなたは言いましたね。自分がいないところでも、竜の民の話を聞いてほしいと」
ポルフィラは頷いた。
「今も、その約束は変わりません。これからも細部にまで国の方針が伝わるよう、領主たちと力を合わせてやっていきます。あなたも自由に旅立っていいんです…」
そう言ってレオンハルトは、その王子然とした整った顔に上品な微笑みを浮かべた。
その言葉に、ポルフィラは目を伏せた。
安心した。
同時に、少し寂しかった。
そんな気持ちまであるとは思わず、戸惑った。
「帰ってきたときも、聞かせてください。どんな国になったのか、あなたがどう感じたかを…」
顔を上げると、レオンハルトは困ったように笑った。
「よくなったと言ってもらえるようにしたいですが、叱られることもあるでしょうね」
ポルフィラも微笑んだ。
「そのときは、助言させて下さい」
集会所から家臣が呼びに来た。
レオンハルトは会釈をして戻っていく。
ポルフィラはその背を見送ってから、オブシディオンへ手を添えた。
〈行ってみたいって、話した〉
〈聞いていた〉
黒い鼻先が、彼女のそばへ下りた。
ポルフィラは額を寄せ、長く息を吐いた。
*
友達に話したのは、村へ戻った夕方だった。
皆が仕事を終えるのを待って、いつもの家の机へ集まってもらった。
「オブシディオンと、海の向こうを見に行こうと思うの」
リナが、机に置こうとしていた本を抱え直した。
セラはすぐにポルフィラの顔を見た。
「いつ?」
「まだ、日は決めてない」
今度は、考えているだけとは言わなかった。
答えた途端、皆といる時間がとても大切に思えた。
しばらくは、ここで一緒に話せなくなる。
楽しみにしている旅なのに、その寂しさも、はっきりと感じた。
ガルはしばらく黙っていた。
やがて、腕を組み直して聞いた。
「戦いに行くんじゃ、ないんだな」
「うん。何があるのか、見てみたいから」
彼は頷きかけ、途中で止まった。
危なくないとは誰にも言えない。
見知らぬ国には、自分の知らない生き物もいるだろう。
それでも、もう傷だらけで帰ってくる旅であってほしくなかった。
「怪我は、するなよ」
ぶっきらぼうな声に、ポルフィラは頷いた。
シオンも、彼女の腕から顔へ目を戻した。
「今みたいに治るまで待つの、もう嫌だからな」
「気をつける」
セラが、机の上で指を組んだ。
「帰ってくるのは、いつごろ?」
ポルフィラはすぐに答えられなかった。
どこまで行けるのかも分からない。
「行ってみないと分からない。でも、帰ってくるよ。皆に、お土産話をいっぱい持って帰ってくるね」
何でも面白がる、いつもの明るいポルフィラだった。
セラは少し息を吐いた。
「うん。帰ってくる前に、知らせてね。私も、会える日に帰ってきてほしいから」
トーマが、その横で口を開いた。
「俺も町へ泊まりで行くことが増えた。皆がここへ来る日に、帰れないこともあるし」
彼はポルフィラを見た。
「一緒にはいられなくても、話したいことは増える。おまえが帰ってきたら、俺も、どうしてたか話すよ」
リナが本を机へ置いた。
「私も。いつ来ても同じことしか話せないのは、嫌だな」
笑おうとした声が震えた。
リナは少し黙り、それから続けた。
「行かないでって、言いたくないわけじゃないよ。でも、私だって、やりたいことを選べるようになって嬉しかった。ポルフィラにだけ、ここにいてって言うのは……」
言葉が途切れた。
ポルフィラは彼女の手へ右手を伸ばした。
「寂しいって、言ってほしい」
リナが顔を上げた。
「寂しいよ」
その返事に、ポルフィラも泣きそうになった。
リナは握られた手を返した。
「でも、見てみたい場所があるなら、行っておいで。何を見たのか、私たちにも話して」
セラも顔を上げた。
「私にも。帰ってきたら、ゆっくり聞かせて。皆で集まろうよ」
ポルフィラは何度も頷いた。
皆を置いていくような気がしていた。
だが、皆もここで、これからの暮らしを始めている。
自分がいない間にも、悩み、決めて、変わっていくのだ。
「帰ってきたら、私にもみんなのこと教えてね」
トーマが頷き、ガルも口元を緩めた。
帰ってきたとき、皆に話したいことを覚えておこう。
ポルフィラは、まだ知らない景色の中で友達を思い出す自分を、少し想像できた。
*
旅へ出るつもりだと知らせると、マティアスとエステリアも会いに来た。
二人はこの半年の間にも、幾度か村を訪れていた。
ポルフィラもインディルへ飛び、二人と食事をした。
前より頻繁に会えるようになったばかりだった。
話を聞いたマティアスは、膝に置いた手を見つめた。
もっと早く取り戻せたらと、何度も思った娘との時間だった。
今も、隣で過ごす日を増やしたいと願っている。
「戻ったら、また会いに来てくれるかい?」
最初に出た言葉は、それだった。
ポルフィラは頷き、彼の顔を見た。
「うん。帰ってきたら、会いに行くね。お父さん」
マティアスが動かなくなった。
膝に置いた手が、わずかに開く。
ポルフィラを見つめたまま、返事をしようとして唇が震えた。
ずっと、名に「さん」を添えて呼んでいた。
この半年、会って話すたびに、自分を見つめる目から愛情を感じた。
帰るときには、寂しそうな顔をする。
それでも、父だと呼ぶよう言われたことはなかった。
自分が自然とそう呼べるようになるまで、待ってくれていたのだ。
「お父さんも、また村へ来てね。父さんと母さんも、待ってると思う」
マティアスは顔を伏せた。
握り直した手の甲へ、涙が一つ落ちた。
「……ああ。行くよ」
声を整えるように、彼は一度息を継いだ。
育てられなかった年月は、今も悔しい。
だが、目の前の娘が、自分を父として呼んでくれた。
その声を聞けたことが、胸へ満ちていく。
「帰ったら、何を見てきたか聞かせてほしい。海の向こうのことも、おまえが面白いと思ったことも」
ポルフィラは、目を潤ませたまま笑った。
「うん。お父さんが驚きそうなものを見つけたら、覚えておく」
隣で聞いていたエステリアが、目元を押さえた。
もう少し一緒にいたいと思っていた。
だが、今、二人が交わしているのは、帰ってきたあとの約束だった。
「私も、聞きに行くわ。手紙を出せる場所にいたら、途中の話も聞かせて」
「書きます。帰るころにも、知らせますね」
エステリアが頷いた。
「旅の間に、私たちにも話したいことができているかもしれないわね」
「それも、聞きたいです」
マティアスがようやく顔を上げた。
目は赤かったが、先ほどよりも柔らかな表情になっていた。
「そのころには、私も少しは休みを取れるようにしておこう。慌ただしく帰るばかりではなく、ゆっくり会いたい」
ポルフィラは頷いた。
帰ってきたら会いに行く。
今度は、どちらの家で食事をしようか。
そんなことを話すうちに、旅へ出る寂しさのそばへ、戻ってくる日の楽しみも少しずつ生まれていた。
*
その夜、ドランとミレアに、出発の時期を話した。
「ふた月くらい先にしようかと思ってる。それまでは家にいて、支度をしたい」
ミレアは手元の縫い物を畳んだ。
いつか、という言葉が具体的な話になった。
その意味を、ゆっくり受け止めるように頷いた。
「持っていく服を、確かめないとね」
そう言ってから、彼女は目を伏せた。
何を食べ、どこで眠るのか。
熱を出したら誰が額へ触れるのか。
考え始めれば、引き留める理由は幾らでも見つかった。
「心配は、するよ」
ポルフィラは頷いた。
母が顔を上げる。
「心配だから帰っておいでって、言いたくなることもあると思う。でも、行かなきゃよかったとは、思ってほしくない。行くからには楽しんできて欲しい」
涙を堪える顔に、胸が痛んだ。
ポルフィラは母の隣へ椅子を寄せた。
「この部屋で寝られる日が楽しみになるね」
ミレアが、娘の目を見て頷いた。
「帰る前に知らせてくれたら、寝具を干して待ってるよ」
ドランも机へ手を置いた。
「知らせずに、いつでも帰ってくればいい。おまえの家なんだから」
ポルフィラは家の中を見回した。
机も、椅子も、奥の部屋へ続く戸も、そこにある。
旅している間も、父はここで働き、母は暮らしている。
戻った自分を迎える日のことを、二人も考えてくれているのだ。
ミレアが娘の手を取った。
「帰ってきたら、お腹が空いたって言えばいいのよ」
ポルフィラは俯いた。
笑っているのか泣いているのか、自分でも分からなくなった。
ずっと先のことまで考えれば、寂しさも怖さもある。
でも、初めての旅へ出るのだ。
見たことのない土地をオブシディオンと歩き、またこの家へ戻って、父と母に話をする。
その日を楽しみにしていてもいい。
「オブシディオンといっぱい冒険してくるよ」
顔を上げて微笑みながら告げると、父も母も頷いた。
ミレアは握った手を離さず、しばらく娘の顔を見ていた。
戸口の外では、風が道の草を揺らしていた。
ポルフィラは両親と机を囲んだまま、明日から少しずつ始める支度の話をした。




