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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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227/291

第227話 帰る場所を残して

村へ帰ってから、半年余りが過ぎた。


ポルフィラは朝、ミレアと食事を作り、ときには友達と町へ出た。

オブシディオンと飛ぶ日は、戻ってから畑や森の向こうに何が見えたかを話した。

左腕をかばう癖も、いつの間にか薄れていた。


その日、ポルフィラは町の外で竜の背を下りた。

レオンハルトがヴェルディア領を訪れ、戦いで家族を失った人々の話を聞いていた。

会場は、町の外れにある集会所だった。

オブシディオンは窓から姿が見える草地へ伏せ、ポルフィラは広く開けられた戸口のそばに座った。


クラウスと向かい合っていた竜の民の女が、膝の上で紙を握っていた。

「夫の名が、届けにありませんでした。遺族への援助を頼んでも、戦いで死んだと確かめられないと言われて……」

女は紙を広げた。何度も持ち歩いたらしく、折り目が擦り切れていた。


そばにいた村の男が、自分もその場にいたと話し始める。

王と領主が聞いている前で、声を上げるのは怖いのだろう。途中で何度も息を継いだ。


ポルフィラは口を挟もうかと、思わず腰を浮かせた。


だが、レオンハルトが先に椅子を寄せ、優しく言った。

「急がなくて構いません。覚えていることを、聞かせてください」


クラウスも家臣を呼び、なぜ名が記されなかったのか調べるよう命じた。

話を終えた女は、まだ不安そうだった。

だが、王と領主が女に寄り添い、安心するよう声をかけていた。


ポルフィラは椅子へ座り直した。

みんなは確実に天馬の民と、分け隔てなく暮らしていけるよう歩み続けている。


*


聞き取りが終わると、レオンハルトが草地へ来た。

オブシディオンへ近づきすぎないところで足を止め、ポルフィラに声をかける。

「待たせましたね」


「いいえ。あの人がちゃんと希望を伝えられてよかった…」


王は集会所を振り返った。

クラウスはまだ中で、家臣と話していた。


「国の決まりを変えても、希望を届けてもらえない人がいる。あの女性は、何度も足を運んだそうです」

悔しそうな声だった。


ポルフィラは、自分の話を聞いてくれる人を探していたころを思い出した。

あのころ、王の口からこんな言葉を聞けるとは思わなかった。

「……旅へ、出ようかと思っているんです」


レオンハルトが顔を向けた。


口にしてから、ポルフィラは少し緊張した。

「オブシディオンと、この国の外を見に行こうと思ってます。でも、まだ困っている人がいるのに、離れてもいいのか、ずっと考えていました…」


王は黙って聞いていた。

やがて、彼女の背後の竜を見上げた。

「私が即位したときに、あなたは言いましたね。自分がいないところでも、竜の民の話を聞いてほしいと」


ポルフィラは頷いた。


「今も、その約束は変わりません。これからも細部にまで国の方針が伝わるよう、領主たちと力を合わせてやっていきます。あなたも自由に旅立っていいんです…」

そう言ってレオンハルトは、その王子然とした整った顔に上品な微笑みを浮かべた。


その言葉に、ポルフィラは目を伏せた。

安心した。

同時に、少し寂しかった。

そんな気持ちまであるとは思わず、戸惑った。

「帰ってきたときも、聞かせてください。どんな国になったのか、あなたがどう感じたかを…」


顔を上げると、レオンハルトは困ったように笑った。

「よくなったと言ってもらえるようにしたいですが、叱られることもあるでしょうね」


ポルフィラも微笑んだ。

「そのときは、助言させて下さい」


集会所から家臣が呼びに来た。

レオンハルトは会釈をして戻っていく。

ポルフィラはその背を見送ってから、オブシディオンへ手を添えた。

〈行ってみたいって、話した〉


〈聞いていた〉


黒い鼻先が、彼女のそばへ下りた。

ポルフィラは額を寄せ、長く息を吐いた。


*


友達に話したのは、村へ戻った夕方だった。

皆が仕事を終えるのを待って、いつもの家の机へ集まってもらった。

「オブシディオンと、海の向こうを見に行こうと思うの」


リナが、机に置こうとしていた本を抱え直した。


セラはすぐにポルフィラの顔を見た。

「いつ?」


「まだ、日は決めてない」

今度は、考えているだけとは言わなかった。

答えた途端、皆といる時間がとても大切に思えた。

しばらくは、ここで一緒に話せなくなる。

楽しみにしている旅なのに、その寂しさも、はっきりと感じた。


ガルはしばらく黙っていた。

やがて、腕を組み直して聞いた。

「戦いに行くんじゃ、ないんだな」


「うん。何があるのか、見てみたいから」


彼は頷きかけ、途中で止まった。

危なくないとは誰にも言えない。

見知らぬ国には、自分の知らない生き物もいるだろう。

それでも、もう傷だらけで帰ってくる旅であってほしくなかった。


「怪我は、するなよ」


ぶっきらぼうな声に、ポルフィラは頷いた。


シオンも、彼女の腕から顔へ目を戻した。

「今みたいに治るまで待つの、もう嫌だからな」


「気をつける」


セラが、机の上で指を組んだ。

「帰ってくるのは、いつごろ?」


ポルフィラはすぐに答えられなかった。

どこまで行けるのかも分からない。

「行ってみないと分からない。でも、帰ってくるよ。皆に、お土産話をいっぱい持って帰ってくるね」

何でも面白がる、いつもの明るいポルフィラだった。


セラは少し息を吐いた。

「うん。帰ってくる前に、知らせてね。私も、会える日に帰ってきてほしいから」


トーマが、その横で口を開いた。

「俺も町へ泊まりで行くことが増えた。皆がここへ来る日に、帰れないこともあるし」

彼はポルフィラを見た。

「一緒にはいられなくても、話したいことは増える。おまえが帰ってきたら、俺も、どうしてたか話すよ」


リナが本を机へ置いた。

「私も。いつ来ても同じことしか話せないのは、嫌だな」

笑おうとした声が震えた。

リナは少し黙り、それから続けた。

「行かないでって、言いたくないわけじゃないよ。でも、私だって、やりたいことを選べるようになって嬉しかった。ポルフィラにだけ、ここにいてって言うのは……」

言葉が途切れた。


ポルフィラは彼女の手へ右手を伸ばした。

「寂しいって、言ってほしい」


リナが顔を上げた。

「寂しいよ」


その返事に、ポルフィラも泣きそうになった。


リナは握られた手を返した。

「でも、見てみたい場所があるなら、行っておいで。何を見たのか、私たちにも話して」


セラも顔を上げた。

「私にも。帰ってきたら、ゆっくり聞かせて。皆で集まろうよ」


ポルフィラは何度も頷いた。

皆を置いていくような気がしていた。

だが、皆もここで、これからの暮らしを始めている。

自分がいない間にも、悩み、決めて、変わっていくのだ。

「帰ってきたら、私にもみんなのこと教えてね」


トーマが頷き、ガルも口元を緩めた。

帰ってきたとき、皆に話したいことを覚えておこう。

ポルフィラは、まだ知らない景色の中で友達を思い出す自分を、少し想像できた。


*


旅へ出るつもりだと知らせると、マティアスとエステリアも会いに来た。

二人はこの半年の間にも、幾度か村を訪れていた。

ポルフィラもインディルへ飛び、二人と食事をした。

前より頻繁に会えるようになったばかりだった。


話を聞いたマティアスは、膝に置いた手を見つめた。

もっと早く取り戻せたらと、何度も思った娘との時間だった。

今も、隣で過ごす日を増やしたいと願っている。

「戻ったら、また会いに来てくれるかい?」

最初に出た言葉は、それだった。


ポルフィラは頷き、彼の顔を見た。

「うん。帰ってきたら、会いに行くね。お父さん」


マティアスが動かなくなった。

膝に置いた手が、わずかに開く。

ポルフィラを見つめたまま、返事をしようとして唇が震えた。


ずっと、名に「さん」を添えて呼んでいた。

この半年、会って話すたびに、自分を見つめる目から愛情を感じた。

帰るときには、寂しそうな顔をする。

それでも、父だと呼ぶよう言われたことはなかった。

自分が自然とそう呼べるようになるまで、待ってくれていたのだ。

「お父さんも、また村へ来てね。父さんと母さんも、待ってると思う」


マティアスは顔を伏せた。

握り直した手の甲へ、涙が一つ落ちた。

「……ああ。行くよ」

声を整えるように、彼は一度息を継いだ。

育てられなかった年月は、今も悔しい。

だが、目の前の娘が、自分を父として呼んでくれた。

その声を聞けたことが、胸へ満ちていく。

「帰ったら、何を見てきたか聞かせてほしい。海の向こうのことも、おまえが面白いと思ったことも」


ポルフィラは、目を潤ませたまま笑った。

「うん。お父さんが驚きそうなものを見つけたら、覚えておく」


隣で聞いていたエステリアが、目元を押さえた。

もう少し一緒にいたいと思っていた。

だが、今、二人が交わしているのは、帰ってきたあとの約束だった。

「私も、聞きに行くわ。手紙を出せる場所にいたら、途中の話も聞かせて」


「書きます。帰るころにも、知らせますね」


エステリアが頷いた。

「旅の間に、私たちにも話したいことができているかもしれないわね」


「それも、聞きたいです」


マティアスがようやく顔を上げた。

目は赤かったが、先ほどよりも柔らかな表情になっていた。

「そのころには、私も少しは休みを取れるようにしておこう。慌ただしく帰るばかりではなく、ゆっくり会いたい」


ポルフィラは頷いた。

帰ってきたら会いに行く。

今度は、どちらの家で食事をしようか。

そんなことを話すうちに、旅へ出る寂しさのそばへ、戻ってくる日の楽しみも少しずつ生まれていた。


*


その夜、ドランとミレアに、出発の時期を話した。

「ふた月くらい先にしようかと思ってる。それまでは家にいて、支度をしたい」


ミレアは手元の縫い物を畳んだ。

いつか、という言葉が具体的な話になった。

その意味を、ゆっくり受け止めるように頷いた。


「持っていく服を、確かめないとね」

そう言ってから、彼女は目を伏せた。

何を食べ、どこで眠るのか。

熱を出したら誰が額へ触れるのか。

考え始めれば、引き留める理由は幾らでも見つかった。

「心配は、するよ」


ポルフィラは頷いた。


母が顔を上げる。

「心配だから帰っておいでって、言いたくなることもあると思う。でも、行かなきゃよかったとは、思ってほしくない。行くからには楽しんできて欲しい」


涙を堪える顔に、胸が痛んだ。

ポルフィラは母の隣へ椅子を寄せた。

「この部屋で寝られる日が楽しみになるね」


ミレアが、娘の目を見て頷いた。

「帰る前に知らせてくれたら、寝具を干して待ってるよ」


ドランも机へ手を置いた。

「知らせずに、いつでも帰ってくればいい。おまえの家なんだから」


ポルフィラは家の中を見回した。

机も、椅子も、奥の部屋へ続く戸も、そこにある。

旅している間も、父はここで働き、母は暮らしている。

戻った自分を迎える日のことを、二人も考えてくれているのだ。


ミレアが娘の手を取った。

「帰ってきたら、お腹が空いたって言えばいいのよ」


ポルフィラは俯いた。

笑っているのか泣いているのか、自分でも分からなくなった。

ずっと先のことまで考えれば、寂しさも怖さもある。

でも、初めての旅へ出るのだ。

見たことのない土地をオブシディオンと歩き、またこの家へ戻って、父と母に話をする。

その日を楽しみにしていてもいい。

「オブシディオンといっぱい冒険してくるよ」

顔を上げて微笑みながら告げると、父も母も頷いた。


ミレアは握った手を離さず、しばらく娘の顔を見ていた。


戸口の外では、風が道の草を揺らしていた。

ポルフィラは両親と机を囲んだまま、明日から少しずつ始める支度の話をした。

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