第220話 東門の外で
体の下から、低い響きが伝わってきた。
オブシディオンが鉤爪をつき体を起こしたのだ。
レオンハルトは鱗の段差をつかみ、身を伏せた。
足元にあった地面が遠い。まだ飛んでもいないのに、振り返って後ろの使者を気遣う余裕もなかった。
翼が開く。
風が衣服の中へ吹き込み、次の瞬間、地面が離れた。
声が出かけた。
歯を食いしばって堪えると、前に座るポルフィラが少し顔を向ける。
「もっと体を低くすると、楽になります」
彼女の声も風にかき消されそうだった。
レオンハルトは言われたとおり背をかがめる。鱗へ添えた指の下に、硬い段差がある。そこを握り直すと、ようやく息を吐けた。
ポルフィラの左腕は、まだ布で支えられている。
それでも、右手を角へかけた姿には余裕すらあった。
竜の体が動くよりわずかに早く、彼女も姿勢を変えている。
「傷は、痛みませんか?」
「急にひねると少し痛みます。でも、今は平気です」
返事のあと、彼女は角の根元を指で撫でた。
オブシディオンの飛び方が、少し緩やかになる。
レオンハルトは目を見張り、それからやっと、遠ざかる地上へ視線を落とした。
途中、一度だけ草地へ降りて休んだ。
ポルフィラは自分で下りると、竜の首へ背を預け、水を飲んだ。長く乗ったあとの疲れは、まだ顔に出ている。
「少し休めば、また乗れる」
リゼリアへそう言って、足を投げ出した。
オブシディオンは横に頭を伏せ、彼女が水袋を置くまで待っていた。
*
王都の城壁が見えた。
レオンハルトの喉が、きゅっと狭くなる。
城での朝の支度も、詰所を回る仕事も、ほんの少し前まで自分の暮らしだった。
あの門を通れば戻れる気がして、すぐに父の手紙を思い出す。
今の自分を迎える命令は、捕らえよ、だ。
レオノーラとリゼリアが天馬で先へ出て、東門から離れた草地を確かめた。
武装した者はいない。
二人の合図を受け、オブシディオンも降りる。
ポルフィラは体をひねらないように角を伝い、自分で地上へ下りた。
敷物を広げ、王都の方を見ながら腰を下ろす。
「ここで待っています。彼にも、伝えてあります」
レオンハルトはうなずいた。
あの城壁に弓兵が並べば、彼女が止めても竜は動く。その危険を抱えて来たことを、忘れるわけにはいかなかった。
レオノーラがポルフィラのそばへ残る。
「私はここから王都の動きを見るわ。リゼリア、アドリアン、王子たちをお願い」
三人の護衛がレオンハルトを囲んだ。
使者とともに一人が前へ出て、二人は王子の左右へ。
彼らに足並みを合わせ、レオンハルトは東門へ向かった。頭上にはシルヴァ、少し後ろにはソレインがいる。
*
「帰ったのか。殿下は――」
倉の扉を細く開けた東門兵が、言葉を失った。
使者の肩越しにレオンハルトを見つけると、急いで中へ通してくれる。
血の臭いがした。
隙間から差す昼の光が、床に寝かされた若い兵の顔を照らしている。腹の包帯は、黒ずんでいた。
その横で、竜の民の女が布を絞っていた。
王子を見るなり、手を止めて立ち上がろうとする。
「そのまま、続けてください」
レオンハルトは若い兵のそばへ膝をついた。
女がまた額を拭う。頬へ触れた布にも、若い兵はほとんど反応しない。
「医師は?」
「夜に、一度だけ。城の近衛に知られるのが怖いと……」
答えた年長の東門兵は、声を落としていた。
手当てを頼むことさえ隠さなければならない。
王都を守っていた兵が、王家の近衛に斬られ、ここで息を潜めている。
「隊長は、まだ城から戻りません」
レオンハルトは顔を上げた。
答えようとしたとき、入口にいた護衛の手が上がる。
全員が口を閉じた。
外で、幾つもの靴底が土を踏む。
戸口の護衛が扉へ寄り、別の護衛が窓の脇につく。三人目はレオンハルトのすぐ横に残った。
「東門の兵は、中にいるな。全員出てこい!」
城の近衛だった。
女の手から、布が滑り落ちた。
若い兵のそばへ屈んだまま、扉を見ている。
レオンハルトは立ち上がった。
「私が話す」
年長の東門兵が腕を伸ばした。
「殿下を捕らえに来ているのです。お出になれば――」
「中には、歩けない者もいる。ここへ踏み込ませるわけにはいかない」
王子は、そばの護衛へ顔を向けた。
「一緒に出てほしい」
護衛がうなずく。
扉を少し開き、外を確かめてから、自分の後ろへ王子を通した。
*
「殿下……」
倉の前にいた近衛兵の槍先が、わずかに下がった。
その目に浮かんだ驚きを、レオンハルトは見逃さなかった。
「怪我人を運び出したい。兵を下げてくれ」
城の近衛を率いる男が、部下を押しのけて前へ出た。
「王命により、お連れいたします。護衛も武器を捨てよ」
「東門の隊長を釈放してほしい。兵たちは持ち場を守っていた。何のために捕らえた」
「城で、陛下にお尋ねください」
男が後ろへ合図した。
近衛兵の手が、王子の腕へ伸びる。
前にいた護衛が、その手首を取った。
短い呻き声。近衛兵の体がねじれ、片膝が土へ落ちる。
「殿下に触れるな」
金属の擦れる音がした。
別の近衛兵が剣の柄を引く。
刃が鞘から出きらぬうちに、王子の左を守る護衛が踏み込んだ。腕を押さえ、肩から倉の壁へ叩きつける。
レオンハルトの右側を守る護衛は、王子の前へ半歩出た。
捕らえた相手を追って王子のそばを離れる者はいない。
次に伸びてくる手を遮れる位置に、三人とも留まっている。
「槍を――」
近衛を率いる男の声に、頭上からの風が重なった。
ソレインが通りへ下りる。
巨体の着地に土が跳ね、近衛兵たちが槍を引いた。踏み潰されまいと退いた兵が、後ろの仲間へぶつかった。
アドリアンは手綱を握り、王子へ近づこうとする兵を見据えた。
「そこから先へ進むな」
もう一つ、倉の上を影が滑った。
シルヴァに乗るリゼリアが、扉の奥へ声を上げる。
「怪我人を外へ! 門から離れた草地で休めます!」
使者が倉へ駆け戻った。
東門兵たちが担架を持ち上げる。戸口で一度つかえ、角度を変え、ようやく外へ運び出した。
竜の民の女も、水と布を抱えて後を追う。
近衛兵の一人が動きかけた。
ソレインが前足を地に叩きつけ威嚇する。
男は天馬の目と前脚を見て、足を止めた。
レオンハルトは、護衛の間から担架を見送った。
倉の前を空けるつもりはなかった。最後の怪我人が出るまで、ここで近衛を止める。
*
担架が草地へ運ばれてくると、ポルフィラは立ち上がった。
敷物の端から荷を寄せ、運び手へ場所を示す。
「ここへ。ゆっくり下ろしてください」
包帯の赤黒い染みに、目が吸い寄せられた。
まだ血の気の戻らない、若い顔。
水袋を取る。
左腕では支えられないため、荷の上に置いて栓を外し、右手で女へ渡した。
緑がかった髪の女は受け取ったものの、すぐ後ろを見上げて動かなくなった。
オブシディオンが、運ばれる人々を見ている。
〈助けを求めていた人たちなの。ここで休んでもらうわね〉
〈分かった〉
ポルフィラは竜の鼻先に触れ、それから女へ向き直った。
「ここで手当てを続けてください。彼にも、話しました」
女の唇が動いたが、声は出なかった。
水袋を握り直し、担架の横へ膝をつく。
布を濡らす手は震えていた。それでも、兵の顔を拭くときには、そっと力を緩めていた。
ポルフィラは次の担架を迎えるため、敷物を広げ直した。
体をかがめすぎると、脇腹が引きつる。荷を運ぶ東門兵に重い物を任せ、自分は水と布を手渡す。
オブシディオンの頭は、その手が届く近くに伏せられていた。
*
城へ戻った近衛兵は、片膝をついて報告した。
「レオンハルト様が東門の外に。アドリアン様と、インディルの天馬の騎手もおられます。東門の兵を、外へ逃がしております」
「竜は?」
王の問いに、近衛兵は一度唾を飲んだ。
「門から離れた草地です。負傷者は、そちらへ」
控えていた家臣が、弓兵を出すかと尋ねた。
王の目が鋭くなる。
「出すな。竜に見つけられれば、兵ごと焼かれる」
フェリクスの一団が消えた林道。
息子が送ってきた手紙には、娘が呼び戻そうとしても、竜は戻らなかったとあった。
王は近衛兵へ向き直る。
「息子は、倉の前にいるのだな」
「はい。我々に兵を下げるよう求めております」
王は肘掛けを握った。
城へ帰っても来ない。
王都のすぐ外で、自分の近衛を止め、人を逃がしている。
「ノクスを連れてこい」
家臣が顔を上げた。
「陛下がお出ましに?」
「私が行く」
王は立ち上がり、扉へ向かった。
庭では、足音を聞きつけたノクスが首を上げていた。




