↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オブシディオン  作者: 空飛ぶワイン
PR
221/288

第221話 初めて聞いた声

東門の上を、黒い翼が越えた。

倉の前にいた近衛たちが、槍を引いて膝をつく。

ノクスが下りてきた。

レオンハルトは、背にいる父を見上げた。最後の担架は、もう草地へ向かっている。倉の中に、怪我人は残っていない。


「そこを動くな」

王の声に、三人の護衛が王子のそばへ寄った。


レオンハルトは足を止めたまま答える。

「怪我人を移しています。近衛を下げてください」


「私が捕らえよと命じた者だ。近衛に任せ、おまえは城へ戻れ」


レオンハルトの目が、ノクスの向こうの城壁へ動いた。

あの内側に、東門の隊長たちが捕らわれている。

「城にいる者も、解放してください。兵たちは持ち場を守っていました。私の手紙を読み、意見を述べたために捕らえるのは、やめてほしいのです」


王の顔が険しくなった。

「王に従う意思を失った兵を、そのまま使えと言うのか?」


「斬られるのが怖くて従う兵を、父上は望んでいるのですか?」


近衛の一人が顔を伏せた。

王はそれを見て、手綱を握り直す。

「道を空けろ」


アドリアンはソレインを退かせたが、王子を捕らえる近衛までは通さなかった。


ノクスが一歩進む。

レオンハルトの護衛が、王子の前へ出た。

だが、黒い天馬の首は息子へ向いていなかった。

道の先にある草地。

そこへ伏せる竜を、ノクスは見ていた。


*


草地の奥には、運び込まれた担架が並んでいた。

その手前で、オブシディオンが東門の方へ頭を向けている。

ポルフィラは竜の頭の横に立ち、王の動きを見ていた。


「王が、こちらを見ている……」

担架を下ろした東門兵の声が震えた。


負傷者を支える女も、王都の方へ顔を向ける。


低い唸りが、ポルフィラの足元から響いた。

オブシディオンの目が、黒い天馬を追っている。


王は、草地へ向かう担架を指した。

「あの兵を連れ戻す。そこを退け」


ノクスを倉の脇の道へ向け、草地へ進ませる。

前へ出ようとしない天馬の腹に、王の踵が当たった。


ポルフィラはオブシディオンへ振り向いた。

〈王が、こっちへ来る。乗せて〉


竜が頭を低くした。

角の根元を右手でつかみ、慣れた鱗の段差へ足をかける。左腕をかばってゆっくり体を上げ、角の後ろの窪みへ腰を落ち着けた。

〈いいよ。立って〉


オブシディオンが身を起こす。

ポルフィラの下で黒い首が上がり、担架の列が後ろへ低くなる。

竜は負傷者たちを背にして、道から入ってくるノクスの正面へ立った。

レオノーラもヴェスペラで担架の横へ回る。

アドリアンとリゼリアは、それぞれの天馬で草地の脇へ移り、レオンハルトと護衛たちが王の後を追ってきた。


王子が父へ近づこうとすると、護衛が腕を押さえた。

「殿下。今は、竜と天馬の間へ出ないでください」


ノクスの前にはオブシディオン。

その後ろには、手当てを受ける兵たちがいる。

竜へ近づくほど、黒い天馬の足取りが鈍くなっていた。


*


ノクスが止まった。

オブシディオンの頭が、すぐ前にある。

牙の間から漏れる息に、黒い天馬の耳が伏せられた。


「娘。竜を退かせろ」


ポルフィラは背の上から答えた。

「この人たちを、捕らえないでください」


王は、竜の体の向こうへ目を走らせた。

担架を囲む兵たちが、地面へ顔を伏せようとしている。

彼らは王の言葉を待たず、息子と領主たちを頼った。

その前に、竜を持つ娘まで立ち塞がる。

「その者たちをどうするかは、私が決める」


王はノクスを横へ向けた。

竜の脇を抜け、負傷者のいる方へ進ませようとする。


オブシディオンが吠えた。

担架のそばで、女が悲鳴を上げる。


〈行かせないで!〉

ポルフィラの声とともに、竜が片翼を前へ出した。

翼の先の爪が地面へ食い込み、ノクスの進路を塞ぐ。

黒い天馬が竜へ向き直った。

前脚を上げ、立ち塞がる翼へ跳びかかる。

オブシディオンは翼を持ち上げ、その硬い縁でノクスを弾き飛ばした。

天馬はかろうじて四肢を地面についたが、体は横へ流され、踏み直した蹄が草で滑った。

鞍が傾く。

王の腰が座面から外れた。


「父上!」

レオンハルトが叫んだときには、王の体は落ち始めていた。


ノクスが、自分の体に沿って片翼を低く広げる。

王は黒い羽の上へ落ち、傾いた翼を滑って草地へ転がった。


ポルフィラは角を握り締めていた。

竜が翼を動かしたとき、背も揺れた。踏ん張った足を戻し、ゆっくり息を吐く。

〈オブシディオン。もうしないで〉


動きを止めた竜の前でノクスが間へ立ち、落ちた王を庇った。


*


王は肩を押さえ、息を詰めて体を起こした。

天馬の体が、竜と自分の間を塞いでいる。


近衛が駆け寄ろうとした。

ノクスが首を振り、翼を大きく広げたため、二人とも立ち止まる。


「待て。いま父上とノクスに近づくな!」

レオンハルトも、護衛と一緒に足を止めた。

王のそばを囲もうとしていた近衛たちへ、両手で下がるよう示す。


ノクスは、その場から動かなかった。

オブシディオンが息を吐くたび、首が小さく震える。

後ろ脚を引きかけては戻し、王を竜の目から隠すように体を寄せていた。

王は、ノクスの脚の脇から竜を見た。

今、ノクスが逃げれば、自分だけがここへ残る。

それが分かっているから、この天馬は退かないのだ。


*


〈王もノクスも、殺さないで〉

ポルフィラは、背の上から頼んだ。

〈今は、攻撃しないでほしい〉


〈おまえや、後ろの人間へ来れば止める〉


〈うん。でも、今は待って〉


オブシディオンは鉤爪を地面についた。

牙は見せたままだが、王と天馬へ踏み出すことはない。


レオンハルトが父へ呼びかけた。

「父上。ノクスを戦わせないでください。このままでは、死んでしまいます!」


……分かっている。

王は奥歯を噛み締めた。

竜の牙が届くところにいる。炎を吐かれれば、剣を抜く間もなく焼かれるだろう。

それでも、退くとは言えなかった。

ここで命令を取り消せば、兵も領主も見ている前で、息子に屈することになる。

竜を持つ娘に逆らえず、捕らえた者を放した王。

その噂は、明日には城中へ広がる。

これまで従わせてきた者たちが、もう自分を恐れなくなる。

「ノクス。立て直せ」


声に応じて、黒い天馬が足を踏ん張った。

翼が再び開く。

オブシディオンの喉の奥で、重い唸りが膨らんだ。

ノクスの首が、びくりと揺れた。

だが退かなかった。

前脚を王のそばへ寄せ、竜との間を塞いだまま、翼を広げ続けている。

風を起こすつもりだ。

この距離で竜へ挑みかかろうとしている。


王は戦うことを命じようとした。

そのとき、ノクスの全身から噴き出している汗が、毛を伝って自分の手の甲へ滴った。

ノクスの息が荒い。

肩も脚も震えている。

恐怖で動けなくなっているのではない。

命じられたから震える脚で立ち続け、竜に挑もうとしている。


「……待て」


王は黒い毛をつかんだ。

ノクスは翼を広げたまま、片耳だけをこちらへ向けた。

竜から目を離せないのだ。

王はその耳を見つめた。

背に乗れば、その耳はいつも声がする方へ動いた。

進めと言えば進み、飛べと言えば飛ぶ。いつもこちらに耳を向けながら…

ノクスが従うことを、一度も不思議に思わなかった。

自分と繋がった天馬なのだから、当然だと思っていた。


「……怖いのか…?」

掠れた声が出た。


ノクスが首を曲げ、鼻先で王の肩へ触れた。

だかすぐに竜へ向き直り、また王を背に庇う。


逃げないのか?

いや、逃げられないのだ。

自分がここに座り込み、まだ戦えと命じようとしているから。

「私は……」

言葉が続かなかった…

領主を従わせるために。

息子に王の命令を守らせるために。

そのためなら、ノクスを竜へ向かわせるのか。


黒い翼の向こうに、竜の牙が見えた。

あれがノクスの首へ食い込むところを、王は不意に思い描いてしまった。

この温かな毛が血に濡れる。

自分の声へ向く耳が、二度と動かなくなる。

毛をつかんでいた指が震えた。

自分も死ぬ。

それは知っていた。

天馬を失った者がどうなるかは、分かっている。

だが、今は自分の死よりも、ノクスが苦しむ姿が恐ろしかった。

「翼を、閉じろ」


ノクスは動かなかった。


王は首へ手を滑らせ、もう一度呼んだ。

「ノクス。もう戦わなくてよい」


広げていた翼が、ゆっくり下がった。

その向こうで、オブシディオンも唸りを止めた。ポルフィラは角の後ろから身を乗り出しかけ、息を詰めて王たちを見ている。


王はノクスの首に手を当てたまま、息子を見た。

レオンハルトも近衛たちも、こちらを待っている。

まだ、退くとは口にしていない。

ノクスに跨がり直し、王命に従えと叫ぶことはできる。

そうすれば、この天馬はまた翼を開くだろう。

王は顔を歪めた。

手を離せなかった。

「………すまなかった」

誰にも聞かせるつもりのない、小さな声だった。

ノクスが振り向いた。

竜を見張っていた瞳が、初めて真っ直ぐ王を捉える。

「怖くても、私が命じれば行くのだな。私は、それを……」

当然だと思っていた。

その先が、喉を通らなかった。

王は首へ額を押し当てた。

ノクスの強張った筋肉が、まだ細かく震えている。

「もう行かせぬ。おまえを、ここで死なせはしない」


〈おまえが、落ちた〉


王は顔を上げた。

声がした。

耳元からではない。周りの誰かが話したわけではない。

自分の頭の中に、低い声が残っている…


〈動かなかった。おまえがアレに踏まれると思った…〉

ノクスの鼻先が、王の胸へ押しつけられた。

息が服を温める。


王は口を開いたが、声が出なかった。

あのとき、この天馬は自分を翼で受け止めた。

竜の前へ体を入れ、落ちた自分が起き上がるのを待っていた。

物言わぬただの動物ではない…

「……おまえが…話しているのか……?」


〈……呼んだ〉

黒い瞳が、すぐそばにあった。

〈何度も、おまえに呼びかけた…〉


王の息が止まった。

自分はノクスの呼びかけに、全く気付いていなかった…

王としての誇りを守るため、ノクスに何を命じるか、そればかり考えていた。

いつから呼んでいたのだろう…?

今日だけか?

それとも、もっと前からか?

毎日のように名を呼び、触れ、背に乗りながら、一度もノクスの声を聞こうとしなかった。


「聞こえなかった……」

喉の奥が引き攣れた。

王はノクスを抱きしめるように、全身で寄りかかった。

毛に顔を埋めても、自分の荒い息を隠しきれない。

「聞いていなかったのだな、私は……」


ノクスが頭を下げた。

頭に、柔らかな鼻先が触れる。

〈今は、聞こえるか?〉


王は頷いた。

一度では足りず、何度も頷いた。

「聞こえる。おまえの声が、聞こえている」


ノクスが長く息を吐いた。

〈……やっと……やっと、おまえに届いた…〉

強張っていた体が、王の腕の下で少しずつ緩んでいく。


その重みを、王は抱き留めた。

この声を聞けたのに。

ようやく、自分へ話しているのが分かったのに。

王であり続けるために、また竜へ向かわせるのか?

そこで脳裏に、白い翼がよぎった。

〈……もしかして…アルディスも……?〉


〈あれも、おまえの弟に呼びかけていた…たが伝わらず、最後は心を閉ざしていた。ずっと悲しい目をしていた…〉

 

弟はアルディスの呼びかけに気付くこともなく、村を破壊させ住人を殺し、逆らった兵達も殺し、怯えているアルディスにムチを打ち、竜に立ち向かえと命令した…


ーーーー!

王の膝が折れた。

なんと…なんという事だ……!

もし、セヴェランがその声を聞くことができていたら…

どれ程かけがえのない相手と繋がっているのかに、気づくことが出来ていれば………

そうすれば、弟もアルディスも死なずに済んだだろう……

しかし、弟は自分の背中を見て、それがあるべき姿だと思っていたのだ…

「……す…まな…い………。本当に、すまない……許してくれ……」

跪き震えている王に、ノクスが鼻先を寄せた。


草を踏む音がした。

近衛の一人が王を助けようと、歩いてくる。


「来るな!」

俯いたまま、王が怒鳴った。


しばらくして王は顔を上げ、立ち上がりノクスの鼻先をかき抱いた。

頬が濡れていることを、もう拭おうとはしなかった。

「……戦うな。私の頼みだ」

言い終えるまで、ノクスを離せなかった。

これを口にすれば、捕らえるはずだった兵たちの前で退くことになる。

息子も、領主も、竜を持つ娘も見ている。

それでも、言葉を取り消そうとは思わなかった。

王は腰の剣を鞘ごと外し、草の上へ置いた。

金具が地面に当たる小さな音に、ノクスの耳が動く。

「……帰ろうノクス……おまえと一緒に帰りたい…」


〈共に、帰る。そばにいる…〉

黒い額が寄せられた。


また涙がこぼれた。

王は目を閉じその声を聞き逃すまいと、ただじっと、温かな体へ縋っていた。


*


レオンハルトには、父が何を聞いたのか分からなかった。

だが、ノクスへしがみつく姿から目を離せない。

剣を置き、天馬を撫でている…


父が顔を上げた。

「兵を退かせろ」


近衛たちは、すぐには動かなかった。


王は、捨てた剣を拾わずに言い直す。

「剣も槍も下ろせ。ここにいる者は捕らえぬ」


レオンハルトの右で、護衛がゆっくり息を吐いた。

城の近衛たちが、武器の先を地面へ下げていく。

王が命じたのだと分かって、東門兵たちもようやく顔を上げた。


「城に捕らえられている人たちも、助けてください」


王は息子を見た。

ノクスの体へ、片手を残したままだった。

「処罰を止める。城へ、そう伝えよ」


レオンハルトは近衛の一人を呼んだ。

男は王にも命令を確かめ、城へ走り出す。

その姿が遠ざかってから、ポルフィラは角を握る手を緩めた。

〈頭を下げてくれる? 下りたい〉


オブシディオンが首を伏せる。

彼女は足場を確かめながら地上へ下りた。

肩を回すと、強張っていた右腕が少し痛んだ。

オブシディオンの体へ手を置き、額を寄せる。

彼の熱い息が頬を撫でた。


草地の向こうでは、王がノクスに寄り添っている。

近衛がそばへ来ても、どちらも振り向きもしなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。