第224話 次の王
王の机から、夕食の皿が下げられた。
ほとんど手はついていなかった。
レオンハルトは窓辺に立ち、父が記録を読み終えるのを待っていた。
城と三家の者たちが、数日にわたって調べた結果だった。
古い名簿や婚姻の記録を比べると、セレフィアの子と親族から、匿われた人々へと繋がる名があった。
エルディオを女王殺しとして教えてきた歴史も、そのまま正しいとは言えなくなっていた。
誰が女王の命を奪ったのか、細部までは確かめられない。
それでも、アルジェントが滅びたという話も、ルベリオンが正しく王位を継いだという話も、見直さなければならなかった。
王は、最後の紙を机へ伏せた。
「……私には、何も知らされていなかった」
レオンハルトは父を見た。
その声は怒っているようにも、途方に暮れているようにも聞こえた。
「はい。ですが、私たちは、もう知りました」
王の口元が歪んだ。
部屋の外から、ノクスが鼻を鳴らす音がした。
庭に面した大きな扉は開けてある。夜気とともに、黒い天馬の息遣いが届いていた。
「……知らぬままなら、王でいられたと思うか?」
レオンハルトは、すぐには答えられなかった。
父は窓辺の息子を見ず、机に広げた別の文へ手を置いた。
王領から届いた、死者と失われた物資の報告だった。
「先祖の話ではない。これは、私が命じた戦だ」
指が、書き連ねられた名の上を滑った。
「おまえにも、領主たちにも、引けと言われた。それでも兵を送った。弓なら竜の背にいる娘を殺せると考えた」
レオンハルトの喉が詰まった。
父の耳へ届くよう、何度も訴えた。
言い争い、命令に背き、ついには捕らえられそうにもなった。
今になって父が口にした事実を、責める言葉はいくらでもあった。
だが、報告の紙を押さえる手が震えているのを見ると、簡単には声を出せなかった。
王は椅子を離れ、庭へ出た。
レオンハルトも、少し遅れてあとを追う。
ノクスが頭を下げた。
王は両手を伸ばし、その頬へ触れた。額を寄せるまでに、長い息を一つ吐いた。
〈眠らぬのか〉
王は目を閉じた。
あれから、呼べば声が返ってくる。今も、そのたびに胸が苦しくなった。
「皆を、帰してやればよかった……」
ノクスは動かなかった。
黒い毛の上で、王の指が曲がる。
「おまえと帰りたいと、私は言った。あの兵たちも、帰りたかっただろうな……」
庭の入口で、レオンハルトは足を止めた。
ノクスの言葉は聞こえない。父が何を聞いているのかも分からない。
ただ、今まで見たことのない父の姿を見つめていた。
王は天馬へ触れたまま、息子を呼んだ。
「……私は、王位を退く」
レオンハルトは息を呑んだ。
父の顔には、かつて命令を言い渡したときの力みはなかった。
「父上。それで、責任がなくなるわけではありません」
「……分かっている」
王は頷いた。
「何を命じたか、誰を死なせたかの責めは負う。この先、お前たちの目指す国に、私は必要ない」
レオンハルトは唇を引き結んだ。
父が退けば、自分が後を継ぐ。今まではそう考ていた。
だが、正当な王族とは言えなくなっていた。
「明日、領主たちにもお伝えください…これからの国の未来のためにも…」
王が息子を見た。
レオンハルトは、その目を見つめた。
*
翌日の天幕には、前と同じように王と領主たちが集まった。
マティアスとエステリア、リゼリアもいた。ポルフィラの席は、草地に伏せるオブシディオンを見渡せる側にあった。
王が退位の意思を告げると、誰もすぐには口を開かなかった。
王は言った。
「私は王としてあるべき姿とは何かを教えられて育ってきた。天馬と繋がるのも、その一つだ。ノクスと繋がったとき、私は有頂天になった。最も強い黒い天馬を得たからだ。王としてこれ以上の威厳があるか?そして傲慢になり、ノクスの呼びかけにも気付かなかった…」
その後しばらく言葉が続かなかった。
「私は弟を、王族ならば天馬を得よと追い詰めた…そして、セヴェランは、私からの圧力のせいで繋がった天馬の声にも気付かず、がむしゃらに私の背を追いかけたのだ…」
レオノーラは背を伸ばしたまま王を見つめ、クラウスは机に置いた手を動かさなかった。
王は続けた。
「私は王に相応しい者ではなかった……王族という誇りだけで、民は導けまい…」
沈黙の中で、リゼリアが立ち上がった。
「……私は、レオンハルト殿下に次の王になっていただきたいと思います」
王の隣で、レオンハルトが顔を上げた。
リゼリアは彼へ向き直った。
「殿下は、竜の民を助けたことで王の命令に背きました。ご自分も捕らえられると分かっていて、逃れてきた人たちを見捨てませんでした。その判断を、これからは国を治める立場でも続けていただきたいのです」
エステリアも頷いた。
「私たちは王位を求めません。殿下が二つの民を同じ人として扱う国にすると約束してくださるなら、力を貸したいと思っています」
レオンハルトは、二人を見た。
奪われた王家の子孫が、奪った側の家に生まれた自分を推している。
礼を言うだけでは、あまりに軽かった。
「……私が王家の息子だからではなく、私のしたことを見て、そう言ってくれるのですか?」
リゼリアが頷いた。
レオンハルトは一度息を吸い、ポルフィラへ顔を向けた。
「君にも私の気持ちを聞いて欲しい」
ポルフィラは背筋を伸ばした。
「竜の民であることを理由に、住む場所や仕事、学ぶことを制限する決まりを改めたい。作った物を、こちらの都合で差し出させる扱いもやめたい。誰のもとで働くか、何を作り、誰に売るかを、民達が自分で決められるようにしたい…」
ロデリクが、机の向こうから問いかけた。
「王都で竜の民を働かせている者は、納得しないでしょう。物が足りない今、手を離せば暮らしが立ち行かぬと訴える者も出る」
「その暮らしを守るために、竜の民を縛り続けることはしたくない。働いてほしいなら、仕事の内容と代価を示し、相手に選んでもらう。私たちの都合だけで命じるのを、終わりにしたい」
レオンハルトの声が、少し強くなった。
ポルフィラは目を閉じた。
父の作った農具を役人が持ち去る姿が浮かんだ。父は何ひとつ自分では決められなかった。
「…要求を断っても、罰を受けないんですね?」
レオンハルトが、真っ直ぐ彼女を見た。
「竜の民だからという理由で、仕事を強いることも、断った人を罰することも認めたくない」
ポルフィラは頷こうとして、うまくできなかった。
聞きたかった言葉なのに、村の皆へ本当にそう伝えてよいのか、まだ怖かった。
「今まで、天馬の民に逆らうことができなかった人たちです。決まりが変わったと言われても、すぐには受け入れられないでしょう…」
レオンハルトは頷いた。
「命令を書いて終わりにしない。扱いが変わっていなければ、役人や雇い主の方を調べたい。不当な扱いを訴えた人を罰しないことも、国の決まりにしたいと思っている」
クラウスが口を開いた。
「それは、各領でも同じように守らなければならない。自分の家臣が竜の民を脅していないか、私たちが責任を持って確かめる必要がある」
テオバルトが、ゆっくり頷いた。
「竜の民から話を聞き、役人の言い分だけで片づけない。インディルでも徹底させよう」
「私も、同じ決まりを領内で守らせます」
ロデリクがレオンハルトへ答えた。
リュシエンヌは、膝に置いていた手を机へ移した。
「ヴィオレスタで、王の攻撃を受けて死んだ者がいます。家族に、もう安心しろとは言えません。それでも、また同じことを起こさないために、新しい国の決まりを支えます」
レオンハルトは彼女へ頭を下げた。
王は、顔を上げられずにいた。
アドリアンが、二人の方を見た。
「アウレリスでも守ります。父と弟に従ってきた者が、すぐに考えを変えるとは思えません。ですが、家臣の反対を理由に、竜の民へ我慢を求めることはしません」
声が掠れ、彼は一度言葉を切った。
机の上の右手が、強く握られている。
「私が、その家を引き受けます」
レオノーラが、アドリアンへ頷いた。
それから、レオンハルトを見た。
「オランデルも力を尽くします。かつての王家を元に戻すことが、私の願いでした。でも、これから守るべきなのは、ここに生きている人々が選べる暮らしなのだと思っています」
領主たちの声が途切れた。
ポルフィラは一人ずつ顔を見た。
皆、何かを失ってここへ来ている。
それでも今、竜の民の自由を守ると言ってくれた。
「私も、殿下に王になってほしいです」
ポルフィラはレオンハルトへ告げた。
「どうか、竜の民の話を聞いてください。今までずっと怖いと言えなかった人たちの話を……オブシディオンがいなくても」
レオンハルトは、草地の竜を見た。
黒い鱗の体は、そこに伏せているだけで天幕よりも大きかった。
彼は、その竜からポルフィラへ目を戻した。
「約束する。竜を恐れるからではなく、同じ国で生きる人たちだから、その権利を守ると」
王が椅子から立ち上がった。
レオンハルトも、向き直って立つ。
「おまえを王太子の地位を戻すだけでは、済まぬのだな」
レオンハルトは頷いた。
王は机を挟んだ人々を見た。最後に、息子へ目を戻す。
「今、皆の前で言ったことを、国の者へも誓え。私の退位と、おまえが王位を継ぐことを、ここに告げる」
「はい」
王は、重く息を吐いた。
レオンハルトの手が一度、父へ伸びかけた。だが、その手は机の上で止まった。
まだ、何を言えばよいのかは分からない。
それでも父は、こちらを見つめていた。
*
会談を終え、ポルフィラは草地へ出た。
椅子に座り続けていたせいで、立ち上がったときには脇腹が少し強張った。ゆっくり歩いて近づくと、オブシディオンが頭を下げる。
〈聞いていた?〉
〈聞いていた〉
鼻先へ右手を置いた。
言おうとしていたことが、急に喉へ詰まった。
〈帰ったら、皆に話せる。働くのを断ってもいいって。自分で決めていいって。自由に生きられるんだって…〉
声が途切れた。
熱い息が、彼女の髪を揺らす。
〈そうか〉
その短い返事を聞いた途端、涙がこぼれた。
ポルフィラは右手を鱗へ当てたまま、額を寄せた。
これからも困ることはある。竜を恐れる人も、竜の民を嫌う人も、いなくなったわけではない。
それでも、村へ帰って伝えられる。
「父さんに、早く会いたい……」
隣まで来たマティアスが、足を止めた。
エステリアが彼のそばに立つ。
二人は何も言わず、ポルフィラが顔を上げるのを待っていた。




