第221話 初めて聞いた声
東門の上を、黒い翼が越えた。
倉の前にいた近衛たちが、槍を引いて膝をつく。
ノクスが下りてきた。
レオンハルトは、背にいる父を見上げた。最後の担架は、もう草地へ向かっている。倉の中に、怪我人は残っていない。
「そこを動くな」
王の声に、三人の護衛が王子のそばへ寄った。
レオンハルトは足を止めたまま答える。
「怪我人を移しています。近衛を下げてください」
「私が捕らえよと命じた者だ。近衛に任せ、おまえは城へ戻れ」
レオンハルトの目が、ノクスの向こうの城壁へ動いた。
あの内側に、東門の隊長たちが捕らわれている。
「城にいる者も、解放してください。兵たちは持ち場を守っていました。私の手紙を読み、意見を述べたために捕らえるのは、やめてほしいのです」
王の顔が険しくなった。
「王に従う意思を失った兵を、そのまま使えと言うのか?」
「斬られるのが怖くて従う兵を、父上は望んでいるのですか?」
近衛の一人が顔を伏せた。
王はそれを見て、手綱を握り直す。
「道を空けろ」
アドリアンはソレインを退かせたが、王子を捕らえる近衛までは通さなかった。
ノクスが一歩進む。
レオンハルトの護衛が、王子の前へ出た。
だが、黒い天馬の首は息子へ向いていなかった。
道の先にある草地。
そこへ伏せる竜を、ノクスは見ていた。
*
草地の奥には、運び込まれた担架が並んでいた。
その手前で、オブシディオンが東門の方へ頭を向けている。
ポルフィラは竜の頭の横に立ち、王の動きを見ていた。
「王が、こちらを見ている……」
担架を下ろした東門兵の声が震えた。
負傷者を支える女も、王都の方へ顔を向ける。
低い唸りが、ポルフィラの足元から響いた。
オブシディオンの目が、黒い天馬を追っている。
王は、草地へ向かう担架を指した。
「あの兵を連れ戻す。そこを退け」
ノクスを倉の脇の道へ向け、草地へ進ませる。
前へ出ようとしない天馬の腹に、王の踵が当たった。
ポルフィラはオブシディオンへ振り向いた。
〈王が、こっちへ来る。乗せて〉
竜が頭を低くした。
角の根元を右手でつかみ、慣れた鱗の段差へ足をかける。左腕をかばってゆっくり体を上げ、角の後ろの窪みへ腰を落ち着けた。
〈いいよ。立って〉
オブシディオンが身を起こす。
ポルフィラの下で黒い首が上がり、担架の列が後ろへ低くなる。
竜は負傷者たちを背にして、道から入ってくるノクスの正面へ立った。
レオノーラもヴェスペラで担架の横へ回る。
アドリアンとリゼリアは、それぞれの天馬で草地の脇へ移り、レオンハルトと護衛たちが王の後を追ってきた。
王子が父へ近づこうとすると、護衛が腕を押さえた。
「殿下。今は、竜と天馬の間へ出ないでください」
ノクスの前にはオブシディオン。
その後ろには、手当てを受ける兵たちがいる。
竜へ近づくほど、黒い天馬の足取りが鈍くなっていた。
*
ノクスが止まった。
オブシディオンの頭が、すぐ前にある。
牙の間から漏れる息に、黒い天馬の耳が伏せられた。
「娘。竜を退かせろ」
ポルフィラは背の上から答えた。
「この人たちを、捕らえないでください」
王は、竜の体の向こうへ目を走らせた。
担架を囲む兵たちが、地面へ顔を伏せようとしている。
彼らは王の言葉を待たず、息子と領主たちを頼った。
その前に、竜を持つ娘まで立ち塞がる。
「その者たちをどうするかは、私が決める」
王はノクスを横へ向けた。
竜の脇を抜け、負傷者のいる方へ進ませようとする。
オブシディオンが吠えた。
担架のそばで、女が悲鳴を上げる。
〈行かせないで!〉
ポルフィラの声とともに、竜が片翼を前へ出した。
翼の先の爪が地面へ食い込み、ノクスの進路を塞ぐ。
黒い天馬が竜へ向き直った。
前脚を上げ、立ち塞がる翼へ跳びかかる。
オブシディオンは翼を持ち上げ、その硬い縁でノクスを弾き飛ばした。
天馬はかろうじて四肢を地面についたが、体は横へ流され、踏み直した蹄が草で滑った。
鞍が傾く。
王の腰が座面から外れた。
「父上!」
レオンハルトが叫んだときには、王の体は落ち始めていた。
ノクスが、自分の体に沿って片翼を低く広げる。
王は黒い羽の上へ落ち、傾いた翼を滑って草地へ転がった。
ポルフィラは角を握り締めていた。
竜が翼を動かしたとき、背も揺れた。踏ん張った足を戻し、ゆっくり息を吐く。
〈オブシディオン。もうしないで〉
動きを止めた竜の前でノクスが間へ立ち、落ちた王を庇った。
*
王は肩を押さえ、息を詰めて体を起こした。
天馬の体が、竜と自分の間を塞いでいる。
近衛が駆け寄ろうとした。
ノクスが首を振り、翼を大きく広げたため、二人とも立ち止まる。
「待て。いま父上とノクスに近づくな!」
レオンハルトも、護衛と一緒に足を止めた。
王のそばを囲もうとしていた近衛たちへ、両手で下がるよう示す。
ノクスは、その場から動かなかった。
オブシディオンが息を吐くたび、首が小さく震える。
後ろ脚を引きかけては戻し、王を竜の目から隠すように体を寄せていた。
王は、ノクスの脚の脇から竜を見た。
今、ノクスが逃げれば、自分だけがここへ残る。
それが分かっているから、この天馬は退かないのだ。
*
〈王もノクスも、殺さないで〉
ポルフィラは、背の上から頼んだ。
〈今は、攻撃しないでほしい〉
〈おまえや、後ろの人間へ来れば止める〉
〈うん。でも、今は待って〉
オブシディオンは鉤爪を地面についた。
牙は見せたままだが、王と天馬へ踏み出すことはない。
レオンハルトが父へ呼びかけた。
「父上。ノクスを戦わせないでください。このままでは、死んでしまいます!」
……分かっている。
王は奥歯を噛み締めた。
竜の牙が届くところにいる。炎を吐かれれば、剣を抜く間もなく焼かれるだろう。
それでも、退くとは言えなかった。
ここで命令を取り消せば、兵も領主も見ている前で、息子に屈することになる。
竜を持つ娘に逆らえず、捕らえた者を放した王。
その噂は、明日には城中へ広がる。
これまで従わせてきた者たちが、もう自分を恐れなくなる。
「ノクス。立て直せ」
声に応じて、黒い天馬が足を踏ん張った。
翼が再び開く。
オブシディオンの喉の奥で、重い唸りが膨らんだ。
ノクスの首が、びくりと揺れた。
だが退かなかった。
前脚を王のそばへ寄せ、竜との間を塞いだまま、翼を広げ続けている。
風を起こすつもりだ。
この距離で竜へ挑みかかろうとしている。
王は戦うことを命じようとした。
そのとき、ノクスの全身から噴き出している汗が、毛を伝って自分の手の甲へ滴った。
ノクスの息が荒い。
肩も脚も震えている。
恐怖で動けなくなっているのではない。
命じられたから震える脚で立ち続け、竜に挑もうとしている。
「……待て」
王は黒い毛をつかんだ。
ノクスは翼を広げたまま、片耳だけをこちらへ向けた。
竜から目を離せないのだ。
王はその耳を見つめた。
背に乗れば、その耳はいつも声がする方へ動いた。
進めと言えば進み、飛べと言えば飛ぶ。いつもこちらに耳を向けながら…
ノクスが従うことを、一度も不思議に思わなかった。
自分と繋がった天馬なのだから、当然だと思っていた。
「……怖いのか…?」
掠れた声が出た。
ノクスが首を曲げ、鼻先で王の肩へ触れた。
だかすぐに竜へ向き直り、また王を背に庇う。
逃げないのか?
いや、逃げられないのだ。
自分がここに座り込み、まだ戦えと命じようとしているから。
「私は……」
言葉が続かなかった…
領主を従わせるために。
息子に王の命令を守らせるために。
そのためなら、ノクスを竜へ向かわせるのか。
黒い翼の向こうに、竜の牙が見えた。
あれがノクスの首へ食い込むところを、王は不意に思い描いてしまった。
この温かな毛が血に濡れる。
自分の声へ向く耳が、二度と動かなくなる。
毛をつかんでいた指が震えた。
自分も死ぬ。
それは知っていた。
天馬を失った者がどうなるかは、分かっている。
だが、今は自分の死よりも、ノクスが苦しむ姿が恐ろしかった。
「翼を、閉じろ」
ノクスは動かなかった。
王は首へ手を滑らせ、もう一度呼んだ。
「ノクス。もう戦わなくてよい」
広げていた翼が、ゆっくり下がった。
その向こうで、オブシディオンも唸りを止めた。ポルフィラは角の後ろから身を乗り出しかけ、息を詰めて王たちを見ている。
王はノクスの首に手を当てたまま、息子を見た。
レオンハルトも近衛たちも、こちらを待っている。
まだ、退くとは口にしていない。
ノクスに跨がり直し、王命に従えと叫ぶことはできる。
そうすれば、この天馬はまた翼を開くだろう。
王は顔を歪めた。
手を離せなかった。
「………すまなかった」
誰にも聞かせるつもりのない、小さな声だった。
ノクスが振り向いた。
竜を見張っていた瞳が、初めて真っ直ぐ王を捉える。
「怖くても、私が命じれば行くのだな。私は、それを……」
当然だと思っていた。
その先が、喉を通らなかった。
王は首へ額を押し当てた。
ノクスの強張った筋肉が、まだ細かく震えている。
「もう行かせぬ。おまえを、ここで死なせはしない」
〈おまえが、落ちた〉
王は顔を上げた。
声がした。
耳元からではない。周りの誰かが話したわけではない。
自分の頭の中に、低い声が残っている…
〈動かなかった。おまえがアレに踏まれると思った…〉
ノクスの鼻先が、王の胸へ押しつけられた。
息が服を温める。
王は口を開いたが、声が出なかった。
あのとき、この天馬は自分を翼で受け止めた。
竜の前へ体を入れ、落ちた自分が起き上がるのを待っていた。
物言わぬただの動物ではない…
「……おまえが…話しているのか……?」
〈……呼んだ〉
黒い瞳が、すぐそばにあった。
〈何度も、おまえに呼びかけた…〉
王の息が止まった。
自分はノクスの呼びかけに、全く気付いていなかった…
王としての誇りを守るため、ノクスに何を命じるか、そればかり考えていた。
いつから呼んでいたのだろう…?
今日だけか?
それとも、もっと前からか?
毎日のように名を呼び、触れ、背に乗りながら、一度もノクスの声を聞こうとしなかった。
「聞こえなかった……」
喉の奥が引き攣れた。
王はノクスを抱きしめるように、全身で寄りかかった。
毛に顔を埋めても、自分の荒い息を隠しきれない。
「聞いていなかったのだな、私は……」
ノクスが頭を下げた。
頭に、柔らかな鼻先が触れる。
〈今は、聞こえるか?〉
王は頷いた。
一度では足りず、何度も頷いた。
「聞こえる。おまえの声が、聞こえている」
ノクスが長く息を吐いた。
〈……やっと……やっと、おまえに届いた…〉
強張っていた体が、王の腕の下で少しずつ緩んでいく。
その重みを、王は抱き留めた。
この声を聞けたのに。
ようやく、自分へ話しているのが分かったのに。
王であり続けるために、また竜へ向かわせるのか?
そこで脳裏に、白い翼がよぎった。
〈……もしかして…アルディスも……?〉
〈あれも、おまえの弟に呼びかけていた…たが伝わらず、最後は心を閉ざしていた。ずっと悲しい目をしていた…〉
弟はアルディスの呼びかけに気付くこともなく、村を破壊させ住人を殺し、逆らった兵達も殺し、怯えているアルディスにムチを打ち、竜に立ち向かえと命令した…
ーーーー!
王の膝が折れた。
なんと…なんという事だ……!
もし、セヴェランがその声を聞くことができていたら…
どれ程かけがえのない相手と繋がっているのかに、気づくことが出来ていれば………
そうすれば、弟もアルディスも死なずに済んだだろう……
しかし、弟は自分の背中を見て、それがあるべき姿だと思っていたのだ…
「……す…まな…い………。本当に、すまない……許してくれ……」
跪き震えている王に、ノクスが鼻先を寄せた。
草を踏む音がした。
近衛の一人が王を助けようと、歩いてくる。
「来るな!」
俯いたまま、王が怒鳴った。
しばらくして王は顔を上げ、立ち上がりノクスの鼻先をかき抱いた。
頬が濡れていることを、もう拭おうとはしなかった。
「……戦うな。私の頼みだ」
言い終えるまで、ノクスを離せなかった。
これを口にすれば、捕らえるはずだった兵たちの前で退くことになる。
息子も、領主も、竜を持つ娘も見ている。
それでも、言葉を取り消そうとは思わなかった。
王は腰の剣を鞘ごと外し、草の上へ置いた。
金具が地面に当たる小さな音に、ノクスの耳が動く。
「……帰ろうノクス……おまえと一緒に帰りたい…」
〈共に、帰る。そばにいる…〉
黒い額が寄せられた。
また涙がこぼれた。
王は目を閉じその声を聞き逃すまいと、ただじっと、温かな体へ縋っていた。
*
レオンハルトには、父が何を聞いたのか分からなかった。
だが、ノクスへしがみつく姿から目を離せない。
剣を置き、天馬を撫でている…
父が顔を上げた。
「兵を退かせろ」
近衛たちは、すぐには動かなかった。
王は、捨てた剣を拾わずに言い直す。
「剣も槍も下ろせ。ここにいる者は捕らえぬ」
レオンハルトの右で、護衛がゆっくり息を吐いた。
城の近衛たちが、武器の先を地面へ下げていく。
王が命じたのだと分かって、東門兵たちもようやく顔を上げた。
「城に捕らえられている人たちも、助けてください」
王は息子を見た。
ノクスの体へ、片手を残したままだった。
「処罰を止める。城へ、そう伝えよ」
レオンハルトは近衛の一人を呼んだ。
男は王にも命令を確かめ、城へ走り出す。
その姿が遠ざかってから、ポルフィラは角を握る手を緩めた。
〈頭を下げてくれる? 下りたい〉
オブシディオンが首を伏せる。
彼女は足場を確かめながら地上へ下りた。
肩を回すと、強張っていた右腕が少し痛んだ。
オブシディオンの体へ手を置き、額を寄せる。
彼の熱い息が頬を撫でた。
草地の向こうでは、王がノクスに寄り添っている。
近衛がそばへ来ても、どちらも振り向きもしなかった。




