第223話 隠してきた名
停戦を知らせる使者が、街道を行き交うようになった。
王都の門では、荷車を止めていた兵たちが道を空けた。
だが、店先の棚はまだ空いたままだった。
兵を失った家には喪の布が掛かり、その前を通る人は声を落とした。
東門の外にいた怪我人の多くは、町の家や手当ての場所へ移っていた。
ポルフィラは門から離れた草地に留まった。
オブシディオンが伏せられる広さがあり、町からも姿が見える。
王兵が近づくときは武器を置き、声をかける。
それを繰り返すうちに、城壁の上から竜を見つめる人も、すぐには逃げなくなった。
十日ほど経った昼過ぎ、街道から一台の馬車が入ってきた。
降りてきたマティアスを見つけ、ポルフィラは立ち上がる。
「マティアスさん」
彼は娘の歩き方を見て、それから左腕へ目を移した。
「腕や脇腹は、まだ痛むかい?」
「急に動くと痛みます。でも、歩くのは平気です。重い物は、まだ持たないようにしています」
ポルフィラが笑うと、ようやく彼の口元が緩んだ。
続いて馬車を降りたエステリアが、二人のそばへ来る。
「ドランたちも、ほっとしていたわ。あなたが自分で竜に乗って、王都へ向かったと聞いて」
「心配も、していますよね」
「ええ。無茶をしていないか、帰ったら聞かれるでしょうね」
その言い方に、ポルフィラは少し肩をすくめた。
手紙で無事は伝えた。それでも、二人の顔を見るまでは、安心させられない気がする。
エステリアの腕には、布で包んだ箱があった。
ポルフィラの視線に気づき、彼女はそれを抱え直した。
「家に伝わる記録を、持ってきたの」
明日、王と領主たちが会う。
停戦の命令が各地へ届いたことを確かめたうえで、竜の民の扱いを話し合う。その席で、三家が守ってきた人々の存在も明かすと決まっていた。
「もう、隠さなくていいんですか?」
自分で尋ねて、ポルフィラは胸の奥が冷えるのを感じた。
幼い自分を村へ託した人が、今度は自分から王の前へ出ようとしている。
エステリアは、すぐには答えなかった。
「怖いわ。王の前で、今まで隠してきた血筋を明かすのだもの。でも、これからも名を隠して暮らしたいかと聞かれたら、それも嫌なの」
箱の端に、指が食い込んでいた。
マティアスが、その手元へそっと手を添える。
「三家に守られてきた人たちにも、今回のことを伝えた。皆に名乗るよう強いるつもりはない。明日は、血筋を明かすと決めた人の記録だけを出す」
ポルフィラは頷いた。
エステリアが、自分と同じ高さまで顔を寄せる。
「あなたが妹の娘だということも、王に話していい?」
問われて、喉が詰まった。
王に知られる。母が誰だったのかも、自分が誰の子なのかも。
後ろで、オブシディオンが頭を動かした。
黒い瞳が、こちらを見ている。
ポルフィラは、その目を見返してから答えた。
「はい。でも、私を育てたのはドランとミレアです。それも、ちゃんと話したいです」
マティアスの顔が、ほんの少し歪んだ。
それでも彼は頷いた。
「もちろんだ。二人がおまえを育ててくれたことも、王に伝えよう」
*
翌日、会談は東門の外に設けた天幕で開かれた。
脇の幕は巻き上げてあり、ポルフィラの席からは草地に伏せるオブシディオンが見えた。彼女は竜をここで待たせてほしいと伝えていた。
天馬たちは、それぞれ距離を取って休んでいる。
ノクスのそばには王の近衛がいたが、武器は天幕から離れた場所へ預けていた。
長い机の向こうに、王とレオンハルトが座った。
領主たちの席にはクラウス、レオノーラ、テオバルト、ロデリク、リュシエンヌが並び、アウレリス家の席をアドリアンが占めている。
リゼリアはテオバルトの隣にいた。
テオバルトの後ろに控えていたマティアスが、一歩出た。
エステリアとともに箱を机へ置く。
「竜の民について話す前に、陛下へお見せするものがあります」
レオノーラの声に、王が眉を寄せた。
開かれた箱から、古い家系の記録が取り出される。
「かつての女王セレフィア・アルジェントには、生き残った子と親族がいました。ヴェルディア、オランデル、インディルの三家は、その子孫を今も守っています」
王の目が、レオノーラから机上の紙へ移った。
「……今まで、匿っていたというのか」
「ええ。名を知られれば、命を狙われると考えていました」
王のそばに控えていた書記が、筆を止めた。
リュシエンヌも、机へ身を寄せて記録を見た。
ロデリクの顔からは、表情が消えていた。
エステリアが、自分の名を告げた。
どの家に生まれ、誰の子として育ったのか。声は震えていたが、途中で止めなかった。
王の目がこちらへ向くと、ポルフィラは机の下で右手を握った。
「私の母は、エステリアさんの妹です。私もセレフィアの子孫です」
王は、天馬の民の子とは思えない黒い髪と黒紫の瞳を見つめた。
ポルフィラは隣のマティアスを見てから、続けた。
「実の父は、ここにいるマティアスさんです。私は赤ん坊のときに竜の民の村へ預けられ、ドランとミレアに育てられました」
口にすると、畑を渡る風の匂いまで思い出した。
この席で血筋を認められても、あの家で過ごした日々が消されるわけではない。
王は何も言わなかった。
代わりに、リゼリアが立ち上がった。
「私も、アルジェントの血を引いています」
彼女の前へ、テオバルトが別の記録を置いた。
王の視線が紙面を辿り、顔を上げる。
「おまえは、インディル家の娘ではなかったのか」
「私はインディル家に守られて育った、アルジェントの子孫です。インディル一族は私の血筋を知ったうえで、テオバルト様の後継者に選んでくれました」
テオバルトが立ち上がった。
「私に実の息子がいることは、ご存じでしょう。息子も含め、一族全員がリゼリアの継承に賛成しています」
王は二人を見たあと、机に広げられた記録へ目を落とした。
書き継がれた名の列を、指先が辿っていく。
*
「私たちがこの人々を匿った理由は、セレフィアが亡くなった当時の事件にあります」
レオノーラは、三家が受け継いできた記録の写しを王の前へ置いた。
「エルディオは、セレフィアを殺していません。二人は夫婦でした。子どももいました」
王の指が止まった。
「夫婦……だと?」
レオノーラは家系の記録を開き、最初に記された二人の名を示した。
「エルディオとセレフィアの間に生まれた子から、血筋は途絶えずに続いています。その直系の子孫が、エステリアと、その妹の娘であるポルフィラです」
王がポルフィラへ顔を向けた。
椅子が軋んだ。机をついた手に力が入り、身を起こしかけたまま動かなくなる。
「おまえが……エルディオと、セレフィアの?」
ポルフィラは王を見返した。
「はい。母の家は、二人の子から続く家です」
王は唇を開いたが、言葉が出なかった。
もう一度記録へ目を戻す。指先で名を追おうとして、紙の上で手が止まった。
エステリアがその続きを示した。
妹の名。
その夫として記されたマティアス。
そして、ポルフィラ。
王の顔から血の気が引いた。
竜の民の村に育ち、自分の命令を拒んだ娘。
黒い竜と繋がり、王兵の前へ立ち塞がった娘。
その母方の血筋は、かつてこの国を治めていた女王と、あの竜に乗っていたと伝わる男へ、真っ直ぐ繋がっている。
幕の外で、オブシディオンが首を動かした。
王は反射的にそちらを見た。
黒紫の瞳と目が合い、息が喉に引っかかった。
かつてエルディオを乗せていた竜が、今、その子孫を守るためにここにいる…。
「二人の子は、生きていたのか……」
ようやく出た声は、掠れていた。
王の隣で、レオンハルトもポルフィラを見つめていた。
レオノーラは、王が記録へ目を戻すのを待った。
「エルディオは、我が子とセレフィアの親族を逃がしました。私たちの祖先が匿ったのは、その人たちです」
王は顔を上げた。
「では、セレフィアを殺したのは誰だ。学校では、エルディオが殺したと教えている」
「三家に伝わる記録では、王位を奪おうとした貴族たちに殺されたとされています。エルディオは妻を殺した罪を負わされたのです」
レオンハルトが記録を引き寄せた。
父の隣で読み進めるうち、唇が引き結ばれていく。
「父上。ここには、わがルベリオン家が反乱を起こし、王位を奪ったと書かれています。国を救って王になった、という話は嘘だったのですか……?」
彼の声が途切れた。
アドリアンが口を開く。
「アウレリス家の祖先も、その反乱に加わっています。ルベリオン家が王位を奪うのを助けたのです」
ロデリクが顔を上げた。
レオノーラが、彼とリュシエンヌへも写しを差し出す。
そこには、アズレインとヴィオレスタの名もあった。
アドリアンは、紙を押さえていた手を離した。
父が竜の民へ振るった暴力を、自分は止め切れなかった。
弟も、その家のやり方を選んだ。
死んだからといって、何もかも父と弟のせいにはできない。
「アウレリス家が反乱に加わったことも、公にしてください。家の名を守るために歴史を隠すことは、私の代でやめたいのです」
声が掠れた。
ポルフィラが彼を見ると、アドリアンは決意のこもった目で彼女を見つめていた。
王は記録を読み返していた。
やがて、竜のいる方へ顔を向ける。
「…あの竜は、当時を知っているのか?」
ポルフィラは頷いた。
「オブシディオンは、エルディオとセレフィアが夫婦だったことも、二人の子がいたことも知っています。セレフィアが殺された現場にはいなかったそうです。でも、そのあとエルディオと一緒に、子どもや親族を逃がしたと話しています」
王の頬が引き攣れた。
「竜の言葉は、おまえにしか分からぬ。私たちには、その話が本当かどうか確かめられないではないか」
クラウスが王へ答えた。
「ですから、残された記録も調べていただきたいのです」
「三家が保管してきた記録をお渡しします。城に残る当時の記録と比べてください。ただし、血筋を明かした人々を捕らえたり、危害を加えたりしないと約束してください」
王は机の端をつかんだ。
幕の外で、ノクスが一声鳴いた。
王は思わず振り返ったが、その目はすぐに机へ戻った。
「記録は調べさせる。アルジェントの子孫であることを理由に、その者たちを捕らえることはしない。危害を加えることも禁じる」
エステリアが、音を立てずに息を吐いた。
ポルフィラは机の下で、ようやく右手を開いた。
*
王は、リゼリアとエステリアを見た。
「その記録が正しければ、アルジェント家に王位を返せと求めるのか」
レオノーラは、膝に置いた手を握った。
いつか主家であるアルジェント家の子孫を再び王位に就ける。奪われた王位を取り戻し、名を隠して生きてきた人々に報いたい。
それがオランデル家の願いだった。リゼリアがシルヴァと繋がったときには、この娘が女王になる日を思い描いたこともある。
だが、王へ答えたリゼリアの声には迷いがなかった。
「私は、王になることを望みません」
王が眉を寄せた。
リゼリアは、テオバルトの隣に立ったまま続ける。
「私はテオバルト様のあとを継ぎ、インディルの領民を支えたいのです。シルヴァと繋がり、セレフィアの血を引いていても、王位に就くつもりはありません」
レオノーラは彼女を見た。
その意思を尊重しなければならない。分かっていても、長く抱いてきた願いを手放すのは苦しかった。
「私は、あなたたちの一族を王家に戻したいと思っていたわ」
レオノーラの言葉に、リゼリアが顔を向けた。
「先祖が奪われた王位を、子孫へ返す。それが、私たちが守ってきた人々のためになると考えていたの」
エステリアが、机の前へ進んだ。
「私たちを守ってくださったことには、感謝しています。妹も、私も、そのおかげで生きてこられました」
彼女はレオノーラへ頭を下げた。
顔を上げると、箱の縁へ置いた指が震えていた。
「ですが、私たちは王家に戻ることを望んでいません。今日、血筋を明かした親族たちとも、そのことは話し合ってきました」
レオノーラは唇を結んだ。
エステリアの声が、少し掠れた。
「私は子どものころから、家のことを人に話してはいけないと言われてきました。妹の娘を村へ預けたあとも、見つかって殺されはしないかと、そればかり心配していました」
ポルフィラを見た目が潤んだ。
「これからは、家族だと名乗りたいのです。この子のそばへ、隠れずに会いに行きたい。王位に就くより、その暮らしを望んでいます」
マティアスが、エステリアの隣へ立った。
ポルフィラは二人を見上げた。ずっと会いに来られなかった父と、赤ん坊の自分を抱いて村へ来た伯母だった。
エステリアは王へ向き直った。
「竜の民の人たちにも、自分の望む暮らしを選んでほしいと思っています。私たちは、王家に戻るのではなく、その人々を支えていきたいのです」
レオノーラの手から、ゆっくり力が抜けた。
守ってきた一族を王位へ戻せば、奪われたものを返せると思っていた。
だが、エステリアが望んだのは、娘に会いに行ける暮らしだった。
リゼリアは、自分でインディルの後継者として生きる道を選んでいる。
「……二人の望みは、分かったわ」
声に出すと、胸の奥が痛んだ。
レオノーラはリゼリアとエステリアを順に見た。
「一族の方々みなが名を隠さず暮らせるよう、これからも力を貸させてちょうだい」
エステリアが、もう一度頭を下げた。
リゼリアも、レオノーラへ礼をした。
「ありがとうございます。竜の民の人たちを支えるためにも、これから一緒に考えてください」
レオノーラが頷くと、クラウスが続いた。
「ヴェルディア家も、アルジェントの子孫を守り続ける。王位を望まない人も、安心して暮らせるようにする」
テオバルトも、リゼリアの隣で頷いた。
王はしばらく誰も見なかった。
やがて、隣の息子へ顔を向ける。
レオンハルトは手元の記録を閉じず、父を見返していた。
「父上。まず記録を調べ、何があったのかを確かめましょう。王家に不利な事実が分かっても、隠さず国の人々に伝えるべきです」
王の指が、机の上でゆっくり緩んだ。
書記の方を向き、低く命じる。
「城に残る、王家始まりの時代を記した記録を出せ。調査には各家の者も立ち会わせる。王家に不利な内容でも、隠したり処分したりしてはならぬ」
止まっていた筆が動き出した。
エステリアは自分の手で家系の記録を広げ直し、書記が読み取れるよう、机の中央へ押し出した。




