第225話 帰ってきた家
東門前の広場へ出る直前、王は足を止めた。
幕の隙間から、人々の顔が見える。
自分が現れれば頭を下げるはずの者たちが、今日は何を言うのかと、顔を上げたまま待っていた。
喪の布を腕に巻いた女がいる。
そのそばに立つ少年も、王の顔を見ても頭を下げなかった。
王の指が、手元の文を握り込んだ。
読み上げる言葉は、昨夜から何度も確かめてある。
それでも、人前へ出ようとすると足が重かった。
「父上」
隣のレオンハルトが呼んだ。
王は顔を向けたが、息子に代わりに話せとは言わなかった。
あの少年の前にも、兵を失った家族の前にも、自分で立たなければならない。
王は文を開き直した。
「行く」
壇へ上がると、人々の声が遠くなった。
あれほど失うことを恐れた王位を、今から自分で手放す。
「…私は、王位を退く」
ざわめきが起きた。
誰かが隣の者へ聞き返し、広場の奥から、よく聞こえないと声が飛ぶ。
王は、もう一度同じ言葉を告げた。
「領主たちとの戦いを命じ、多くの兵と民を失わせた。その責任は、私にある」
前列の女が口を押さえた。
泣いているのか、言いたいことを堪えているのか、王には分からなかった。
報告書に並んでいた名の向こうに、この女の家もあったのだろうか。
退けば済むと思うな!と怒鳴り声が響いたが、返す言葉は思い浮かばなかった。
「…次の王位は、レオンハルトが継ぐ」
逃げるのか!との怒声もあがった。
息子へ場所を譲ろうとして、王は一瞬だけ躊躇った。
この先、この人々に責められるのは息子だ。
自分が失わせた兵も、燃えた物資も、荒れた暮らしも、残したままで……
レオンハルトが隣に立った。
父と目が合う。
何かを言いたそうに唇が動いたが、彼は人々へ向き直った。
拍手が幾つか上がった。
その音の少なさに、レオンハルトは背中が冷えるのを感じた。
王を替えたからといって、腹が満ちるわけでも、家族が帰るわけでもない。
それでも、ここで口にする事から逃げることはできなかった。
「竜の民も、天馬の民と同じように、自分の暮らしを選ぶ権利を持つ人間です。生まれた民を理由に、仕事を強い、住む場所や学ぶことを制限する決まりを改めます」
ざわめきが広がり、広場の奥から、男の声が上がった。
「では、誰が物を作るんだ!」
レオンハルトは声のした方へ顔を向けた。
答えを間違えれば、竜の民への怒りが増す。その恐れが、喉を狭くした。
だが曖昧な約束をして、この場を収めることはできない。
「作る人へ仕事を頼み、代価を払ってください。相手が断ったからといって、罰することは認めません。国も、同じようにします」
男は納得した顔ではなかった。
不満の声があちらこちらから上がった。
それでもレオンハルトは、その顔をあげ続けた。
これから、あの者達の不満を聞かなければならない。
聞いたうえで、納得のいく説明を続けなくてはならない。
壇から離れた広場の端で、ポルフィラは右手を握っていた。
横にはリゼリアがいる。すぐ向こうの草地では、オブシディオンが伏せて彼女を見守っていた。
「本当に、言ってくれた……」
思わず漏れた声に、リゼリアが頷いた。
続いて、アルジェントの子孫が生きていること、教えられてきた歴史にも誤りがあることが告げられた。
確かめた記録を公開し、まだ分からないことは調べ続けるという。
リゼリアは俯きかけ、顔を上げ直した。
祖先の話をするとき、誰かに聞かれていないか恐れる必要は、もうない。
そのことが嬉しいのに、人々がどう受け止めるのかは怖かった。
ポルフィラも同じだった。
二人は並んで立ち、人々のざわめきを聞き続けた。
*
王都を発つ前、ポルフィラはソレインのそばにいるアドリアンを訪ねた。
彼も領地へ帰る支度をしていた。
「父さんたちに、会ってきます」
アドリアンは振り向き、笑みを浮かべた。
「ああ。帰って顔を見せるのが、一番だろうな」
そのあとで、鞍の留め具へ目を戻した。
もう留まっている金具を、もう一度引いて確かめる。
ポルフィラは何を言えばよいか分からず、足を止めたままだった。
自分は、両親の待つ家へ帰る。
彼の父と弟は、その家にはいない。
「……悪い。君を引き留めるつもりはないんだ」
アドリアンが手を離した。
ポルフィラは首を振った。
「帰るのが、つらいですか…?」
問いかけてから、聞かない方がよかったかと胸が詰まった。
彼の表情は変わらなかった。
ソレインの鞍へ手を置き、しばらく考えていた。
「城へ戻れば、弟がまた何か言いに来るような気がする。私のやり方では家を潰すと、あいつは最後まで思っていただろうな」
声は静かだった。
だが、次の言葉が出るまでに、何度も息を継いだ。
「間違っていたと認めさせたかった。生きて、竜の民の人たちを見るようになってほしかった。…今でも、そう思う」
ポルフィラは目を伏せた。
ユリウスを焼かれた怒りも、弓兵を見たオブシディオンを止められなかったことも、なかったことにはできない。
彼の悲しみを取り除く言葉を、自分は持っていなかった。
「これ以上、君にも辛い思いをして欲しくない」
顔を上げると、アドリアンがこちらを見ていた。
「ただ、父や弟を思い出すたび、憎んでいたことだけを思い出すわけじゃない。それが、自分でも苦しいんだ」
ソレインが、主人の腕へ鼻先を押し当てた。
アドリアンはその顔を見て、ようやく肩の力を抜いた。
「帰ってから、家臣達に何を言われるかは分からない。でも、父と弟のしたことを正しかったとは言わない。俺は、違うやり方で家を継ぐ」
ポルフィラは、小さく頷いた。
「…また、会えますか」
アドリアンの眉が少し下がった。
「…会いたいと思ってくれるのか?」
「はい」
迷わず答えると、彼は唇を結んだ。すぐには笑えなかったらしい。
やがて、ソレインの首を撫でながら頷いた。
「なら、落ち着いたら君の村へ行く。今度は、戦の知らせを携えたりせずに…」
*
もとの村の家へ戻ったと、ドランから知らせが届いていた。
帰る日をクラウスの使者に伝えてもらい、ポルフィラは翌朝、オブシディオンと西へ向かった。
森の向こうに、見覚えのある畑が現れた。
屋根が見える。家と家の間を通る細い道も、木立の端も、覚えているままだった。
〈帰ってきた〉
それだけ伝えると、声が続かなくなった。
オブシディオンは村から少し離れた開けた場所へ降りた。翼の風が収まる前に、道を走ってくる二人が見えた。
父が先だった。
ポルフィラが竜の首を伝って下りる間も、ドランは足元を見上げていた。幼い子にするように手を出しかけ、その手を引いた。
最後の一歩を自分で下りた途端、父の腕が背へ回った。
「帰ったか」
その声を聞くまで、自分がどれほど帰りたかったのか分かっていなかった。
ポルフィラは父の服へ顔を寄せた。
「ただいま」
背を抱く腕が、すぐに緩んだ。
「傷に、響くか」
ポルフィラは首を振った。
右腕で父の背へしがみつくと、ドランはもう一度、今度はゆっくりと抱き締めた。
肩越しに聞こえる息が震えていて、ポルフィラは胸がつまった。
追いついたミレアが、娘の頬へ両手を添えた。
何度も顔を撫でる。王都でのことを聞こうとはせず、しばらく、そこにいる娘を見ていた。
「痩せたね」
「もう、食べてるよ。ちゃんと」
「ええ、ええ…」
母は頷いたが、手を離さなかった。
食べていると書かれた知らせは読んでもらった。
歩けるようになったとも聞いた。
それでも、夜になると、あの子は今どうしているのかと考えずにはいられなかった。
「何か、食べたいものはある?」
ポルフィラは笑おうとして、泣いてしまった。
「母さんが作ったものが、食べたい」
ミレアの顔が崩れた。
彼女は娘を抱こうとして左腕を避け、ドランと二人でその背を支えた。
竜の吐息が聞こえたのは、しばらく経ってからだった。
ドランは顔を上げ、黒い巨体を見つめた。
「連れて帰ってくれて、ありがとう…」
ドランは深く頭を下げた。
オブシディオンへ、ポルフィラが伝えた。
〈私も、ありがとう〉
竜が頭を低くした。
ミレアは娘の肩へ片手を残し、もう片方で黒い鱗へ初めて触れた。ポルフィラと、この竜とを交互に見る。その目には、まだ涙が残っていた。
*
リナたちは、家へ戻る道で待っていた。
近づくと、ガルが一歩出た。
「おまえな……」
叱られるのかと思った。
だが、彼はポルフィラの腕を見た途端、口を閉じた。
危ないことはするなと、言って済む話ではない。
自分だって戦うために訓練を受けた。
それでも、友達が死ぬかもしれないと聞くのは、覚悟していたものとまるで違った。
「……戻ってきたなら、いい」
無理に押し出した声だった。
セラがその横を抜け、ポルフィラの右手をつかんだ。
「……怖かった」
会えなかった間に堪えていたものが、その一言で溢れた。
セラが泣き出すと、リナも唇を噛んだ。
「手紙をもらっても、返事を書いてる間に何かあったらどうしようって。帰るって聞くまで、ずっと……」
ポルフィラは握られた手を返した。
「…心配かけたね」
トーマが目元を擦った。
「心配くらい、させろよ。何も知らない方が嫌だ」
シオンは左腕を見ていた。傷に触れて確かめたい気持ちと、痛がらせたくない気持ちの間で、手が止まる。
「今度は、休めるんだよな」
「うん。家にいる」
そう答えて初めて、皆が少し笑った。
ポルフィラも笑った。今は、その約束ができることが嬉しかった。
家では、椅子を寄せ合って話した。
レオンハルトの言葉を伝えると、ドランは長い間、机の木目を見ていた。
「作った物を、売っていいのか?自分で値を決めて…?」
「うん。彼らに仕事を頼まれても、引き受けるかどうか、父さんが決めていい」
ドランは隣の仕事場を振り返った。
明日は何を作るか。
それを決めてよいと言われて、すぐには何も浮かばなかった。
言いつけられた分を間に合わせ、家族が食べられるようにする。
それが長く、仕事のすべてだった。
「……考えてみるか」
小さな声に、ミレアが頷いた。
トーマは輸送を請け負う賃金の話を始め、リナは物の値段を覚えたいと言った。
誰も、自由になったあとの暮らしを、まだうまく思い描けない。
それでも、ここに自分達が得た自由な暮らしの話がある。
ポルフィラは聞いているだけで胸がいっぱいになった。
*
数日後、マティアスとエステリアが村を訪れた。
人目を避けずに家の前へ立ったエステリアは、扉が開いても、すぐには入れなかった。
かつては赤ん坊を抱き、誰にも知られぬように来た道だった。今日は、成長したその子が、自分を迎えている。
ポルフィラが手を差し出すと、彼女はようやく笑った。
「会いに来たわ」
中ではドランが椅子を運んでいた。
マティアスも手を貸し、二人で机の周りへ並べた。
育てられなかった年月を思うたび、マティアスはこの家の前で足が竦む。
だが、ポルフィラに会いたくないと思われる方が、もっとつらかった。
リナたちも集まっていた。
ポルフィラが、聞いてほしいことがあると呼んだのだ。
全員が座ってからも、話せなかった。
ドランとミレアだけは何を話すのか知っている。
母が隣へ座ったとき、ポルフィラはその袖をつかみかけ、手を膝へ戻した。
「私の体のこと、まだ話していないことがあるの…」
ガルが顔を上げた。
シオンの目が左腕へ向いた。
その目を見て、ポルフィラは慌てて続けた。
「傷が悪くなったんじゃないよ。オブシディオンと繋がったことの方」
そこまで言って、息を整えた。
黙っていれば、今は皆と同じように笑っていられる。
だが、何年も経ってから、なぜ変わらないのかと戸惑わせたくはなかった。
「私は、オブシディオンと繋がっている間、年を取らないんだって」
椅子が、小さく鳴った。
エステリアが身を乗り出しかけたまま止まっていた。
「それは……病気にもならないということ?」
「違います。病気や怪我で死ぬこともあります。今回みたいに、血が止まらなければ……それでも、年は取らないんです」
ガルが息を吐いた。
死なないのなら、今度こそ安心できると思いかけた。
だが何年もそのままと聞いて、何を言えばよいのか分からなくなった。
セラが、ポルフィラの顔を見つめていた。
「ずっと、そのままなの?」
ポルフィラは頷いた。
「これから十年、二十年と経って、皆が年を取っても、私は変わらない……」
リナの指が、机の縁から滑り落ちた。
十年後のことなど、まだ考えたこともなかった。
それでも、隣にいる友達だけが自分たちと違う時を生きるのだという意味は、分かってしまった。
「……いつから、知ってたの」
ポルフィラは視線を落とした。
「前から。でも、どう話せばいいか、分からなかった…」
リナは俯いた。
どうして言わなかったの、と言いたかった。
だが、今のポルフィラの顔を見ていると、その言葉は出てこなかった。
「父さんと母さんには、話してあった。でも、戦いが終われば、皆と暮らせるんだからって……その先のことを、考えないようにしてた」
マティアスは娘の声を聞きながら、膝の上で手を握った。
生きていてほしかった。
意識が戻らないと聞いたとき、ただそれだけを願った。
今も、その願いは変わらない。
だが、この子は自分や友達が死んだあとも、一人で生き続ける…
父として何かをしてやりたくても、その年月には付き添えない。
「帰ってきて、父さんと母さんを見たら、急に怖くなった」
ポルフィラの声が震えた。
「皆、今はここにいるのに。いつか、私だけ残るんだって。そう思ったら、普通にご飯を食べてるだけでも……」
ミレアが、娘の右手へ手を重ねた。
年を取らないと打ち明けられたときにも、不安は聞いていた。
だが、戦いから帰ればひとまず休めると、母自身も思っていた。
帰る家ができても、消えない恐怖がある。
「ずっと、怖かったのね」
頷こうとすると、涙が落ちた。
「皆がいなくなったあと、私、どうしたらいいんだろう…」
セラが顔を覆った。
自分も別れたくないと言いそうになった。
トーマは口を引き結んだまま、床へ目を落とした。
今ここにいると言うだけでは、彼女が怯えている未来への答えにはならない。
シオンも、何も言えなかった。
傷の手当てなら、覚えたことが幾つかある。
だが、この恐ろしさを和らげる方法は知らなかった。
「……うまいことは、言えないけど」
リナが、ようやく顔を上げた。
「聞かせてくれて、よかった。その気持ちを知らないまま、平気そうな顔をされてるのは、嫌だ」
ポルフィラが目を向けると、リナは涙を拭った。
「怖いなら、そう言ってよ。答えは、すぐには出せないかもしれないけど」
ドランが椅子を引き寄せた。
大きな手が、ポルフィラの背へ触れる。
「そんな先のことの答えを、今出さなくていい…」
父の声も掠れていた。
何も心配しなくていいとは、誰も言えなかった。
ポルフィラは母の手へ縋り、父の方へ体を寄せた。
エステリアが向かいで泣いていた。
マティアスは一度目を伏せ、それから娘の方へ椅子を寄せた。
「私にも、聞かせてほしい。おまえの不安や、心配事を…」
ポルフィラは、涙を拭えないまま頷いた。
ここにいる誰も、この先ずっと一緒だとは言えなかった。
だが今は皆が彼女に寄り添っている。
ポルフィラは温かな手の間で、隠していた恐ろしさを、途切れながら少しずつ話した。




