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オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
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222/289

第222話 その手を離せない

王が立ち上がっても、ノクスは頭を上げなかった。

黒い鼻先が、王の肩のそばにある。

王もまた、その首から手を離さずにいた。


ポルフィラはオブシディオンに触れたまま、二人を見つめた。

つい先ほどまで、自分たちを退かせようとしていた人だった。

後ろの怪我人を捕らえ、城へ連れ戻そうとしていた。

それなのに、あの姿を見ていると胸が苦しくなる。

血に濡れた自分を運んだとき、オブシディオンも、ああして確かめたのだろうか。

まだ息があるか。

呼べば返事をするか。

自分は何日も答えられず、その間に彼は戦場へ戻った。

〈あなたを失いそうになったら、私も、ほかのことを考えられなくなると思う〉


掌の下で、竜の鼻先がわずかに動いた。


〈あの人の気持ちは、分かる〉


オブシディオンは王たちを見ていた。

牙はもう見せていない。だが、ノクスから目を離してはいなかった。

〈ならば、あの天馬を戦わせぬことだ〉


ポルフィラは頷いた。

黒い鱗から伝わる温かさを、右手で確かめる。

あの王も、今、同じようにノクスへ触れている。


王のもとへ草を踏む音が近づいた。

ヴェスペラを降りたレオノーラだった。手綱を緩く持ち、歩いてくる。

「初めて、聞こえたのね」


王が顔を向けた。


レオノーラは、それ以上近づかずに足を止める。

「ノクスの声が」


王はすぐには答えなかった。

やがて、黒い毛の上へ視線を戻した。

「……何度も呼んだと、言った……」


「ええ、そうよ。彼らは繋がった時からずっと私たちに語りかけていた…」

レオノーラの指が、手綱を握り直した。


王はまた、セヴェランとアルディスを思った。


もしヴェスペラの言葉を、今初めて理解したとしたら…

酷いことをさせてきた相手が、気づいてくれるまでずっと自分を呼んでいたと知ったなら、平静でいられるはずがないと、レオノーラは胸を痛めた。


少し離れたところで、リゼリアがシルヴァの首へ顔を寄せていた。灰色の天馬は、黙って頭を下げている。


アドリアンもソレインの傍らに立ったまま、王を見ていた。

あの人を許せるかと問われれば、答えは出ない。

父が王家に加担し、弟まで命を落とした。

王自身の命令で苦しめられた者もいる。

それでも、ノクスへ縋ったときの顔は忘れられそうになかった。

ソレインがアドリアンの腕へ鼻先を寄せた。

彼はその頬を撫でた。もしこの天馬を奪われるなら、自分はどこまで冷静でいられるだろう。

弟が焼かれたときでさえ、ポルフィラを憎めなかった理由が、また胸に迫った。


*


「父上」

レオンハルトが、ノクスの前を避けて王のそばへ進んだ。

父の頬には、涙の跡が残っていた。

幼いころから見上げてきた顔を、見てはいけないような気がした。

だが、目を逸らせなかった。

「城へ戻ります。捕らえられた兵たちを、私が迎えに行きます」


王の手が止まった。

「処罰を止めるとは命じた」


「閉じ込めたままでは、いつ殺されるかと怯え続けます。私が会って、帰れると伝えたいのです」


王は草地の奥を見た。

担架の横で、東門の兵が身を起こそうとしている。

手当てをしていた竜の民の女が、慌ててその肩を支えた。

王と目が合うと、兵は動きを止めた。


「……隊長は、助かるんですか」

兵の唇が震えた。

すぐに隣の男が、その袖を引いた。

これ以上、王に口を利くなと言いたげだった。


ノクスの首に置いた王の手が、ゆっくり下がった。

「助命する」


兵は王を見つめたまま、息を呑んだ。


王は近衛を率いる男を呼んだ。

「息子に同行しろ。東門の隊長たちを解放する。手紙を読んだことや、意見を述べたことを理由に捕らえた者も、同じだ」


近衛を率いる男が、一瞬レオンハルトを見た。

「殿下を城へ入れて、よろしいのですか」


王の顎に力が入った。

自ら王太子の名を奪い、捕らえるよう命じた息子だった。

近衛たちも、その命令に従ってきた。

「私が捕らえよと命じた。それを取り消す。本人にも、同行する者にも手を出すな」


男が深く頭を下げた。


レオンハルトは父へ礼をしたが、踵を返す前に言った。

「各地の兵にも、戦うなと命じてください。ここで止めても、知らせがなければ、向こうでは人が死にます」


王の視線が、草地に残した剣へ落ちた。

しばらく、誰も口を開かなかった。

ノクスの鼻先が促すよう触れると、王は目を閉じた。

「城で文を作れ。出兵を取りやめ、各地の王兵に攻撃を禁じる。街道で荷を押さえる命令も撤回する」


レオンハルトが顔を上げた。

「陛下の印が必要です」


「私も戻る」

王は、隣に控える近衛へ向き直った。

「鞍を外せ。ノクスと歩いて帰る」


近衛が駆け寄った。

今度はノクスも追い払わなかった。

王は留め具を外す近衛の手元を見守りながら、その首を撫でていた。


*


「私も城へ行くわ」

レオノーラがレオンハルトに告げた。

「文を確かめる者と、領主たちへ知らせを届ける者が必要でしょう。ヴェスペラなら、すぐに領境へ向かえる」


王が彼女を見た。

レオノーラは視線を受け止めたまま続けた。

「私たちの兵にも攻撃を止めさせます。ただ、竜の民の暮らしについては、改めてお話ししなければなりません」


王の顔が強張った。

それでも、もう一度戦えとは言わなかった。

「まず、兵を止める」


「ええ。私も、これ以上死なせたくありません」

レオノーラはヴェスペラの方へ戻った。


リゼリアがそのそばへ寄り、短く言葉を交わす。

城へ行くのはレオノーラ。

リゼリアとアドリアンは、怪我人とポルフィラのそばに残ることになった。

王たちが草地を離れるとき、レオンハルトはポルフィラへ歩み寄った。

「ここで待っていてもらえるだろうか。捕らわれた人たちを連れて戻る」


「はい。町の人たちにも、もう戦わないと伝えてください」

ポルフィラは城壁へ目を向けた。

上からこちらを窺っていた人影が、竜の顔が向くと引っ込んだ。

「私が戻ってきたから、また焼かれると思っている人も、いると思うんです」


王が足を止めた。

彼女の左腕を支える布と、黒い竜の顔を、順に見た。

「弓を向けなければ、竜は襲わぬのか」


ポルフィラの掌に、硬い鱗が触れている。

すぐには頷けなかった。

「私や、ここにいる人たちを傷つけようとしたら、守ろうとします。私も、オブシディオンが傷つけられたら、黙って見てはいられません」


ノクスへ向かう王の指が、止まった。


ポルフィラは、王の目を見て続けた。

「誰にも、武器を向けないでください。私たちも、向けたくないんです」


王は答えず、しばらく彼女を見ていた。

やがてノクスの首を撫で、城へ続く道へ歩き出した。

黒い天馬が、その隣についていく。


*


日が傾くころ、東門から荷車が出てきた。

先頭を歩くレオンハルトの後ろに、武器を持たない男たちが続いている。

草地の兵が立ち上がった。

「隊長!」


荷車の縁につかまっていた年配の男が顔を上げた。

駆け寄る部下を見て口元を歪め、何か言おうとする。

声にならず、伸ばした手が部下の肩をつかんだ。


「生きてた……」

部下の方が泣き出した。


レオンハルトは荷車の横に立ち、男たちが互いの顔を確かめ合うのを待っていた。

その後リゼリアを呼び、城から持ち帰った文を渡した。

彼の説明を聞いたあと、リゼリアはポルフィラのところへ戻ってきた。

「陛下の停戦命令。レオノーラ様が確認したものを、私がテオバルト様たちへ届けてくる」


「城では、何もなかった?」


「ええ。レオノーラ様も、もうすぐヴェスペラで出る。王は、城の広間で命令を読み上げたそうよ」

リゼリアは、隊長へ寄り添う兵たちを見た。

「私も、シルヴァを失うと思ったら……あの方のようになると思う」

小さな声だった。


ポルフィラは頷いた。


「だから、もう誰も失いたくないって、分かってほしい」

リゼリアは文を持つ手に力を込めた。

二人の背後で、オブシディオンが身じろぎする。

シルヴァも顔を上げ、主人を待っていた。


「届けてくる。クラウス様にも、ほかの領主たちにも」

リゼリアがシルヴァの背へ上がった。

灰色の翼が、夕日の中へ広がる。


ポルフィラは竜のそばに立ち、遠ざかる姿を見送った。

城壁の上では、王の命令を告げる声が響き始めていた。

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