第226話 まだ見ぬ空へ
話し終えるころには、窓の外が暗くなっていた。
リナたちは帰り際まで、何か言葉を探していた。
セラはポルフィラの手を握り直し、明日も来ると言った。
いつもなら別れるときに振るだけの手を、その夜はなかなか離せなかった。
皆を見送ったあと、ポルフィラは家の前に立っていた。
泣き疲れた目に、夜風が冷たい。
隠していたことは話せた。
もう一人で笑顔を作らなくてもよい。
それでも、皆の寿命が変わるわけではない。
〈オブシディオン〉
名を呼ぶと、すぐに返事があった。
〈ここにいる〉
ポルフィラは森の手前へ目を向けた。
家々から離れた草地で、彼は休んでいる。
「少し、オブシディオンのところへ行ってくる」
戸口にいたミレアへ伝えると、母は頷いた。
「上着を着ておいで」
それだけ言い、家の中から上着を持ってきてくれた。
自分を見送る母の顔を、ポルフィラはまた見てしまった。
ミレアは気づいていたが、何も聞かなかった。
*
足音が草地へ入る前に、竜が頭を上げた。
ポルフィラはそのそばへ歩み寄り、黒い鼻先へ右手を置いた。
〈皆に、話したよ〉
〈ああ〉
〈心配、かけちゃった〉
オブシディオンは、彼女の顔へ鼻先を寄せた。
熱い息が頬を撫でる。
慰めの言葉はなかった。
そのことに、今はほっとした。
ポルフィラは彼の頭のそばへ腰を下ろした。
草の匂いがする。少し離れた村では、まだ幾つかの家に灯りがついていた。
〈帰ってきたかったの。父さんと母さんに会って、皆と、何でもない話をしたかった〉
竜は頭を下ろし、彼女の隣へ置いた。
ポルフィラは指で鱗の縁をなぞる。
〈今日はたくさん話せた…すごく嬉しかった。でもいつまでも同じままではいられない〉
声にすると、また胸が痛くなった。
目の前にある灯りが無くなるところを、考えたくないのに考えてしまう。
〈あなたは、エルディオがいなくなったあと、ずっと覚えていたんだよね…〉
しばらく、風に草が擦れる音だけがした。
〈……覚えている〉
低い声が届いた。
〈今も、会いたいと思う?〉
〈思う…〉
ポルフィラは目を閉じた。
大丈夫だと言ってもらいたかったのかもしれない。
長く生きれば、そのうち寂しくなくなるのだと…
だが、彼はそんな答えをくれなかった。
〈この姿に戻ったとき、あいつに呼びかけたくなった。もう返事はないと、知っていたのに…〉
紫の瞳が、ポルフィラを見ていた。
〈……寂しかったね〉
彼は答えなかった。
ポルフィラは鱗へ額を寄せた。自分よりずっと長く生きているこの竜にも、どうにもならない別れがあった。
自分の未来を考えるようになるまで、ちゃんと分かってなかった。
〈ポルフィラ〉
しばらく経って、彼が呼んだ。
〈私と、ほかの土地を見に行かぬか?〉
額を離し、顔を上げた。
オブシディオンの視線は、村の灯りを越えた先へ向いていた。
〈この国の外へ?〉
〈海の向こうにも、山の向こうにも、人はいる。人のいない土地もある。おまえがまだ見たことのないものが、幾らでもある〉
彼女は、遠くの暗がりへ目を向けた。
空を飛ぶようになっても、向かう先には戦いがあった。
王兵がいるか、天馬が来ていないか。
地上を見つめながら、そんなことばかり考えていた。
見知らぬ土地を、ただ見てみたいと思って飛んだことは無かった。
〈私を、誘ってくれるの?〉
〈おまえと行きたい〉
返事はすぐにあった。
ポルフィラは右手を鱗へ押し当てた。
〈…エルディオにも、そう言ったことがある〉
彼女はオブシディオンを見た。
〈まだ、セレフィアと出会う前だ。あいつは、人の争いの間に立ってばかりいた〉
竜の目が細くなった。
〈誰の言い分を先に聞くかでも、また揉める。昨日収めた争いの続きを、翌日も聞かされる。私は、よく飽きぬものだと思っていた〉
ポルフィラの口元が、少し緩んだ。
そんなふうに隣から眺めていたオブシディオンと、困った顔で人々の話を聞くエルディオが、思い浮かぶ気がした。
〈それで?〉
〈そんな小さな争いに煩わされていないで、私と広い世界を見に行こうと言った〉
オブシディオンは、少し首を動かした。
〈…あいつは、笑った。ここの者たちが落ち着いたら行こう、と…〉
〈…行かなかったんだね…〉
〈次に尋ねたときも、もう少しだけと言った。そのうち何年も過ぎた…〉
ポルフィラは黙って聞いていた。
〈そして、セレフィアと出会った〉
その名を伝える声は、静かだった。
〈あの人と暮らしたくなったのね…〉
〈ああ。離れようとはしなくなった。旅の話をすれば、セレフィアにも見せたいと言った〉
ポルフィラは、息を詰めた。
その旅も、叶わなかったのだ。
二人には子どもが生まれ、国があり、人々がいて、そのあとにあの出来事が起きた。
〈あなたは、行きたかったんでしょう〉
〈…行きたかった〉
素直な返事に、胸が痛んだ。
だが彼は、エルディオを責めなかった。
〈あいつと飛ぶのが、好きだった。遠くへは行けなかったがな〉
ポルフィラは、隣に置かれた大きな頭へ頬を寄せた。
エルディオを守り、一緒に人々の暮らす土地を飛んでいた竜。
今は、その背に自分を乗せてくれる。
〈私も、あなたと飛ぶのが好き…〉
言ってから、少し間を置いた。
〈戦いに行くんじゃなくて、ただあなたと飛ぶことを楽しみたい。遠い所には何があるのか、どこまで続いているのか……見てみたい〉
その光景を思い描いて、心が少し軽くなる。
対岸の見えない海の向こうには、どんな土地があるのだろう?
オブシディオンの生まれた、火を吹く山々も見てみたい。
だが、村の方へ顔を向けると、灯りはまだそこにあった。
〈…でも、父さんたちと離れるのも、嫌…〉
目が熱くなった。
皆を置いて旅立つ話をしている…
それを知ったら、母はどんな顔をするだろう。
〈…あなたとも、離れられない〉
右手が鱗を滑った。
その先へ腕を回すには、あまりに大きすぎる。
それでも、できるだけ身を寄せた。
〈皆と同じように年を取れたらって、思う。でも、あなたがいない暮らしを選べるかって言われたら……できないの〉
言葉にして、ようやく分かった。
長く生きるのは怖い。
それでも、この竜と出会わなければよかったとは思えなかった。
彼が傷つけられれば、今も自分は戦うだろう。
優しい人間ではいられなくなるほど、彼が大切だった。
オブシディオンが鼻先を寄せた。
〈急ぐことはない。おまえにも私にも、長い時間がある。好きなだけ、ここで暮らせばよい〉
ポルフィラは、少し笑ってしまった。
今すぐどちらかを選べと言われたかのように、焦って答えを出そうとしていた。
〈うん…〉
目元を拭い、村の灯りを見つめ直す。
何をしていても、皆と別れる未来は消えない。
オブシディオンと飛んでも、その恐怖からは逃れられない。
彼は、ずっとここで暮らしても、旅立っても、一緒にいると言ってくれた。
皆がいなくなったあとにも続く時間を、初めて、ほんの少しだけ思い描けた。
*
家へ戻ると、ドランが戸口の椅子に座っていた。
仕事着のまま、道の方を見ている。
「眠れなかった?」
ポルフィラが尋ねると、父は頷いた。
「おまえもだろう」
隣へ腰を下ろした。
しばらく二人で、暗い道を見ていた。
家の中では母が食器を片づけている。
「オブシディオンに、旅へ行こうって誘われた」
ドランの顔が、ゆっくりこちらへ向いた。
ポルフィラは父の目を見られず、膝へ視線を落とした。
「この国の外にも、まだ見たことのない場所があるからって」
「おまえは、行きたいのか?」
すぐには答えられなかった。
だが、違うとも言えなかった。
「いつか見てみたい……。でも、まだここにいたい…」
父の手が、膝の上で組み直された。
長い沈黙のあと、ドランが息を吐いた。
「俺も、ここにいてほしいよ」
その言葉が、胸へ深く沈んだ。
父がいてほしいと言うなら、ずっと自分もここにいたい。
「だが、行きたくないふりをされるのも、つらい」
顔を上げた。
ドランは困ったように眉を寄せていた。
「おまえが目を覚まさないと聞いたとき、もう何も望まんから帰ってきてくれと思った。帰ってきたら、今度は、ずっとそばにいろと言いたくなる」
父は小さく首を振った。
「その話は、母さんにもしてやれ。いつか行ってみたいと考えてるなら、そう言えばいい」
ポルフィラは、頷くまでに時間がかかった。
引き留められるのも、送り出されるのも、どちらも苦しかった。
それでも、行きたいと思ったことを、父に隠さずに済んだ。
「海の向こうへ、行ってみたい…」
ようやく、それだけ言った。
ドランは娘の顔を見て、もう一度頷いた。
ポルフィラは隣に座ったまま、話で聞いた、どこまでも続く水の向こうのことを、少しずつ話し始めた。
*
翌朝、旅の話を聞いたミレアは、手にしていた布を机へ置いた。
「もう、行くつもりなの?」
ポルフィラは首を振った。
「まさか…。まだ皆と暮らしたいし、この国がどう変わるのか知りたい」
母の肩が、目に見えて下がった。
安堵したのだと分かって、ポルフィラも少し息を吐いた。
「先の事を考えて、怖がってるだけじゃなくて、叶えてみたい夢ができたって事を知っていてほしかった」
ミレアは頷いた。
「……そう…聞かせてくれて、ありがとう」
それから布を取り上げ、食事の支度へ戻った。
ポルフィラも立ち上がって手を貸した。
母が野菜を切る間に、食器を並べる。
父が仕事場から顔を出し、何気ない会話をする。
いつもの朝だった。
それが、今は嬉しかった。
*
二か月ほど経った日の昼、トーマは町の荷問屋の前で、明日の仕事を断った。
「明日は、別の人に頼まれています」
帳面をつけていた問屋の主人が顔を上げた。
「そちらを断ればいい」
トーマは、肩に掛けた布を握った。
今日の荷は運び終えた。
代価も受け取った。
明日の仕事は、前から決まっている。
自分で決めて、断る自由が与えらた。
だが、主人が不機嫌になっただけで、不安が押し寄せる…
「……先に約束したので、変えられません」
主人は筆を置いた。
「竜の民が、ずいぶん勝手を言うようになったな」
トーマの背が強張った。
謝罪の言葉が出かけ、堪えた。
もうこれまでのように、生きてはいけない。
「……役所で、確かめてきます」
声が震えた。
主人が何か言ったが、聞き返す勇気まではなかった。
トーマは道へ出て、役所へ向かった。
戻ってきたとき、隣には聞き取り係の役人がいた。
主人の顔が変わった。
「私も来てほしいと、頼んだだけだ」
役人はトーマにも同じことを確かめた。
トーマは、途中で言葉に詰まりながら、何があったか説明した。
「竜の民を侮辱する事は禁じられています」
役人が主人へ告げた。
「彼らは、あなたと同じ立場の領民です。あなたへの苦情があったことを記録します」
主人は、もうトーマへ目を向けなかった。
店を離れてからも、膝の震えはしばらく止まらなかった。
その話を聞いたのは、ポルフィラが夕方、村の道で彼に会ったときだった。
「役人が、一緒に戻ってくれたんだね」
「ああ。俺の話を聞いてくれた…」
トーマは笑いかけ、うまくいかずに頭を掻いた。
「明日は約束した方の仕事へ行く。しばらく断った店の前は通れないと思うけど…」
ポルフィラは頷いた。
竜の民の権利は守られている。
「……よかった」
声にすると、思ったよりも胸に響いた。
トーマは今度こそ笑った。
「今度、断った店の奴に会っても平気でいられたら、もっといいんだけどな」
*
さらにひと月ほどして、アドリアンがソレインで村を訪れた。
約束どおり、戦の知らせは持たずに来た。
ドランの家で食事をしながら、彼は領地の話をした。
竜の民に金を払うくらいなら雇わないと言っていた者が、修繕を頼みに行ったこと。
でもその仕事を断られ、もっと早く頼めばよかったと怒って帰ったこと。
「それで、どうしたんですか?」
ポルフィラが聞くと、アドリアンは少し笑った。
「順番を待つように伝えた。誰を先にするかは、頼まれた職人が決めることだからな」
ドランも、つられたように笑った。
その顔を見て、アドリアンは目を細めた。
「父のころなら、待たせた職人は罰せられていただろう…」
笑いは、そこで少し静まった。
彼は食事へ目を落としてから続けた。
「私の顔を見ただけで、謝る人がいる。それを見ると、まだ何も変わっていないような気がすることもある。でも、領民達は少しずつ受け入れ始めている。今はそれでいいと思うことにした」
ポルフィラは、両親と顔を見合わせた。
ドランは笑顔で頷き、アドリアンの皿へ料理を足した。
食後、二人でオブシディオンのところへ歩いた。
ソレインは少し離れて草を食んでいたが、アドリアンが近づくと顔を上げた。
「陛下も、苦労している。すぐに暮らしが楽になると思っていた人から、不満が出ているそうだ」
「レオンハルト様は、大丈夫ですか…?」
「楽ではないだろうな。だが、領主たちへ助言を求めている。私にも、国の決めた方針を家臣が守っているか確かめろと言ってきた」
アドリアンは、少し口元を緩めた。
「君のところはどうかと、聞かれなかったか?」
「聞かれました。今度は、トーマのことを書いて送ります」
彼は頷いた。
ポルフィラは、夕日の当たる村へ目を向けた。
畑へ出る人も、町へ働きに出る人もいる。
やりたいことが分からないと、今も首を傾げる人もいた。
自分も毎日そこで暮らし、ときどき友達と町へ出かけた。
左腕はもう治り、家の仕事も手伝っている。
遠くへ行きたい気持ちは、消えていなかった。
それでも、朝起きて母と食事を作り、父の仕事を眺め、友達と明日の約束をする時間が、大切だった。
アドリアンは物思いに耽るポルフィラを、静かに見つめていた。
アドリアンを見送り、ポルフィラはオブシディオンの鼻先へ触れた。
〈…まだ、ここにいようね〉
〈ああ〉
彼の紫の瞳に、村の方から駆けてくるリナの姿が映った。
明日、町へ行かないかと呼んでいる。
ポルフィラは手を上げて返事をし、オブシディオンへ振り向いて笑った。




