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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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226/291

第226話 まだ見ぬ空へ

話し終えるころには、窓の外が暗くなっていた。

リナたちは帰り際まで、何か言葉を探していた。

セラはポルフィラの手を握り直し、明日も来ると言った。

いつもなら別れるときに振るだけの手を、その夜はなかなか離せなかった。


皆を見送ったあと、ポルフィラは家の前に立っていた。

泣き疲れた目に、夜風が冷たい。

隠していたことは話せた。

もう一人で笑顔を作らなくてもよい。

それでも、皆の寿命が変わるわけではない。


〈オブシディオン〉


名を呼ぶと、すぐに返事があった。

〈ここにいる〉


ポルフィラは森の手前へ目を向けた。

家々から離れた草地で、彼は休んでいる。


「少し、オブシディオンのところへ行ってくる」


戸口にいたミレアへ伝えると、母は頷いた。

「上着を着ておいで」


それだけ言い、家の中から上着を持ってきてくれた。

自分を見送る母の顔を、ポルフィラはまた見てしまった。

ミレアは気づいていたが、何も聞かなかった。


*


足音が草地へ入る前に、竜が頭を上げた。

ポルフィラはそのそばへ歩み寄り、黒い鼻先へ右手を置いた。

〈皆に、話したよ〉


〈ああ〉


〈心配、かけちゃった〉


オブシディオンは、彼女の顔へ鼻先を寄せた。

熱い息が頬を撫でる。

慰めの言葉はなかった。

そのことに、今はほっとした。

ポルフィラは彼の頭のそばへ腰を下ろした。

草の匂いがする。少し離れた村では、まだ幾つかの家に灯りがついていた。

〈帰ってきたかったの。父さんと母さんに会って、皆と、何でもない話をしたかった〉


竜は頭を下ろし、彼女の隣へ置いた。


ポルフィラは指で鱗の縁をなぞる。

〈今日はたくさん話せた…すごく嬉しかった。でもいつまでも同じままではいられない〉

声にすると、また胸が痛くなった。

目の前にある灯りが無くなるところを、考えたくないのに考えてしまう。

〈あなたは、エルディオがいなくなったあと、ずっと覚えていたんだよね…〉


しばらく、風に草が擦れる音だけがした。


〈……覚えている〉

低い声が届いた。


〈今も、会いたいと思う?〉


〈思う…〉


ポルフィラは目を閉じた。

大丈夫だと言ってもらいたかったのかもしれない。

長く生きれば、そのうち寂しくなくなるのだと…

だが、彼はそんな答えをくれなかった。


〈この姿に戻ったとき、あいつに呼びかけたくなった。もう返事はないと、知っていたのに…〉

紫の瞳が、ポルフィラを見ていた。


〈……寂しかったね〉


彼は答えなかった。

ポルフィラは鱗へ額を寄せた。自分よりずっと長く生きているこの竜にも、どうにもならない別れがあった。

自分の未来を考えるようになるまで、ちゃんと分かってなかった。


〈ポルフィラ〉

しばらく経って、彼が呼んだ。


〈私と、ほかの土地を見に行かぬか?〉


額を離し、顔を上げた。

オブシディオンの視線は、村の灯りを越えた先へ向いていた。


〈この国の外へ?〉


〈海の向こうにも、山の向こうにも、人はいる。人のいない土地もある。おまえがまだ見たことのないものが、幾らでもある〉


彼女は、遠くの暗がりへ目を向けた。

空を飛ぶようになっても、向かう先には戦いがあった。

王兵がいるか、天馬が来ていないか。

地上を見つめながら、そんなことばかり考えていた。

見知らぬ土地を、ただ見てみたいと思って飛んだことは無かった。

〈私を、誘ってくれるの?〉


〈おまえと行きたい〉

返事はすぐにあった。


ポルフィラは右手を鱗へ押し当てた。


〈…エルディオにも、そう言ったことがある〉


彼女はオブシディオンを見た。


〈まだ、セレフィアと出会う前だ。あいつは、人の争いの間に立ってばかりいた〉

竜の目が細くなった。

〈誰の言い分を先に聞くかでも、また揉める。昨日収めた争いの続きを、翌日も聞かされる。私は、よく飽きぬものだと思っていた〉


ポルフィラの口元が、少し緩んだ。

そんなふうに隣から眺めていたオブシディオンと、困った顔で人々の話を聞くエルディオが、思い浮かぶ気がした。

〈それで?〉


〈そんな小さな争いに煩わされていないで、私と広い世界を見に行こうと言った〉

オブシディオンは、少し首を動かした。

〈…あいつは、笑った。ここの者たちが落ち着いたら行こう、と…〉


〈…行かなかったんだね…〉


〈次に尋ねたときも、もう少しだけと言った。そのうち何年も過ぎた…〉


ポルフィラは黙って聞いていた。


〈そして、セレフィアと出会った〉


その名を伝える声は、静かだった。


〈あの人と暮らしたくなったのね…〉


〈ああ。離れようとはしなくなった。旅の話をすれば、セレフィアにも見せたいと言った〉


ポルフィラは、息を詰めた。

その旅も、叶わなかったのだ。

二人には子どもが生まれ、国があり、人々がいて、そのあとにあの出来事が起きた。

〈あなたは、行きたかったんでしょう〉


〈…行きたかった〉


素直な返事に、胸が痛んだ。

だが彼は、エルディオを責めなかった。


〈あいつと飛ぶのが、好きだった。遠くへは行けなかったがな〉


ポルフィラは、隣に置かれた大きな頭へ頬を寄せた。

エルディオを守り、一緒に人々の暮らす土地を飛んでいた竜。

今は、その背に自分を乗せてくれる。

〈私も、あなたと飛ぶのが好き…〉

言ってから、少し間を置いた。

〈戦いに行くんじゃなくて、ただあなたと飛ぶことを楽しみたい。遠い所には何があるのか、どこまで続いているのか……見てみたい〉

その光景を思い描いて、心が少し軽くなる。

対岸の見えない海の向こうには、どんな土地があるのだろう?

オブシディオンの生まれた、火を吹く山々も見てみたい。

だが、村の方へ顔を向けると、灯りはまだそこにあった。

〈…でも、父さんたちと離れるのも、嫌…〉

目が熱くなった。

皆を置いて旅立つ話をしている…

それを知ったら、母はどんな顔をするだろう。


〈…あなたとも、離れられない〉

右手が鱗を滑った。

その先へ腕を回すには、あまりに大きすぎる。

それでも、できるだけ身を寄せた。

〈皆と同じように年を取れたらって、思う。でも、あなたがいない暮らしを選べるかって言われたら……できないの〉

言葉にして、ようやく分かった。

長く生きるのは怖い。

それでも、この竜と出会わなければよかったとは思えなかった。

彼が傷つけられれば、今も自分は戦うだろう。

優しい人間ではいられなくなるほど、彼が大切だった。


オブシディオンが鼻先を寄せた。

〈急ぐことはない。おまえにも私にも、長い時間がある。好きなだけ、ここで暮らせばよい〉


ポルフィラは、少し笑ってしまった。

今すぐどちらかを選べと言われたかのように、焦って答えを出そうとしていた。

〈うん…〉

目元を拭い、村の灯りを見つめ直す。


何をしていても、皆と別れる未来は消えない。

オブシディオンと飛んでも、その恐怖からは逃れられない。

彼は、ずっとここで暮らしても、旅立っても、一緒にいると言ってくれた。

皆がいなくなったあとにも続く時間を、初めて、ほんの少しだけ思い描けた。


*


家へ戻ると、ドランが戸口の椅子に座っていた。

仕事着のまま、道の方を見ている。


「眠れなかった?」

ポルフィラが尋ねると、父は頷いた。

「おまえもだろう」

隣へ腰を下ろした。

しばらく二人で、暗い道を見ていた。

家の中では母が食器を片づけている。


「オブシディオンに、旅へ行こうって誘われた」


ドランの顔が、ゆっくりこちらへ向いた。


ポルフィラは父の目を見られず、膝へ視線を落とした。

「この国の外にも、まだ見たことのない場所があるからって」


「おまえは、行きたいのか?」


すぐには答えられなかった。

だが、違うとも言えなかった。

「いつか見てみたい……。でも、まだここにいたい…」


父の手が、膝の上で組み直された。

長い沈黙のあと、ドランが息を吐いた。

「俺も、ここにいてほしいよ」


その言葉が、胸へ深く沈んだ。

父がいてほしいと言うなら、ずっと自分もここにいたい。


「だが、行きたくないふりをされるのも、つらい」


顔を上げた。


ドランは困ったように眉を寄せていた。

「おまえが目を覚まさないと聞いたとき、もう何も望まんから帰ってきてくれと思った。帰ってきたら、今度は、ずっとそばにいろと言いたくなる」

父は小さく首を振った。

「その話は、母さんにもしてやれ。いつか行ってみたいと考えてるなら、そう言えばいい」


ポルフィラは、頷くまでに時間がかかった。

引き留められるのも、送り出されるのも、どちらも苦しかった。

それでも、行きたいと思ったことを、父に隠さずに済んだ。

「海の向こうへ、行ってみたい…」

ようやく、それだけ言った。


ドランは娘の顔を見て、もう一度頷いた。

ポルフィラは隣に座ったまま、話で聞いた、どこまでも続く水の向こうのことを、少しずつ話し始めた。



*


翌朝、旅の話を聞いたミレアは、手にしていた布を机へ置いた。

「もう、行くつもりなの?」


ポルフィラは首を振った。

「まさか…。まだ皆と暮らしたいし、この国がどう変わるのか知りたい」


母の肩が、目に見えて下がった。


安堵したのだと分かって、ポルフィラも少し息を吐いた。

「先の事を考えて、怖がってるだけじゃなくて、叶えてみたい夢ができたって事を知っていてほしかった」


ミレアは頷いた。

「……そう…聞かせてくれて、ありがとう」

それから布を取り上げ、食事の支度へ戻った。


ポルフィラも立ち上がって手を貸した。

母が野菜を切る間に、食器を並べる。

父が仕事場から顔を出し、何気ない会話をする。

いつもの朝だった。

それが、今は嬉しかった。


*


二か月ほど経った日の昼、トーマは町の荷問屋の前で、明日の仕事を断った。

「明日は、別の人に頼まれています」


帳面をつけていた問屋の主人が顔を上げた。

「そちらを断ればいい」


トーマは、肩に掛けた布を握った。

今日の荷は運び終えた。

代価も受け取った。

明日の仕事は、前から決まっている。

自分で決めて、断る自由が与えらた。

だが、主人が不機嫌になっただけで、不安が押し寄せる…

「……先に約束したので、変えられません」


主人は筆を置いた。

「竜の民が、ずいぶん勝手を言うようになったな」


トーマの背が強張った。

謝罪の言葉が出かけ、堪えた。

もうこれまでのように、生きてはいけない。

「……役所で、確かめてきます」

声が震えた。


主人が何か言ったが、聞き返す勇気まではなかった。

トーマは道へ出て、役所へ向かった。

戻ってきたとき、隣には聞き取り係の役人がいた。

主人の顔が変わった。

「私も来てほしいと、頼んだだけだ」


役人はトーマにも同じことを確かめた。

トーマは、途中で言葉に詰まりながら、何があったか説明した。


「竜の民を侮辱する事は禁じられています」

役人が主人へ告げた。

「彼らは、あなたと同じ立場の領民です。あなたへの苦情があったことを記録します」


主人は、もうトーマへ目を向けなかった。

店を離れてからも、膝の震えはしばらく止まらなかった。


その話を聞いたのは、ポルフィラが夕方、村の道で彼に会ったときだった。

「役人が、一緒に戻ってくれたんだね」


「ああ。俺の話を聞いてくれた…」

トーマは笑いかけ、うまくいかずに頭を掻いた。

「明日は約束した方の仕事へ行く。しばらく断った店の前は通れないと思うけど…」


ポルフィラは頷いた。

竜の民の権利は守られている。

「……よかった」

声にすると、思ったよりも胸に響いた。


トーマは今度こそ笑った。

「今度、断った店の奴に会っても平気でいられたら、もっといいんだけどな」


*


さらにひと月ほどして、アドリアンがソレインで村を訪れた。

約束どおり、戦の知らせは持たずに来た。


ドランの家で食事をしながら、彼は領地の話をした。

竜の民に金を払うくらいなら雇わないと言っていた者が、修繕を頼みに行ったこと。

でもその仕事を断られ、もっと早く頼めばよかったと怒って帰ったこと。


「それで、どうしたんですか?」

ポルフィラが聞くと、アドリアンは少し笑った。

「順番を待つように伝えた。誰を先にするかは、頼まれた職人が決めることだからな」


ドランも、つられたように笑った。


その顔を見て、アドリアンは目を細めた。

「父のころなら、待たせた職人は罰せられていただろう…」


笑いは、そこで少し静まった。


彼は食事へ目を落としてから続けた。

「私の顔を見ただけで、謝る人がいる。それを見ると、まだ何も変わっていないような気がすることもある。でも、領民達は少しずつ受け入れ始めている。今はそれでいいと思うことにした」


ポルフィラは、両親と顔を見合わせた。

ドランは笑顔で頷き、アドリアンの皿へ料理を足した。


食後、二人でオブシディオンのところへ歩いた。

ソレインは少し離れて草を食んでいたが、アドリアンが近づくと顔を上げた。


「陛下も、苦労している。すぐに暮らしが楽になると思っていた人から、不満が出ているそうだ」


「レオンハルト様は、大丈夫ですか…?」


「楽ではないだろうな。だが、領主たちへ助言を求めている。私にも、国の決めた方針を家臣が守っているか確かめろと言ってきた」

アドリアンは、少し口元を緩めた。

「君のところはどうかと、聞かれなかったか?」


「聞かれました。今度は、トーマのことを書いて送ります」


彼は頷いた。

ポルフィラは、夕日の当たる村へ目を向けた。


畑へ出る人も、町へ働きに出る人もいる。

やりたいことが分からないと、今も首を傾げる人もいた。

自分も毎日そこで暮らし、ときどき友達と町へ出かけた。

左腕はもう治り、家の仕事も手伝っている。

遠くへ行きたい気持ちは、消えていなかった。

それでも、朝起きて母と食事を作り、父の仕事を眺め、友達と明日の約束をする時間が、大切だった。


アドリアンは物思いに耽るポルフィラを、静かに見つめていた。


アドリアンを見送り、ポルフィラはオブシディオンの鼻先へ触れた。

〈…まだ、ここにいようね〉


〈ああ〉


彼の紫の瞳に、村の方から駆けてくるリナの姿が映った。

明日、町へ行かないかと呼んでいる。

ポルフィラは手を上げて返事をし、オブシディオンへ振り向いて笑った。

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